禅は・・鼻先にぶら下げたクソを「屁もと」はドコ?と捜すことではない(宿無し興道・至言)

碧巌録や無門関の意訳・講話をして解かったのは・・「禅」は宗教(欣求)ではない。そして、その自覚(体験)は誰にも教導できない・・自知するのみのことであること・・「禅による生活」であることです。

先年來「3分間独りイス禅」を推奨してきました。それを「ポッチ禅」と名付けました。

ただ・・自分一人で行うこと。

坐禅していることを説明したり、批評したり、組織的集団的に運営管理しない・・独りポッチの坐禅であること。

独り・・寝る時禅、起きる時禅、仕事前禅、電車やバスの中禅、食事前禅やトイレ禅、勉強前禅やスポーツ前禅・・何時でも禅、思い立った時禅で結構。一日一回だけの禅でも充分です。だだし、これをやったからと言って、効果(ご利益りやく)を期待しないでください。まったく役立たずの独りポッチ禅として覚悟ください。

 

坐禅の時間も、タッタノ三分間ポッチを一回とすること。

(1呼吸十秒~十五秒の静かな腹式呼吸。計十八回~十二回ポッチ)・・眼を閉じると瞑想になります。眠くなるので半眼にします。姿勢を正して、リラックスして、たがが三分・・されど三分・・独りで無料体験してください。

坐禅=結跏趺坐(けっかふざ)とか、両手はどうするのか・・正座しようが、胡坐(あぐら)をかこうが、椅子に坐ろうが、寝たままだろうが、印を結ぼうが、膝の上に置こうが、こだわらず、ご自由にどうぞ(熟睡の時、両手の位置などこだわっていますか?)

呼吸を数える(数息すうそく)に飽きたら、ここに意訳した、千年前の禅者の語録「碧巌録」他「はてなブログ 禅のパスポート=無門関」・・どの【本則】、どの【垂示】【頌】でも、読み散らした中で「?」と思った一つ・・その内容を「何故・・どうして?」と、くりかえし、ポッチ禅の公案(問題)として考えてください。

どの話も求道者が命がけで追究した、限りなく矛盾あふれる実話です。

 

自分なりに、ハッと正解らしきものが閃くことも出てきましょうが、すべて・もれなく・百%・「錯(しゃく)」=間違いです。

変な言い方ですが頭の中で「考えることを考えさせる」試行錯誤の方法なのです。

どんなに勉強しても、禅は正解が見つけられないからこそ、考えさせる究極の「頭脳の休息」方法なのです。

仏教用語では「煩悩を断ち切る金剛の宝剣」略して「禅」と云います。

何とか自分の利権になるものを得たい・・これを本能・煩悩と呼びます。煩悩を断ち切る宝剣・・それは何の利害損得もない・役に立たない・禅を行うことでしょう。

千年前の達道の禅者は、今ほどの学問、科学的な教養がなくとも、独り役立たずの坐禅(瞑想)の中で自覚しました。

宗教にいたる以前に、釈尊であれ、達磨であれ、碧巌98則「天平従漪(てんぴょうじゅうい)」であれ、自分が自分で、誰の助けも借りず、機熟して、見性(悟)するべくして透化したのです。

まあ、あわてず騒がず、別に生涯、悟りえずとも、天地がサカサマになる訳でもありません。

以上・・難しい話はここまで。

(できるだけ高校生の皆さんにも理解してもらえるよう書いています)

有(会)難うございました。

 折々に・・はてなブログ「禅者の一語」碧巌録 講話意訳/「禅のパスポート」無門関 講話意訳・・ご覧ください。