臨済からの厳しい呵(カク=叱りつけの意)・・「正しい坐禅」とは・・

 「正しい坐禅」とは・・

坐禅をすると、胸中に様々な、想いや欲望が生まれる。これを抑圧するかのように無理に除外しようとするのは間違いです。

念慮の起らないように苦心して、無念無想になろうとして坐禅をするのは「邪禅」です。無念無想などは、剣道の極意かもしれないが、死んだ骸骨のやる禅です。この邪(よこし)まなやり方が、それらしい形だけ求める坐禅(瞑想)では「静慮」として、どうしても静かな環境を求めることになります。

この邪禅をやる結果、騒々しい場所での坐禅を嫌い、深山幽谷の中に入り込んで、人に会うのを嫌ったり、暮らしや仕事の最中を避けたり、夜坐を好むことになる。これみな外道の法です・・と、釋 宗活老師は「臨済録講話」昭和16年 光融館発行で提唱されています。第2次大戦に突入する直前、禅宗(当時2万有余の禅寺がありました)が、こんな警告・・それも臨済宗の祖、臨済の語録を講話する中で意訳発言しているとは、刮目します。

 

わざと出典(由来)を後にしたのは皆さんに失礼だったかもしれませんが、私の意見だと誰も真剣に思ってくれないからです。

さらに、釋 宗活老師は、無念無想=坐禅三昧の境界にいたるのが、禅の本領、目的と誤解している瞎禿子(カットクス=禿げ頭、バカ坊さんの意)が多い。それだけ達磨禅=臨済禅が布教されていない・・と、臨済が戒めた寺僧の退廃を、厳しく警告されました。

【一般の瞎禿子あって、飽くまで飯を喫し終わって、すなわち坐禅観行し、念漏(ねんろう)を把捉(はそく)して放起せしめず、喧をきらい静を求む。これ外道の法なり】

臨済語録 意訳・・続けて・・                    【祖師(臨済)云く、なんじ、もし心を静めて静を看、心を挙(こ)して外に照らし、心を接して内に澄ましめ、心を凝(こ)らして定(じょう)に入(はい)る。かくのごときのならい、皆これ造作(ぞうさ)なり】(勝手な思惑、手段であるの意)

さらに言葉を継いで・・求道者の「坐禅したい」と思う、その主人公は、荘厳(そうごん・印可証明、肩書勲章)しうるものにあらず。過去現在未来を透して、赤裸々にあり、毛筋一本、掛けようとしても徒労である。

 

世間に「安悟り」を喧伝する、いかにも荘厳な寺にいる坊さんに騙されるな。・・誰それは不思議な霊徳を持っていた・・とか。禅定に一枚の紙を坐となし、その紙を引き抜くと、破れることなく、無造作に引き抜けた・・とか。まるでマジックか、奇跡のようなことをいう輩が出てきた。

本来の大道から言えば、釈迦、達磨、われ・・何者ぞ・・と独り坐禅して、巷(ちまた)の下劣な漢となるなかれ・・臨済は、このように呵された(カク、叱る意)・・のである。

 

戦前、七十五年ほど前に、坐禅の在り方ひとつ、千年前の臨済の警鐘をつたえた両忘老師。昔から、いかに、禅を飯のタネに利用していた寺僧が多くいたか・・戦前から現代まで、いかに寺僧の組織、集団の圧力が、坐禅の仕方一つ、臨済の忠言を無視して偏っていたか・・よくわかります。

 

今や、観光禅、漫画禅、茶華道禅、学者哲学禅、他、多種の飯のタネ禅など、邪禅・・おおはやりの現在、絶滅種となった純禅を想い「独りポッチ禅」を標榜して、この奉魯愚を書いています。

おそらく東洋人、それも日本人にしか伝わらぬ「ZEN」のDNA・・いつか、どこかで発芽してくれる事を願っています。

臨済録は、碧巌録、無門関の現在、意訳=奉魯愚 掲載中の目安が出来次第、挑戦するつもりです。縁る年波と病気から、馬翁+15・・どれだけ閻魔をダマして逃げ切れるか・・デスかネ。