至道の禅語⑵平常心・・誤解誤訳だらけの偽造禅語・・その代表例

至道の禅語⑵平常心是道(へいじょうしん これみち)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:平常 是道(へいじょう ぜどう)とは?

試合前のスポーツ選手や試験日の学生が、インタビューで「平常心」で頑張ります・・などと言っている「平常心是道」の禅語は、紀元八百年頃、揚子江の南(安微省池州)の南泉(山)普願(なんせん ふがん748~834)に相見。参禅師事した趙州従稔(じょうしゅう じゅうねん778~897)の問答が起源です。

当時は玄宗皇帝、楊貴妃の時代・・爛熟腐敗の政治社会で、禅者と求道者は人里離れた深山幽谷の禅庵に遁れ、枯淡に暮らしていました。

南泉老師は、趙州従稔の禅機(見性のキザシ)が熟してきたとはいえ、公案ヒョウタン・鯰(ナマズ)」の、まるで、ナマズの尻尾の先が瓢箪に入らず、外に残っているような・・つまり瓢箪の口にナマズの尻尾が揺れているような不安定な状態を看て、ココゾとばかり、禅者の「平常心」の禅境地を語ります。

(見性は、釈尊以来、独りで覚真するものですが、求道者には師の生活言動そのものがヒントになっています。例えば臨済碌などは、師の黄檗とのやり取りや、他の禅院の達道の禅者との問答を通して、禅機禅境(地・・悟後の長養、修行)を鍛錬した行碌です。禅は、悟って安心・・それで済むような自己執着丸出しの幼稚な事ではありません)

趙州・・人の歩む道とは、どのようなものなのでしょうか?

南泉・・平常心がアリノママに道である。

趙州・・何か確固たる心得がいるのでしょうか?

南泉・・平常心は、これを保持(意識、造作)しようとスレバ離れていくぞ。

趙州・・でも保持できなければ道に添っているか・・離れているか覚(確)信が持てないのではありませんか。

南泉・・平常心は、知的(論理的)体験でもなければ感性(本能的)行動でもない。また不知は木石の如く死物にすぎず言句は仮の名であるし、それを造作する態度は平常心を失うことになる。

(疑いようのない)悟境。この道に達したら、お前さん自体がカラリとした青空の広がりである。いや、それすら透化して釈迦、達磨が来ても、ウもスも言えるものか(これ・・をお前さんが冷暖自知するのみだ)

趙州・・言下において頓悟(ヒラメキ・廓然洞豁かくねんどうかつの世界を体覚)した。

  無門曰く・・悟ったという趙州、まだ禅の臭みが抜けきれないぞ。

  瓢箪(ナマズ)の酒がうまくなるには、あと三十年位はかかるなぁ!

【平常心 これ道】・・平常、非常ともに忘れて体得した「禅による生活」を行う・・の意。

 

   出典・・無門関 第十九則 平常 是道 【本則】

   南泉 チナミニ趙州 問う「如何なるか これ道」

   泉云く「平常心 是れ道」

   州云く「かえって趣向(しゅこう)すべきや いなや」

   泉云く「向かわんと擬(ぎ)すれば すなわち そむく」

   州云く「擬せずんば いかでか これ 道なることを知らん」

   泉云く「道は知にも属せず、知はこれ妄覚。不知はこれ無記。

   もし真に不擬の道に達せば なお太虚(たいきょ)の廓然(かくねん)として

   洞豁(どうかつ)なるがごとし。あに、しいて是非すべけんや」

   州 言下において頓悟す。

無門曰く 趙州たとえ悟り去るも、さらに参ずること三十年にして始めて得るべし。

 

【附記】心でもない 形でもない 色でもない 光でもない 声でもない ハタマタ あるでもない 無いでもない 般若心経のナイナイづくし・・が納得できないと、禅者の平常心はわかりません。それには造作のない素直な3分間の「坐禅」(澄心・・澄み切った心)が大事です。この独りポッチの坐禅が、無造作に出来たら・・キット平常心が身に付きましょう。

はてなブログ 禅のパスポート 無門関 十九則 素玄居士提唱・・に、「無事有事の如く、有事無事の如し」の真意・・詳しく意訳しました。

平常心を持ちたい方は、是非 ご覧ください。 

禅語を紹介する諸先生、マスコミの方々へ・・

ヒタスラ/一所懸命/集中努力が「平常心」だと解説、理解するのは大間違いです。・・そういう誤解の意味内容で新語をつくるのは・・意味ないヨ~!

 

至道の禅語⑴無事是貴人(ぶじこれきじん)とは?

