◆元服の書 ③ 悩むなら悩む間の3分間、独りポッチ禅でもしてみるか・・

元服の書 ③ *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

この禅語録(禅者の一語/禅のパスポート)意訳・・独りポッチZENの参考にしてほしいだけ・・どうぞ、仲間をつくらず、批評をせず、独りポッチの坐禅の礎にしてください。

 

坐禅を、集って行うのはお薦めません。釈尊であれ、達磨であれ、盤珪良寛であれ、独り一人、それぞれの禅機から悟りにいたっています。よく禅寺(僧堂)で師家方の指導で、集団の雲水さんの坐禅を見ますし、一般の方々の坐禅会や、写経会などありますが、私は、繰り返して言いますが、お勧めしません。

どうしてか?・・禅は、独りだけの坐禅の自覚(直観)でなされるものですから、誰かの指導とか、教示とか、知識とか、仲間とか・・周囲へのこだわりがあればあるだけ、妄想(迷い)が湧きます。まして社会は、基本的に、国家、会社、社会そのものが利権であり、家庭の夫婦、親子ですら、動物的本能に根差した、自己利権を根に持って生きている動物です。欣求宗教、哲学と言えど、個人と社会の関わりあい・・葛藤(かっとう)軋轢(あつれき)を解決できるものではないのです。制度や仕組み(社会)の中に生きていると、どことなく落ち着いた気がするものですが、スマホをピコピコしている間ダケで、決して本当の「安心」にいたりません。

まして、坐禅は、それを行うことで集中力が醸成されるとか、意思力がつくとか・・何か効用効果が出てくるとか・・そんなご利益(ごりやく)を期待しても、実際の役にたちません。

もし、何か成果があるとすれば、それは禅ではないのです。肉体的、精神的鍛練や、社会的な保護の中にあるだけにすぎません。

むしろ、何の効果効用を期待しないし、できない独りポッチ禅であればこそ、アナタ独りの本当に大事な行いなのです。

タッタ3分間、独りポッチで、ゆっくりした1呼吸10秒程度の数息で18回・・ヒト―ツ・・フターツ・・と数えるだけの坐禅・・目を半眼にしてイスに姿勢を正して坐るだけ・・寝る時の寝禅、トイレの禅、お昼の休憩禅、通勤電車中の立禅・・出来る時に行ってみることです。何かに悩んだり、腹が立ったり、苛立ったり、気に入らないことが起こったり(思春期はとりわけチャンス)そんな時こそ、アナタの心は、タッタ3分で良い、椅子やトイレに坐ろうと、芝生や布団に寝ようと、タッタ呼吸18回のZENをやってください。簡単でも、ナカナカできませんよ。

出来ない時でも、失敗したな・・の想いは捨て去ること。

寝禅など、慣れれば、すぐに寝入ってしまいZENにならなくてよいのです。それでいいのです。コダワリが一番、禅に良くないのです。テレビやスマホ・・映像や音楽、雑音・・お線香や念仏・・みんな「3分間独りポッチ禅」には要りません。

釈尊(仏教)は、その教えを広める前、長い間・・独り坐禅をされて、暁の明星を看て大覚されました。

禅は、哲学や宗教でありません。禅は、何時も、どこにでも独り一人の中に、チャンと・・あります。

(昔は、圧政を逃れた寺僧の生業ナリワイの中で継承されましたが、今や、観光禅になりはて、禅モドキの利権になりました)

損得ないのなら、無駄を承知で、3分間だけ、やってみようか・・と思う・・そこにのみ、本当のZENがあるのです。

気づかないだけですから・・。(次回、盤珪さんの「不生禅」を紹介します)

折あれば、千年昔の禅者たちの生きざま語録・・はてなブログ「禅者の一語」「禅のパスポート」ご覧ください。

元服の書②「喫茶去・・キッサコ」

元服の書② はたして卒業証書で「アンパン」は買えるか?

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

書写山(しょしゃざん)の写僧正(しゃそうじょう)、茶を点(たて)て飲みたくて・・お茶たちょ茶たちょ、チャットたちょ、茶たちょ、青竹(あおだけ)茶筅(ちゃせん)で、お茶たちょ、点(た)ちゃ】

江戸時代1725年頃こんな言い回しが歌舞伎で流行りました。

男女間の愛情や、性の問題・親子間・学校の虐待、いじめ・・禅の語録には、どのように解決するべきか書いてありますか?

