【禅・・その忌み嫌うこと・・】とは・・

禅・羅漢と真珠   

「独りポッチ禅」に不要なできごと・・

  • 「瞑想」と称する妄想。主義・思惑・忖度(そんたく)。
  • 宗教・哲学的会話。論理的批評、常識的概念。
  • 組織・団体・何でも教導に頼ること。
  • 2元または1元論者と功利的生活行動。
  • 傍観者・スマホ(TV、バーチャル)依存症。
  • 素直でないこと。好き嫌いすること。
  • 独り(寂寥)を感じないこと。
  • 好奇心のない、無関心を装うこと。

 

あと、個人的なことですが、自筆の手紙が書けない・・とか、本や新聞(活字)を読まない・・とか、自分で考えるより、教わること(マニュアル)ですべてをすます・・とか、ご飯を食べたら、すぐに茶碗を洗えない・・掃除・洗濯・買い物を自分の手で出来ない大学出の男女・・そうゆう子供を育てた親の無責任さ・・にも、あまり近づきたくありません。

◆ひどいのは、「幸福とは何ですか?幸せを希求したいのです」など、ひとり一人の大事な生命の輝きまで、画一的な集団=社会の中で、評価・検証してメデアもろとも大騒ぎすることです。

 

◆「感性」「感情」は、もともと・・生物の「本能」でしょう。人間になって、初めて、祈りになり、愛や慈悲になり、宗教や音楽や絵画など芸術に昇華した心の作用です。

三日、飲まず食わずの人に、愛を語り、慈悲を語りしても幸せには思いません。「理性」「論理」とて同じこと・・

哲学や物理もまた、甘いものがなければ、バランスよく機能機作しないのが「頭脳」でしょう。

 

もし自分で米を作り、手前みそを醸造し、自作自炊する事ができなければ、せめて社会的動物として、他への奉仕、貢献(禅では作務、普請といいます)をもって、自認+他認する人であって欲しいと願っています。よく言うのですが、見る・・を「看る」人でなければ、蕎麦屋の釜の中・・だと断じています(湯うバカリでダメ)。

禅語「看 脚下」自分の振る舞いが看えているか?」目のご不自由な人が、手の触覚で物を感じられるような・・看です。

 

この禅にまつわる一連の奉魯愚(ブログ)が

「かくれんぼ・・ご飯ですよ!の声かかり・・」

ハッ!と、夢中から覚めて、夕餉の母親のもとに帰るような・・禅機となってくれることを期して書いています。

附言【3分間・独り・ポッチ禅】の将来・・

宇宙時代、木星土星か、宇宙船で旅する宇宙飛行士が、無重力の船内で・・独りポッチ禅をしている・・人間が仮決めした、空間時間の制約を放下して(捨て果てて)上下左右、東西南北、1日24時間、一切のオモネリに関わりなく「天上天下・唯我独尊」・・独りポッチ禅をなしている・・

それが夢であり、この現実社会でも、そのようになればよいと思います。          

                    有(会)難うございました。

千年以上前から「禅は宗教ではない」・・と言われてきた、禅者たちの教えが、現代、デジタル時代になって、ようやく世界に開花しようとしています。折あれば、はてなブログ「禅者の1語」=碧巌録講話・意訳/「禅のパスポート」=無門関講話・意訳を検索してご覧ください。