至道の禅語⑴ 

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

茶道の掛け軸に、達道の禅者が発した一語の書を見かけます。

また、外国の方(わざわざ日本まで訪ねてきて)や若者が、真意を知りたくても、どうすればよいのか・・わからない時代です。

無功徳とか、喫茶去とか・・日々是好日や隻手音声など・・

その解説のほとんどが、出典の語録、禅問答の由来などTPOが紹介されておらず、真意を測りかねる誤訳の多いのが原因です。

現代人が、それだけ漢文や、その漢文あればこそ・・の禅に、関心を持ちながらも、手が伸びないのは・・禅語録を読まない、読めない・・坐禅もしない・・禅が解からない者が、解かったふりの解説や講釈をやっているからです。

禅のパスポート/無門関(素玄居士 提唱)の意訳や、碧巌の歩き/碧巌録の意訳を、この「はてなブログ(奉魯愚)」でしている私宛、タマタマ上記の「無事是貴人」の問合わせがありました。

これを機に、五百年、千年前の禅者たちが、求道し体得し、その生涯のヒトコトを世に残した「至道の禅語」を、順不同で紹介していきましょう。

禅は、宗教やストレス解消の欣求的(求め願う)思考、対策行動ではありません。もともと「独り一人」に、生まれた時から備わっている「イノチ」そのものです。

ただし、坐禅をすることでしか、発芽してくれません。

釈尊ですら六年の坐禅の後、暁の明星を看て、大覚(見性・悟り)されました。悟りを得たい・・とか。悩みを解決したい・・とか。苦しみからのがれたい・・とか・・そうした執着心やゴリヤク、効能を期待するタカラクジではアリマセン。損得を忘れた「役立たずの坐禅」であり、指導者や本や組織、寺僧、教会いらずの「独りポッチの坐禅」に終始します。

姿勢を正し椅子に坐り、眼を半眼にして、1呼吸10秒前後、6回(1分位)数えること計3回=数息(スウソク)すれば・・「3分間の坐禅」です。

簡単ですが、ただし・・容易に出来るものではアリマセン。時に寝る時、起きる時、トイレの時、電車の中、夫婦げんかの中・・やれるものならやってごらんなさい(ただし独りポッチで・・同好会厳禁・・造作ぬきの役立たずデネ)

大事なのは、時折り、意識をよぎって気になる・・意味不明、納得しかねる「禅語」です・・

どうしてかワカリマセンが、発芽する種が、雨季のくることを予知して、うずきだすような出来事です・・

「どうして この禅語が気になるのか」心に引っかかること・・これこそホントの一大事です。

一つの禅語で充分・・3分間の数息坐禅・・にかわって「禅の一語」を公案(問題)として、解釈、勘案してみてください・・

決して正解(答え)を出そうとアガカヌこと。

「あゝでもない」・・「こうでもない」とこねくり回して、ズットこねくりまわす・・

コネクルそれだけ・・です。

時に、5年後か~10年後か~気が付けば・・3分間が30分に・・3時間坐禅に・・

こうした、こねくり回しが、ただの浮かんだ雲のようになることでしょう。

Q:無事是貴人とは・・?

禅(による生活)は、純粋無雑に己の本性、真性を純一に見解することにある。師や教本にたよらず、造作することをやめ、執着・妄想を厭離(おんり)して、天地(萬物)と一体(天地同根)となれ。

己以外に、佛(禅)を求めるな。

心即佛(禅)・・これを無事の人。

造作(心、物事両面で計らう行為)なければ、佛(禅)も不要(貴人)となる。

佛(禅)とは何だ、ただの名句(文言)じゃないか・・

(錯(あや)まり了(おわ)れり。佛はこれ名句なり)

夜空の星と云っても、恒星は、それこそ星の数だけ、それぞれにあり、人といっても、現在七十億ですか・・それぞれ、独り一人が生きている。

これを科学的にと云い、哲学と云い、歴史と云い、文化的に・・と総括して十把ひとからげに評価、分別したところで、己ひとりにしかない遺伝子を、共通平均化してしまう訳にはいかない。

佛(禅)は、この自性をハッキリ自分で手づかみすることです。

何ものが言い張り、何ものが歩き、何ものが怒り、笑い、死んでいくのか・・少し坐禅してごらんなさい・・

怒りながら飯を食い、歩きながらスマホを見る幽霊ビト(依存症になる)など馬鹿らしくなりませんか。

【無事是貴人】

 天地同根の禅者こそ 貴人と呼ぶにふさわしい・・の意。

この解説の原文(出典)は、臨済録 云何是法(以下略記)に記述してあります。

師、衆に示して云く、切に真正の見解を求取(ぐしゅ)して、この一般の精魅(せいみ)に惑乱(わくらん)せらるることを免れんことを要す。

無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平等なり。

汝、外に向かって求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)をもとめんと擬(ぎ)す。

錯(あや)まり了(おわ)れり。

ただ佛を求めんと擬す。佛は是れ名句なり。

汝 かえって馳求(ちぐ)する底(てい)を知るや。

古今、参学の人も、また ただ法を求めんがためなり。

法を得て始めて了(りょう)ず。

如何なるか是れ法。法とは是れ心法(しんぽう)。

心法は形なくして十方に通貫(つうかん)し、目前に現用(げんゆう)す。

人、信不及(しんふきゅう)にして、すなわち名を認め 句を認め、文字の中に向かって佛法(禅・坐禅)を意度(いたく)せんことを求む。天地ハルカに殊(こと)なり。

  臨済義玄(~867 黄檗希運の弟子 臨済宗 開祖)