結論=ありません。昔は皆、貧しくて助け合わねば生きてゆけなかったようです。

でもヒントは「イマ・・ココ」が大事と書かれています。

禅語「喫茶去」キッサコ(お茶でもどうぞ)にちなんでお話しします。

この茶飲みごと・・これは言うは易く、行なうに難(かた)きことです。

禅に・・「生死事大(しょうじ じだい)無常迅速(むじょう じんそく)光陰可惜(こういん おしむべき)時不待人(とき ひとをまたず)」の言葉があります。

覚者・釈尊仏陀)の教え・・宇宙で唯一つの遺伝子を持つ(唯我独尊)若い貴方にも、老病死苦は必ずやってくる。

しかし、努力していても・・どうして安らかで幸せな人生にならないのだろう・・愛や性の問題や、虐待、いじめ、試験・・など、あるいは、事故や災害など、自分一人では解決できないことが襲い掛かってくる毎日・・老病死苦の悩みは「今・・此処(個個)」に徹して生きることでしか救われない!・・禅は・・悩みや苦労を、そのまんま、ひっくり返して 安心やピチピチした生活にしてしまいます。

でも、これは言うは易く、行うことは大変むずかしい。

 

たいていの人は・・おそらく3~40年、禅に関心を持ち「3分間独りポッチ禅」を提唱している、この私を含めて、大悟徹底できる人はいないのでないか・・と思います。

いるとスレバ・・例えるなら釈尊やキリスト、親鸞さん位かな。

もし、路傍にお姿を拝見したら、そのオーラとやらに打たれてヘナヘナと坐り込み、薄らハゲジジイの私はボロボロ泣いてしまうことだろう(モチロンその他に尊敬する人はいっぱいいるが・・)

 

達磨(だるま)さんが、紀元520年頃、インドから中国、広東に海路、上陸して「禅」を伝え・・梁の皇帝(武帝)に語った・・その最初の言葉は・・ZENは「無功徳(むくどく)」である・・つまりご利益(りやく)、効能はありません・・だった。

ズバリ・・経文や書物は薬の効能書きにすぎない。いくら効能書きを読んで知識を増やしたところで病気は治らない(風邪をひいたら、温かくして寝ているのが治療に一番だそうだ)その病気が治ったら、薬も効能書きも、もう役立たずです。学校の卒業証書なんか、見せびらかしてもアンパン1個買えません。

 

このように、解かっていても心の問題はナカナカ解決できないのは・・どうしてか。

それは考えや想いに、比較や価値をつけすぎて、自分が自分を「裸の王様」に仕立て上げているからです。

例えば、餓死する子供が何万人もいて、それでいて、ICBMや核実験を繰り返す北朝鮮将軍様がうらやましい・・と思うのなら、この奉魯愚、役には立たないでしょう。

価値とは何だ?真実とは何だ? 

それは・・アナタが自分一人で見つけ出し納得しないと自分の身につかないのです。

学校の勉強の大半が、記憶させることが教育だと信じている先生がいますが大間違い。記憶や分析はPCやスマホの方が得意です。アナタは、そんな考えの、他人任せの勉強はほどほどにして、本当に自分が好きで、打ち込める勉強や仕事をしてください。

学問は、文字通り「学ぶ」こと・・と「問う」ことの相互作用です。学学=ガクガクばっかり・・問うこともできない・・問問=モンモンとした、息苦しい勉強は学問ではありません。ホントに「学と問のできる」良い先生を見つけて、イロイロ質問しながら楽しく勉強のレベルをあげてください。

好きこそモノの上手(じょうず)なれ・・ですヨ。       

◆般若心経の写経は、効能書きの筆写です。その時間だけ、集注して救われた気がしても、その後、チョット試験の結果が悪いだけで、もう世界が絶滅する位の落ち込みようです。

