ある人・・達磨大師に問う・・いかなるか、是れ【苦】と・・

達磨大師「楽・・最も苦なり」

今、寝読しているのが臨済録(講話/釋 宗活著 昭和16年光融館発行)だ。その一節に・・公案「父母、未生以前、本来の面目」を、釋 宗活老師が臨済の「夢幻の伴子(バンス肉体、欲と執着)に認着するなかれ」の一語を引いて、講話されているのに・・心惹かれた。

 

この肉体は、遅かれ早かれ無常に帰るものだ。どれほど貧着(とんちゃく)したところで、安心は得られない。本来の自己=主人公は、肉体ではない。「依るな」=人が衣をまとう・・ように煩悩を着るな。心は浄裸々(じょうらら)であれ・・と言われる。

 

たとえ殊勝な、禅の見解、玄妙な境界を生活の中に呈しようと、それらは、ことごとく聲名(しょうみょう)文句である。目から読み、耳から聞き、幾多の経文の中から持ってきたところの、献立看板である。どれほど、巧みに説きえても、言い当てたとしても、夢幻空華(むげんくうげ)取るに足らない。大事なのは、その夢幻の中に乗じて、出てくるイキイキした心の働き・・そのもの・・無依(むえ)の道人が、禅の境地なのだ。

 

禅の玄旨(奥義=そのもの)は、われは玄旨であると称することができないものだけに、例えれば・・鐘に撞木があたれば、その当たったところから、直ちに「ゴオーン」と応ずるようなものである・・と説かれている。

 

いずれ、碧巌録、無門関の意訳の後に、本命「臨済録」で、修行の足跡をたどりたい。鈴木大拙と江南軒、勝平大喜に師事、参禅した父=白鷗大魯が、書画の多くに賛書した語録だから、せめて、そこまで登頂したい・・と思います。

 

釈尊と書く、正式の名前は?・・お答えします。

「釋迦牟尼世尊」(しゃかむにせそん)の略。仏陀は、覚者=悟れる者の意。「佛性・佛とは?」の公案の問いに、一律「禅とは?」の文字を当てはめ、「僧」は求道者・・「禅庵の師家」は老師とするか、敬称を略しています。佛は仏像とか、仏教とか、雑多な意味を連想するので、「禅」としています。