  *釈迦(シャカ/能忍。大慈大悲の意)

     牟尼(ムニ/寂黙。大智円満の意)佛(ブツ/覚者。禅者の意)

  この佛教を行脚して説示されたゴーダマ・シッダルタ尊者を釈迦牟尼仏釈尊)と呼ぶ。

元服の書⑱ フンコロガシの如く・・

元服の書⑱ 

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

Q人を殺して何故、悪いんですか。

人生イヤになったら、自殺してもイイでしょう。

どうせ自分の命、勝手ですから・・

子供たちに、アメリカの青少年にちなむ殺人事件にからんで質問されても、明確に答えられない親や教師、学者、宗教界に対して、私は危惧感を持っています。

そして「手(労力)・間(時間)」をかけないAI(スマホ・・電磁的文化)社会に浸食されていく・・それを進化と自賛するかのような風潮に、自分が自分を破滅させていくガンに侵されたような気持になるのです。

何故 人を殺して悪いのか・・

自己中の傲慢な考え(思い)に反論します。

アナタが・・自分の意思(思い)だけで、自分の心臓の鼓動を止めることが出来たり、口を閉じて呼吸を10分以上止められる方なら、その人殺しをなさる前に、どうぞ・・自殺してください。

どうぞ、ご遠慮なく、他人を道連れにせず、ご自分だけで自殺してください・・。

もし、やろうとしても、自分が死ぬための道具立てを準備しなければ「自殺」も出来ないように、人間の体はなっています。

呼吸も心臓も(アナタの命はアナタの意思に関係なく、アナタが生きるために)鼓動し、呼吸するようになっているのに・・アナタは、他人(の命)心臓を止めてもいいと云えるのでしょうか。

自分の意思に関係なく・・生まされたから・・勝手でしょう・・自由でしょう・・という傲慢な考え(思い)に反論します。

この地球上の・・どの生物が、そんな自分の意思(思い)で生まれたり、死んだりしていますか。

「自由」の字は、自(おの)ずから由(よし)と書きます。「自分」とは、自ずから(他)と分ける意識です。アナタがワガママに好き勝手にしてよい・・とか、心臓や呼吸を止められる・・とか・・いつたい、どこから、ソンナ思いを教えられ、学び、信じたのですか。自分が死にたい・・と思っても、自分の心臓や呼吸は、止めようにも止まりません。反対に、アナタはアナタの心臓や呼吸が、百年も二百年も、他人以上に続くように希望しても、アナタの心臓や呼吸は、アナタの願いむなしく、止まるべき時がきたら勝手に止まります。

アナタの思いや願いなど、冷徹に無視して死ぬんです。(諸行無情⇒諸行無常は、ココロなく・・ではなく、ツネがないと書きます)アナタや私の思いに一切、関係なく、無常にも(変化して)人や動物は心臓や呼吸が止まる時に止まるのです。

こうした・・すべてが無常の中に助け合いして生きているのに・・どうして人や動物を殺したり、イジメたり傷つけたりするのは何故悪い・・と言えるのですか。

私は、昔、風呂で体を洗っている時・・自分の右手が、顔や足に石鹸をセッセと塗り付けているのを看て、独り禅体験をしました。

左右(そう)か・・自分の右手は、自分の手でありながら、自分の手を洗えないんだ・・と。自分の左手にスミマセン(自分の左手さん、自分の右手さんを洗ってくれませんか)とお願いするんだ。ヨクまあ、自分の左手が嫌です・・と拒否しないな・・と。

洗う時は。顔や頭、背中や足の指に至るまで、皆・・スミマセンが、洗ってください・・と、自分が自分の手にお願いするんだ・・と思った時、自分だと思っていた自分は、どこにもなくて、それでいて、自分同士、助け合いしている自分に、だんだん腹の底から笑えてきました。エラそうにしていても、全部、自分が自分に「スミマセン・・お願いします・・」と頼んでやってもらうんじゃないか。

ミンナ、それぞれに無償の行為で、しかも無常な(変化し続ける)出来事だ・・と。スルトそれがズ―ンと広がったのです。体中のそれぞれ(自分が自分)に、つたない幼児言葉で・・スミマセン・アリガトウ・・と云いあいして広がりました。たゆみなく助け合い補い合いをしていることが身に沁みて、生きて(流れて)いるのだナと自覚しました。