「無心」になる・・心の解決法(手立て)は、全く役立たずの「3分間独りポッチ禅」だけです。

言うは安く・・といいましたが、この外郎売り・・スラスラ3回続けて言ってみてください。

◆【書写山(しょしゃざん)の写僧正(しゃそうじょう)、茶を点(たて)て飲みたくて・・お茶たちょ茶たちょ、チャットたちょ、茶たちょ、青竹(あおだけ)茶筅(ちゃせん)で、お茶たちょ、点(た)ちゃ】

歌舞伎十八番 外郎売(ういろううり)早口の一部・・三百年ほど前の、2代目市川団十郎・・凄い発想、創作力に脱帽します)

 

どうですか・・自分の口先、滑舌(かつぜつ)ひとつ・・ナカナカ簡単にはいかないでしょう。

それでは・・私も「お茶たちょ、茶たちょ」で、お茶でも飲むとしましょう。

・・アナタの質問の答えになっているはずですが、どうでしょうか。

 昔、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん 778~897)という禅者は、どんな悩みの求道者が訪ねてきても「マアマア・・お茶でもおあがり」の一語で済ましてしまったそうです。 

有(会)難うございました。 

 

◆元服の書 ① *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書きました*

         ◆arutoomouna・・親と金 !

                           naitoomouna・・運と災難!

仕事の時や、寝る前など・・3分間独りポッチ禅では、数息や公案を、どのようにして思いやれば、よいのですか・・

 

◆不安な心をなくして、安心な心になりたい・・

受験に失敗したくない・・スポーツで入賞したい・・

それぞれ人は、生きる出来事で、希望や欲望や悩みは、すべて、そ

れぞれ「独り」の行いです。誰でもが同じとか、等しいとか・・そ

んな出来事があるはず・・と思いがちですが、一切ありません。

どだい貴方はアナタを構成する遺伝子からして、この広い宇宙の中

で、ただ一つのかけがえのない「生命」なのです。

(科学的にも、哲学的にも。宗教的にも)

 

◆「赤信号、みんなで渡れば怖くない」・・これが共同体社会や想いの根源!

それを、さもさも共通性をもたせたり、愛憎に度合いも持たせたり、金銭や、偏差値などの数値の比較をして、優劣をつけ、一般化、常識化て・・それで安心したり、悩んだり、いじめたり、社会的な制裁をしたりします。いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」方式です。(教育も画一的になりました。昔の松下村塾や寺小屋などのシステムが、個性を重視していると思います。元服で12歳程度の少年少女が、社会の恥とならないよう「死」の覚悟=切腹の真似事を、親兄弟の前でして巣立ちしました。  

 *お父さん方・・お母さん方・・昔は子供の2人に1人は、ペニシリンや 

  救急車もない、病気や事故で、すぐコロリと死んでしまう暮らしで

  した。今より愛情豊かに子育てしています。子供の教育は、学校の仕

  事ではなく親の責任ですよ(坐禅は親御さんが先に行う必要がありそ

  うです)

それで・・まずアナタに云いたい・・宇宙でただ一つの遺伝子を持つ「天上(てんじょう)天下(てんが)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」という・・言葉の意味が(仏教、釈尊だからではなく)涙が出るほどに確信できるまでは、教科書や本、新聞など活字媒体を参考にするだけにして・・(漫画やスマホ、PC検索、親の言うことなど・・など、二の次の意見参考にして)自分の生き方や、思うことどもを、まず独り自分で見返すことです。

アナタが本当に、やりたいことの為に努力する姿は、必ず、認めてくれる人たちがいます。

 

◆不変の社会的な真実とは【あると思うな「親と金」・・ないと思うな「運と災難」だけです!

この昔からの伝承がアナタの「独りポッチ」を支える心の支柱となりましょう。

現在、中学生や高校生の貴方には、青春のワガママ(自分の思うままになるの意)自分中心の疼きの中で生きているので当然ですが、頼りとする親や金は、有るに越したことはないとも言えます。でも、時に、自分(独り)の大切な人生を狂わせたり、足かせになったりする根源なのです。むしろ幸運や不運は、まさか自分にあり得ないと思うこと(ラッキーより不幸な出来事の方)がアナタに襲いかかる方が多くあります。幸いにも、今の日本は、文句を言わなければ、食べて暮らせる条件がそろっています。必ず、苦労や悩みに耐えられるアナタのはずです。

◆アナタが「孤独・・独りポッチ」を感じた・・その時こそ・・アナタだけの遺伝子が、密かにアナタに訴求しているシグナルです。それを、しっかりと受け止める受像装置が大事です・・それが「独りポッチ禅」です。

お昼の時間帯では、仕事や勉強、スポーツや趣味など・・当面していることに一生懸命にやってください(昔は一所懸命と書きました・・今、していることに集中して努力するの意)

途中、イロイロな思いや、イライラする気の散る出来事があるでしょう。無理もありません。独りポッチ禅を提唱している私ですら、仕事でも、夢の中でも「アアだ・・こうだ」と振り回されています。実はそれが当然なのです。それでもいいのです。悟れば、無念無想・・禅者は快川和尚(かいせんおしょう・恵林寺)のように「心頭を滅却(めっきゃく)すれば火 おのずから涼し」と頌(じゅ)して、織田信長に火をかけられた本堂の真ん中で、坐禅を組めるほど人間ができあがっておりません。むしろ、あまりの熱さに、師と殉死しようとした弟子の幾人かが逃げ出したので、この有名な禅語「火もまた自ずから涼しい」の一語が伝えられました。わが師、円覚寺、焔魔堂の弓和尚と言われた、故、須原耕雲老師は、弓を引く三分間、禪心であること・・動中の禅が、ソンナに容易に出来るものでない・・と言われたことがあります。南禅寺の故・柴山全慶老師は「自己を境に投じて、境中に自己なき」を「覚(悟り)」とする・・と「十牛図」の解説で言われています。

◆大事なのは、静中の坐禅や動中の工夫で、雑念が起り妄念が起り、連想、増幅するのを「こだわらず・・そのままに放置して」・・放っておくこと・・です。

 

連想して次念を振幅、増幅させないことが、一番、必要なことなのです。迷いと悟りの差は、自分と仕事、勉強。公案と自分などがバラバラになって2元的に相対してしまうことが「迷い」なのです。いたるところ、3分間独りポッチ坐禅が、こうした迷いや悩みを消滅してくれる・・実地訓練です。

水泳でも、本や、畳の上でいくら勉強しても、実際は、水に入って自分が努力しなければ上達できません。先生や指導者がいくら言い聞かせても、何事も「まずアナタ独りの覚悟」ですよ!

要は、うまく出来ないことを、あれこれ言い訳する自分に気づくこと・・それがポッチ禅の「何にも、これっポッチも役立たない坐禅」の押さえどころです。何年何十年も、3分間ですらナカナカ坐禅出来ないでいる・・その自覚が・・般若心経の「顛倒(てんどう)夢想(むそう)、究竟(くきょう)涅槃(ねはん)」・・色即是空(しきそくぜくう)の真意であると思います。

くれぐれもスマホに現(うつつ)をぬかす事のないよう、妄想を振幅させない厄除けとして、碧巌録や無門関、私の奉魯愚「禅者の一語」を活用してください。

*禪、臨済宗 恵林寺・・山形県甲州市 風林火山の甲斐、武田信玄菩提寺・・         

快川紹喜(かいせんじょうき 1502~1582)織田信忠の軍による焼き討ちにあった際の禅者の一語(偈)「心頭を滅却すれば・・」は、中国の、誰かの公案の頌の一部を、この時に引用した、いわゆる中国の禅者の(頌・・禅境を述べた詩)コピペであるが、火定(かじょう)・・火あぶりの最中に、この一語をもってしたのは、さすが快川紹喜である。コピペもこれ位の覚悟があれば本物だ。

年取ると、ソンナ云く因縁の頌、出典を忘れてしまういずれ調べます。

*ついでに思い出話をひとつ・・円覚寺に寄宿して大学に通っていた昔、松竹映画撮影所(大船)で笛吹川(1960年。深沢七郎原作モノクロ)・・木下恵介監督の撮影で、この快川和尚と弟子たちの火定シーンに、修行中の雲水たちの応援出演の依頼がきた。これは修行のチャンスとして、本堂セットの回廊に、ズラリ、本物の禅僧が居並び坐禅三昧になる中、火がかけられ、監督のカット、OKの声で消火される手筈が整えられた・・のだが、イザ本番・・スタートの声がかかり、居並ぶ坐僧の周囲に火がつけられると、あまりの熱さにたまらず、あっという間に本物の坐禅の雲水たち、逃げ出していなくなった。後で寺に帰って、ススで汚れた雲水さんたち、昔の快川和尚以下、弟子達の根性(覚悟)にひどく感心していた。その頃の管長は朝比奈宗源老師。当時の修行僧たち、今まだ存命しているはずだが、どこぞの禅寺で、どんな顔をして、公案心頭滅却」や「洞山無寒暑」を教導、提唱しているのだろうか・・何故か苦笑いしたくなるような・・思い出である。(2018年1月29日追記)