どうぞ、アナタも「自分とは何か」・・ご自分が自然(地球)に生かされてあることを、独りポッチ坐禅で自覚してください。

アナタの心臓や呼吸が、アナタの意思や希望に関係なく、自然に止まるべくして止まって、安らかにお亡くなりになることを願っております。お互いに、それまでは・・どうぞ元気いっぱい、ピチピチと若鮎になりましょう。

以前・・「思いは頭(脳)の分泌物」と禅の本に書かれた先生がおられました。分泌物とは、要は・・クソのことです。

  • 科学者によれば、私のDNA(遺伝子)は、広大な宇宙の中で私だけ・・ひとり独りにだけのものだそうです。人類70億人か100億人か・・随分の人口ですが、たった一人だけの、かけがえがない独尊です。だから独りポッチ(独尊)の坐禅をお奨めしています。

お仲間と連れ立って、楽しく美容目的に・・の方とは・・おつきあいできかねます。また、しかめっ面の僧堂坐禅は、寺院の跡継ぎ養成(禅の温室栽培)ですから、所詮、観光拝観禅で、やはりおつきあいは無理というものです。

*昔、年賀状の裏面用に、刻印を父からもらいました。文字は「金石麗生」・・純金も路傍の石も、すべて、ひとつひとつ麗しく生まれてくる・・の意ですが、純金の方が価値があるとばかりに意味を誤解していました。金も石コロも、宇宙で唯一つのDNAなのだ・・それに、毎朝、3粒の整腸剤(ビフィズス菌)を呑んでいますが、1回の分量が100億菌だそうです。地球人口を一飲みで消滅させている訳です。もし宇宙の彼方から石油タンカー程の岩石コロ一つ、飛んでくるだけで絶滅種となる人類運命です。・・と思うだけでも、猫も杓子も・・貴重で大事なイノチなのです。

昆虫図鑑でフンコロガシを見ました。動物のフンをまあるく転がして巣に運び、それに卵を産み付けて、子供の食事をあてがっているのです。70才を過ぎて、私は、つくづく、地球のフンコロガシの1匹こそ自分だな・・と思っています。

吾れはココロ・・コロコロ「裸で生きるべし」           

*糞虫・・コガネムシ科、哺乳類の糞を食糧とし、昼は太陽、夜は天の川銀河の星の流れを測量して巣の方角を定め、フンを転がしている。

エジプトでは太陽神の化身、スカラベとして崇められた。

 有(会)難うございました。                    

 

 

元服の書⑰ 食事と会話の切れ目が【縁の切れ目】・・

元服の書⑰ 無門関「女人出定」の文殊菩薩・・あんなテイタラクで、よくまあ七佛の師と言えますね?

 

Q:禅者の世間の対応・・

  縁の切れ目は「食事と会話」だけですか?

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 

誰が言ったのか・・金の切れ目が縁の切れ目。至言です。

でも、私は・・お金より「食事と会話」の切れ目が縁の切れ目!であると思います。

夫婦にせよ、子育てにせよ、養老にせよ、一緒に食べる食事(例え貧しくとも手作りの)が無くなると、会話することがなくなり、心配(こころくばり)がなくなり、掃除や洗濯が杜撰(ずさん)になります。

酷(ヒド)く、セレブな場合、お金だけが強力なボンド役です。

でも家で作る食べる食事が無くなれば、離散傾向が高まります。

最近は、台所で包丁、まな板がない家庭があるそうです。近い将来、ドローンや無人配送車が届けに来て、自動的にBOXに入れられ、あとは、各自がバラバラでチンしての食事。水仕事や掃除、会話もない・・通知や請求はスマホ決済で・・財布やATM不要の家庭、社会になるでしょう。

通学、通勤・・それこそ何のために生きている社会でしょうか。

自分の家庭を振り返って・・家族とは何か・・どんなキヅナで結ばれているのか・・晩御飯や、あわただしい朝ゴハンだけの会話や団欒(だんらん)を思い返してみてください。

こうした暮らしの風潮を、NHKやマスコミ、政治・経済界は、平凡ながらも問題が少ない社会・・悪くはないから、いいではないか・・と放任、評価したふりをします。

何のことはない日本の「AI」社会は、人間としての「感動」や、孤独・・寂寥を知らぬ・・裸の王様社会だから、老人の自殺が年間3万人もいる事実に知らぬ顔です・・

勝手に皿の寿司を触っている回転ずしの子供連れのお母さんよ。

スマホを見ているバカリじゃダメだよ。子供に留意しなさい。

日本人なら、せめて家庭で1日1回、貧しく面倒でも母親の手作りの食事の味と会話を知っている子育てをしてください。

無表情のスマホの幽霊ビトよ・・目を覚ませ・・と言いたい。

 

現代の「生きている禅者」とは、どんな人でしょうか?

私の評価基準は、生活が利己的(利権目当て)でないこと。世の中の世話、人情、処世術は ことごとく「痘痕アバタも笑窪エクボ」の出来事だから・・マアマアと角を立てずに、自他共に喜べる行為で対応できる人。

イグノーベル賞 受賞者たち・・日本人12年間 連続受賞者

その他・・道に迷った幼児を見つけたボランテアのオジィサン

この禅・奉魯愚(ブログ)を看ておられる方がた宛てに「役立たない独りポッチ禅」と銘打って書いています。

いずれ「役立つ」とか「役立たない」とかの相対的効能書きは抹消する予定です。

有(会)難うございました。 

 

元服の書⑯ 坐禅は独りで、身心ともコンデションを整え、ゆったりと三分間なさってください

元服の書⑯ 

禅は「目黒のサンマ」ならぬ「役立たずの坐禅」に限ります

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

坐禅は瓦を磨いて鏡(禅者)にする方法(手段)ではない

坐禅している最中に「悟れる」?・・誤解です!

 

禅は「悟り/大覚、見性」を、第一の出発点にしています。

しかし、悟りが目的ではありません。悟りは、安心を得たい、迷った人の為の方便(方法)ですから、迷いがなくなれば「禅・坐禅」の講釈は不要になります。

自分の心が不安になり、イロイロな想いや、損得・好嫌(妄想という)に、どうすればよいのか・・解からなくなった時こそ、つまり、自分を見失った状態こそ・・そこに【見失なったと思った本来の自己】がチャントあることに気づく・・のが・・悟り・禅なのです。

何か、別の世界に、安心の境地があり、そこにたどり着く「安楽」の方法が坐禅である・・と思うこと。

それが大誤解なのです。

「役立たずの坐禅」とは、「何かの役立つ禅・坐禅」の反対側にあると思ってはなりません。役立たず・・とは、徹頭徹尾、何の「ゴリヤク」・・見返りがない・・損得、好嫌を忘れ果てた先の行い=ただ・・坐禅する・・行いにすぎません。

 

例えば、座禅して佛(悟り)になろうと修行する馬祖道一(ばそどういつ709~788)に、瓦を磨いて鏡にしようとする行いだ・・と、根本からの間違いを指摘した師・南岳懐譲(なんがくえじょう 677~744)の・・磨塼(ません)問答を紹介しておきます。

南岳懐譲の元に、求道者(沙門・後の馬祖)道一がやってきて、坐禅修行をはじめる。師は、道一の坐禅姿にうたれて質問する(伝灯録)

「お前さん・・坐禅して、どうしたいのか」

道一「覚者・・悟りの人に成ろうと思います」

師は、その傍らで、瓦を手にして石でゴシゴシとこすりはじめた。

道一「師よ、どうされたのですか」

師「瓦で鏡をつくりたいのだ」

道一「瓦が鏡にはなりませんよ」

師「では、坐禅して、どうして覚者になれるんだね」

道一「・・それでは、どうすればよいのでしょうか」

南岳懐譲「お前さん、心を落ち着けるために坐禅してるのなら、石仏にならないことだ。坐った仏像の真似なら、立像の真似もやらねばなるまい」

道一「どうすれば、真の禅定に入れるのでしょうか」

師「禅は、総てのタネを内包して、雨が降るのを待つ。やがて地が潤うと、芽が出(禅定の心)形なき花が咲く。完成とか破壊とかそんなものはない」

道一は、その禅機に触れて覚心した。

㊟この馬祖道一の禅のタネが全中国にの深山に展開して、現在の禅の大樹を形成しました。

とりわけ、中国から日本に渡来した禅は、寺僧による揺籃、教導しかない・・宗教集団、修行、師弟の鞭撻といった体系の中に伝統されてきました。それが、良くも悪くも、禅本来の・・それぞれ、独り一人の悟り体験をゆがめて、寺僧の集団修行の場、僧堂修行の温室栽培のような保護教育でなければ、悟りの資格、印可証明が出ない仕組みになって現代に至っています。したがって、さまざまな禅や坐禅の効用、効果がいわれ、修行の重要性と師弟継承(印可)の神秘的、密室的な方法論が取り沙汰されてきたのです。