*わかりました。碧巌録 第43則「洞山寒暑回避」評唱にありました・・黄龍の死心悟新和尚、拈提していわく・・「安禪は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」・・出典 詩人、杜荀鶴の転結二句。起承の二句「三伏 門を閉じて一衲を披(ひら)く、兼て松竹の房廊を蔽(おお)うなし」に続く。(加藤咄堂先生 碧巌録大講座 第6巻 昭和14年(株)平凡社刊)

*奉魯愚「禅者の一語・・碧巌録意訳」「禅のパスポート・・無門関(素玄居士提唱 意訳)」おりにご覧いただくと幸甚です。

     有(会)難うございました。(2月1日 タイトル「元服の書」その①としました) 

 

碧巌録と無門関、同じ意訳でも、内容や言い方にヒドク差がありますが、どうしてですか

碧巌録には、本則中に垂語(すいご)偈頌(げじゅ・・内容解説、短い注意、感想)とか、評唱(ひょうしょう)著語(ちゃくご)下語(あぎょ・・寸鉄の批評)など、後の世代の禅者たちの批評がいっぱい書かれています。学問として「禅」を学ぶ人には、ワイワイと語り合うのに役立つでしょうが、純禅に、誰彼の学説、批評は不要です。

普通の生活の中の坐禅の時に、かえって想いや思考が増幅して迷います。

また禪を誤解する元になりますので、できる限り枝葉は切り捨てました。その結果、随分と見晴らしのよくなった禪(公案)の紹介ができました。また、「無門関」は、昭和初期10年代に活躍された素玄居士(高北四郎)提唱の意訳です。

はてなブログ 禅のパスポート・・紹介中)

戦前・・「禅は宗教ではない」・・と喝破された素玄居士絶版の1冊(狗子堂発行、昭和12年東京市王子区)を、出来るだけ原文のまま、直に、味わってもらいたくて紹介しています。本来、禅を提唱する者は、自身の「見解(けんげ)」=悟りの境地を1則ごと披露するのが本当です。これがいつの間にか、師家と二人きりの密室に参じて確認しあうという秘密の相伝となりました。寺僧組織の運営事情もありましょうが、偽禅の横行する処となり、今や、祖師がたの書画、禅院拝観料で成り立つ観光禅のありさまです。

自分は,なぜ生まれたのか?

自分の価値とは何か?

死ぬということはどうゆうことか・・中学や高校生に解かる「禅」について千年前の求道者、必携の書を意訳しようと思い立って、出来る限り原文の味付けにこだわる次第です。ですから、アナタの好みや、寺僧、師家の解説に重点をおきません。しかも、この「碧巌録」と「無門関」は、読めば人生の悩みが解決する元服の書ではありません。たとえ3分間でも「独りポッチの坐禅」を続ける気付け薬にすぎません。それも、本当は「役立たず=無功徳」であること・・その覚悟さえあれば、坐禅は・・独り・・君のものです。

そんなつもりで、お愛想なく(そっけなく)意訳しています。

有(会)難うございました。 

 

座右銘(禅・・円覚寺 釈 宗演老師の場合)

久しぶりに古本を引っ張り出して、元旦、零時より読む。

釈 宗演 著「叩けよ 開かれん」京文社書店 昭和13年発行

昔々・・大学時代、神田の古本屋で購入した本だが、年なので,もう読むことはあるまいと・・即日、読了した。

中でも、ご老師の座右銘・・「客と接するとき獨處(ひとりお)るが如くせよ、獨獨(ひとりお)るとき客に接するが如くせよ」は、過年・・奉魯愚のどこかで使わせてもらったが、9条中の第4条だった。