しかし、語録に看る「悟り」体験は、僧堂、師家の鞭撻によるものではなく、自由闊達に、ヒョンなTPOで、突然、自分が自分一人で自覚される体験です。

釈尊は、1日胡麻を少々食べて苦行(坐禅)され、身体も心も衰弱されて河の畔に倒れていた時、スジャータという女性にミルクがゆをもらって蘇生されました。その後、釈尊は、深く人の生死を見極めるには、体調を整え、ゆったりとした心をもって坐禅することが大事だと・・独り、菩提樹下の坐禅をされて(・・のち)フト・・明けの明星をご覧になった瞬間、総てのモノが覚醒(仏性)を持っている・・天地同根のことを天地イッパイに溶け込んで・・直観されたのです。

これは、言葉や文字で表現できることではありませんし、教えたり学んだりして出来ることではありません。独り、ヒトリの「自分の自覚」によるのです。教育や社会文化は大地(環境)にすぎません。その禅・・種は、アナタ自身・・だけなのです。

 

例えば、世界に禅を紹介された禅者であり、仏教学者の鈴木大拙博士は、「臂(ヒジ)が、一方にしか曲がらないことに気づいて、悟りをえた」・・と、何かの書物で読みました。

外国の求道者たちが、どうしたら「ZEN」・・禅による生活に入れるのか?」と尋ねたら、テーブルを「コッン・コツン」とノックされて「ここから・・どうぞ」と云われたそうです。

 禅(坐禅)は宗教ではない・・とする純禅の教えは、達磨以来、そこかしこの禅語録(祖堂集・伝灯録・信心銘・参同契他)に記載されています。坐禅したから、悟りが手に入る・・そんな思いこそ大誤解であると、求道者に警告する禅者たち・・禅語録は、このことでイッパイです。

野狐禅で有名な「百丈野狐」の公案(無門関第二則)は、その禅の見識について、のっぴきならない覚悟=「独りポッチ=禅による生活」を物語る公案です。

馬祖、百丈の代に至って、達磨の面壁禅(純禅)と、行脚する義学者(口頭禅)の真贋が問われたことがよくわかります

*雲門(・・~949雲門宗開祖)の塵塵三昧(碧巌録第五十則)に登場する義学の僧は、華厳経から抽出した一文を担ぎ出して、アチコチの禅庵で寄宿、放浪していたとみえる。求道ギリギリ、発火寸前の心境の者に対しては、雲門の一語は鋭く突き放す・・「クソカキベラ」・・トイレ紙(無門関第二十一則 雲門乾屎)の答えが秀逸です。頭脳(思考)は、大変、利己的で、クソ(分泌物)の如く悪臭に満ちています。放下(思いに執着しない)ギリギリの絶句の一語です。

ところが、哲学、経典を擔ぐ、教育修行の、この頭デッカチの義学者には、グウの音もでない「飯茶碗」の一語で叩きのめします。

反対に、当時、文盲に近い、正直な求道者には、かえって「飯茶碗には白い飯」が、直截に・・素直に・・納得・透過(見性)されたようだ。

日本の妙好人たち・・讃岐の庄松さんだったか・・仏様はゴハン(茶碗)にあるぞ・・と言われたら、キット嬉しそうに茶碗をもって踊りだすことだろう。

スマホの幽霊ビトとなった現代人は、庄松に比べても、ヒドク劣化した民族になったと思います。

禅は「目黒のサンマ」ならぬ「役立たずの独りポッチ坐禅」に限ります。

 

元服の書⑮ あにハカランや百合1片・・

元服の書⑮ 仏陀は禅をどのように説かれましたか?

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 菩提樹下、暁の明星を看て、禅・大覚(悟り)を開かれた仏陀(釈尊)は、その教え(仏教)の多くを例え話で説教されました。

ただし、言葉でもない、文字にも書けない・・「世尊拈花 せそん ねんげ」に代表される「禅」については、中国に伝わる碧巌録や無門関などの禅語録に、わずかに記載されているだけです。

釈尊は、あちこち行脚しながら、縁起による「諸行無常会者定離」の理(コトワリ)を、庶民にわかりやすく説かれた・・だけ・・なのです。

それが後の時代になって、仏陀の教えとして、仏教になりました。我れ かくのごとく これを聞きたり・・如是我聞(にょぜがもん)で始まる、壮大なお経は、その仏陀の例え話です。

長い説法の旅の間、釈尊は、独り一人が持っている「禅=煩悩即菩提」・・そのことを 身をもって示されただけで、教導することはなさいませんでした。

無門関 第6則 世尊拈花の公案は、ある説法の場で、花を一輪、クルクルと回して見せた出来事を、独り迦葉(かしょう)尊者のみ、その意味を大覚して微笑された・・逸話です。

釈尊は「正法眼蔵、涅槃妙心・・あるべきようにの禅の境地そのまま」を、迦葉に預ける・頼むぞ・・とイワレタのです。

「禅」は、インドの菩提達磨(ぼだいだるま)が、独り、海路、中国 広東にわたり梁の武帝と面談(520年?)。のち、嵩山少林寺で面壁坐禅して、わずかの弟子のひとり、慧可(エカ)に付嘱(ふしょく/頼むの意)されました。