夏目漱石が師事、参禅した、鎌倉、円覚寺の管長だが、骨が太いですね。昔の禅者は・・!。

今の自分を含めて、ヘナヘナ根性の現代社会・・訳文は不要で紹介しておきます。

 

1 早く起きて未(いま)だ衣を更(か)えざるに静座  (せいざ)すること一炷香(いちちゅうこう)せよ

2既(すで)に衣帯(いたい)を著(つ)けなば必ず神仏を禮(れい)せよ

3眠りは時を違(ちが)えざれ食は飽(あ)くに至(いた)らざれ

4客に接するとき獨處(ひとりお)るが如くせよ

 獨獨(ひとりお)るとき客と接するが如くせよ

5尋常(じんじょう)苟(いやしく)も言わざれ言わば必ず行え

6機(き)に臨(のぞ)みては譲(ゆず)る勿(なか)れ事(こと)に当たっては再思(さいし)せよ

7妄(みだり)に過去を思う勿(なか)れ遠く将来を慮(おもんばか)れ

8丈夫(じょうぶ)の気を負(おお)い小児(しょうに)の心を抱け

9寝(しん)に就(つ)くとき棺(かん)を蓋(おお)が如く 褥(じょく)を離(はな)るるとき履(リ)を脱(だっ)するが如くせよ

*①静座、1炷香・・線香をわざわざ立てるに及びません。

 ②神仏を禮す・・坊さんは必ず・・と注釈あり。以上・・宗演老師の附記あり

 有(会)難うございました。 

瞑想・ヨガ・・坐禅=独りポッチ禅のちがい

米国発瞑想法「マインドフルネス」と坐禅の違いを教えてください・・

瞑想で非行再発防ぐ・・女子少年院で導入・・以前、産経新聞の記事でストレスを減らし感情をコントロールする・・そんな記事、私も見たことがあります。

眼を閉じ、椅子に坐り、後ろ手にして、その手に小さなヌイグルミやフィギュアを持ち、手(触覚)のみに集中させるプログラムのことでした。

これは1979年、米マサチューセッツ大のジョン・カバットジン名誉教授が仏教の瞑想法を応用して開発した。「今、この瞬間に意識を向けること」や「気づき」といわれる「呼吸瞑想」ゆっくり足の感覚を確かめながら歩く「歩行瞑想」など、一つことに集中するのは、ストレスの低減や、感情衝動のコントロールに効果があるとされる。米、グーグルやアップル、金融大手などの他、スポーツ界でも、集中力UPが検証されており、脳科学の研究も始まっている。そんな記事でした。

集中している状態を禅では「三昧」ザンマイといいますが、いいことですね。

日本では、昔から、写経とか、書道とか、茶華道弓道、柔剣道など、瞑想以外に「道」といわれる心・技・体の修練がいろいろあります。

職人や匠人(たくみ)の伝統的な作品は、すべて、この集中力が昇華したものだと考えます。

ただし、この三昧の状態を、禅の悟りとするのはまちがいです。

「悟り」は、生活の行い・・そのものの中にあり「坐禅」は玄関に立った状態ですから、母屋にどっかと座るまでは安心してくつろげません。

ですから・・瞑想法など、人から教えられ学んで行う心身修行、苦行ではなく、出来るだけリラックスして、楽しく面白く瞑想オタクも結構・・続けてください。

そして、その上で、宗教でも、哲学でも、倫理でも、医学でも、解決のつかない「人生への問い=真人(しんじん)=真実の人間とは何か?」に突き当ったら、そこからが、貴方ひとりだけが一人で行う、誰にも学べない、教えられない三分間「独りポッチ坐禅」に、自分で自分が入門なさるといいでしょう。

注意すべき点は、瞑想は、姿勢を正して目を閉じますが、坐禅は、眼を半眼にして行います。瞑想の時の「何か手に物を持つ」ことや、ヨガの不自然な体形での集中法はお勧めしません。

そして、ひとりポッチ禅は、千年前の禅語録「無門関」「碧巌録」など、寺僧の先達が修行に提唱した語録の「?」と思う一つの公案だけ、思い返し、練り返し・・解決のない・・役立たずの問題として考えるのです。