 赤道直下、涼しい樹下、哲学(瞑想)を尊ぶ暑いインドの地から、寒暑春秋の地、実用実際を重視する中国に根付いた「禅」は、圧政、戦乱、宗教集団の利権から逃れ、新たに日本に移った「純禅」の求道者たちの手で育ちました。

 例えば原の白隠さん・・毒語注心経(大森曹玄著 春秋社版)・・意訳文

【経】如是我聞一時佛在・・コレガ オ経ト イウモノカ

 咄、誰か舒巻(じょけん)す・・馬鹿メ 誰ガコノ経 巻キ閉ジスルゾ 

 黄巻赤軸(こうかんしゃくじく)を求む・・反古ヤ紙屑 オ経トオモウ

 また百合一片(いっぺん)・・アニ計ランヤ 百合一ペン

 

     白隠は紙に記載された経文を有難がる者を叱りつける。

     いったい、生きた経を誰が開いたり閉じたりしているのか・・?

     ユリの根の・・実(じつ・み)を看よ。実は中にあるか・・?

     その切れ端の一片イッペンが、ことごとく花の実ではないのか・・と。

 

私は・・この「ユリの花」にチナンデ、聖書、マタイによる福音書6章「ソロモンの栄華もユリの花に如かず」の言葉が・・

(自己解釈ですが)釈尊の拈花微笑=般若心経の経意(こころ)と同義に想えてならないのです。

歴史書を読み漁ることをしなかった私は、浅学で、達磨以来の「純禅・独りポッチ禅」が、日本で・・大愚良寛一休宗純盤珪永琢、仙厓義梵、正受老人、白隠慧鶴、鈴木正三、素玄居士(順不同)など、十指程度の、先達の禅者によって大樹となったと知るにすぎません。他、仏教学者(禅者)鈴木大拙。松が丘文庫の古田紹欽先生、柳田聖山氏。あるいは、惜しくも神戸で爆撃の戦火でなくなられた井上秀天氏・・いや、まだ他にも野風行雲の禅境(地)に住した禅者が沢山いたと確信しています。

 また、無門関提唱 素玄居士が(意訳中)禅は仏教・・宗教ではない・・とする意見を克明に述べたのが、この第六則でした。

詳しい意訳は「禅のパスポート」を見てください(後日、追加補足をします)

まとめます。

釈尊以来・・達道の禅者は、すべて役立たずの「独りポッチ坐禅」で、独り一人に備わっている「禅」を発見発明しています。

「禅」の・・効能効果の在るものは、所詮、この世のご利益(リヤク)ごとにすぎず、自己本来の面目ではありません。

どうぞ、仏陀や経文、学問・教導に縛られず、もっと気楽に、何時でも誰でも自分独りで出来る「坐禅」をなさるように・・

 

◆女の人で悟った人はいますか?

元服の書⑭ 女の人で、悟りを開いた方はいますか?

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

A:います!数少ない・・それだけに女性の見性・大悟の徹底ぶりは、達道の禅者を寄せ付けないほどの実力者となります。

 

坐禅や瞑想は、女性の方には、大変、関心度が高く、茶華道など趣味を通じてや、観光(京都・鎌倉)で禅寺を探訪されたり、お仲間と写経や精進料理の食べ歩きなど、よく研究し、知っておられるのに驚きます。

ただし、大方こう言っては失礼ですが、坐禅に深みがありません。(役立たずには、関心がうすく、考慮は苦手ですね) 

以下・・この奉魯愚の、極めて、独善的と思える答えの仕方ですが、お許しください。

まず、女性の一般的なことですが、ZEN・瞑想に関心はあっても、この奉魯愚は「役立たずの独りポッチ坐禅」を推奨します・・と言うと、それでもうTHE END!です。

「ゴリヤクなし」と聞くと、もう訳もなくNG・・OUTです。

キット何か自分に役立つ、得になる情報を、お仲間とやり取りしないと【面白くも楽しくもない】のでしょう。

女性の場合・・関心が持てるのは、面白いか・・または自分に役立つか・・この2つに一つです。ですから、古今(釈尊の時代から)役立たずの坐禅でしか、悟り(大覚・見性)に至らないため女性の禅者は、禅語録でも数名の伝記が残っているだけです。

 

昔、女性は三界(過去/現在/未来)に家無し(安定・定住の處なし)・・と言われました。

執着心が強く、強欲な鬼婆が多くおりました。でも実際は、心情が優しくとも、暮らしが苦しければ苦しいほど、女性につらく当たる社会です。

現代でも、制度や風習から、筋力と立場の弱い女性は、人間として優位な五感の内の4感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚)をフルに働かせて(権力と名誉欲、暴力に勝る男性に、柔よく剛を制すように)賢く、ふるまっています。・・が、世界中の女性はキット我慢の限界にきていることでしょう。

 

*我慢は仏教用語です。自分が慢(マン)ずる・・うぬぼれたり、わがままになったり、他の人を思いやれない状況です。意外と、人のうわさ好きな、女性の(感受性が豊かな)方に、嫉妬心や、やっかみが多いのです。

*武術の「武」の字は「戈(ホコ=ヤリ)を止める」・・と書きます。

剛柔流という沖縄の空手がありますが、昔、サトウキビの独占を図った薩摩に植民地化され、武器をもてない農民(男女)が、身を守る武術として伝えられたのが空手でした。

*女性が優れているとする4感(視/聴/触/嗅覚)は、その情報が記憶力に結びついて、生活に応用できる能力をいいます。

例えば英会話、通訳。音楽。伝統文化の伝承。緻密な仕事の持続、継続力。育児、看護力など。男が敵わないと思う・・浮気の発見は、4感の情報集約に第六感のピンとくる直観が働く作用でしょう。感受性が豊かですが、感情的でもあります。

*男の優位な感覚は、2万年前からの、獲物狩りと戦争(力)のみ。

つまり、命がけで獲物をしとめる代わりに、そのステーキのおいしさを判別できる舌の先・・味覚だけ。このことは、世界のシェフ・コック、板前、料理人の99%が、男性であることが証明しています。

確かに、女性が薦めるうまいお店は、男の私が「おいしい」と感動した例はホトンドありません。(舌の先=味蕾の数が違うのでないかと思います)

また、魯山人など、食器にまでのめり込む食通は男だけ。

五つ星を探り歩く人たちは・・やはり客ふりの男性のようです。

  • 神に祈れば「天国」に・・佛に祈れば「極楽」に救われる宗教とちがい、禅は「自分とは何だ」・・と、ただ限りなく自心を追求する坐禅と、その禅による生活(行い)・・Living by ZEN 鈴木大拙 著・・です。

面白くも、何か役立つような出来事でもありません。

そのうえ、厄介なことに、在る・無しや善悪、愛憎、損得、好嫌、生死、分別、執着、比較、欣求宗教、論理、哲学、文字や言葉・・つまり頭脳的、論理的に考察したり、好き嫌いやコダワリ(分別・造作)をしないこと・・つまりは「役立たず」に成りきって、河原に転がっている「タクワン石」になって坐禅する・・だけ。宮沢賢治の雨にも負けずに・・「皆に木偶(でく)の棒と呼ばれ・・」に成りきれないのですね。

また、歌人与謝野晶子の短歌「やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君」と、女性から憐れに見えるのが、男の生きざまです。♬お手々つないで~🎶・・よりも、独り歩きしたい・・男の生きざま・・トドノツマリは、独りポッチ坐禅なのです。・・とは言え・・

 

優れた女性の禅者は、確かに存在します。

例えば・・中国 劉鐵磨(リュウテツマ)・・鉄製の磨臼(ヒキウスのような物腰の)劉婆さんのこと・・潙山霊祐(771~853)の禅院の山麓に庵住した女性禅者。碧巌録に登場。傳不明・・これらの方々の逸話は、またの機会にご紹介します。

現実生活を男以上に、ありのままに洞察でき、子供を産み、育て、家族ともども感性豊かに、人間として生きる女性は、逆に、社会の協調性や慈愛心から、たったの3分間でも、独りポッチ坐禅に集中できない傾向にあります。

情愛(本能的感性)に富めば富むだけ、生存、存続の意識が働きますから。無心から遠くなるのです。

ですから、起床、就寝前や通学、通勤時など、数息(1呼吸10秒程度)18回・・だだ・・息を数える行禅をなされるようお奨めします。その効果・効能は、くれぐれも期待しないでください。

ただし・・もし女性が見性・大悟した場合の徹底ぶりは、達道の禅者を寄せ付けないほどの、気高い見識を持つ禅者となります。

有(会)難うございました。   

 

備考・・後日紹介する資料

  • 徳山宣鑑が龍潭崇信を尋ねる澧州路を行脚中、茶店(餅屋)の婆さんとの點心問答。
  • 劉鐵磨(リュウテツマ)潙山霊祐の禅院、山麓に庵住した女性禅者。

*日本の史下に記録される女性禅者・・禅文化1982JAN・103 町田瑞峰「白隠門下の女性禅者の消息」

白隠門下 おさつ婆さん(1727年 白隠47才・庄司お察16才 頓悟・結婚・孫)

②杉山政女(富士市 1730年代 白隠46才記 坐禅苦心談)

③惠昌禅尼(白隠年譜 白隠64才記中 1748年記載 禅行記事)など・・