道元さんや一休さん良寛さん、おそらく、比叡山法然さんや親鸞さんなど、坐禅をなされたことを、アナタも、独りポッチで、すぐにやってみましょう。

フト、人生に寂寥(せきりょう)を感じられたら、坐禅なさったらよろしかろうとお奨めします。

 

この役立たずの奉魯愚で紹介する「碧巌録」や「無門関」の意訳、どこからでも流し読みしてください。

モトモト・・無門関は、門のない関所の意です。

*お奨めする「独りポッチ禅=三分間ひとりイス禅」は、この昔からの禅の最重要禅語録「碧巌集」ですら、余計な知識として、昔、焚書された経歴がありますから、参考に読み散らして忘れよ・・とする次第です。ただ、納得できないアナタの「疑団」だけは、坐禅の集中の縁(よすが)として、拈弄(ねんろう)なさることです。

「役立たずの坐禅」と言われますが、役立たずと云う「役」に立っているじゃないですか・・

役立たずの「独りポッチ禅」は「執着する心」のアカ落し!   

提唱する「三分間独りポッチのイス禅」は、自分が「面白いか(楽しいか)」または、自分に「得か、役立つか」・・の観点で、行なうよにしたら、これは、まったく的外れ。一切、役立つものではありません。

自分にとって「役立たず」の、箸にも棒にもかからない、そんな三分間・・イス禅であればこそ、いずれは必ず、禅語でいう「無所得=無尽蔵」の世界が開けてくることになるのです。

(イヤ、こんな功徳のありそうな言葉は必要ありません)

また、釈尊が言ったとか・・〇○宗のえらい?坊さんが言ったとか、経典や哲学書に書いてあるとか、尊敬する指導者が導いてくれた・・とか・・著作や漫画、スマホに救われた・・など、対外的な情報による価値観・・これは、自分が創ったものではありません。他の人の経験、知識ですから、参考にするだけで、後はこだわることなくズバリ捨ててしまいましょう。

通販で「私は●◆でこんなに痩せた」と、経験CMに釣られるような、坐禅や瞑想はおやめなさい。

効能書きを読んでも、病気はなおりません。そして薬で病気がなおったら、薬も効能書きも、もう必要ありません。何にも役立たない坐禅であればこそ、釈尊は悟りを得られ、坐禅や瞑想が現代まで続いているのです。

生活の生業、手段や、利権欲望の中に入った瞬間、真の禅・坐禅は消滅します。

だから、独りポッチのイス禅をすすめます。

 

碧巌録の時代から、さらに千年分・・すさまじい知識・文化・・情報が私たち、一人一人に押し寄せています。二十四時間、すきまなく情報の見えない電波にとりかこまれています。もし電波が筋になって見えたら、網目のような、あまりの多さに、どうにかしてくれと言いたくなることでしょう。

こんな過剰な情報は頭脳にとって整理しきれず、一度仕込んだ情報も捨てきれず、千年昔・・臨済のいった・・君の体(面前)から「一(いち)無位(むい・依)の真人(しんじん)」=何事もコピペしていない本当の私(真人)が、四六時中、出入りしているぞ・・それがワカラナイない者は、今すぐに看よ」と迫る言葉が響いてきます。

社会的情報、CM、知識が上書きされ、分別判断のペンキで塗装された頭脳には、自分の悩みまでが他人事のように思える始末です。

この想いやこびり付いた執着のアカをそぎ落として、コピペでない真人(シンジン)を発見する行為・・こそがポッチ禅です。

注意すべきことは、もうこれ以上、誰にも、団体や本にも、スマホにも教導されたり頼ったり、金を払ったりしないことです。

組織的な社会生活は、必ず利権の温床となる宿命にあります。

チョット何かの教えを乞うと、もう、落とし難い「執着」のアカが付きます。

チョット他に頼ると、まるで(情報・知識)の全面降伏の有様。まるで中毒患者の症状になってしまいます。

この私の奉魯愚も・・流し読みして、あとは自分だけで「三分間ひとりイス禅」・・密かに、そっと続けてください。

毎日の悩みや想いの「垢おとし」・・それが坐禅です。

はてなブログ「禅者の一語」「禅のパスポート」ご覧ください。