◆坐禅の時に「四弘誓願(しぐせいがん)」を読誦しますか?

 

坐禅の時に「四弘誓願(しぐせいがん)」を読誦しますか?

衆生無辺誓願度(しゅうじょうむへんせいがんど)・・多くの迷える人々を済度しよう

煩悩無尽誓願断 (ぼんのう むじんせいがんだん)・・湧き出る煩悩を断ち切ろう

法門無量誓願学 (ほうもんむりょう せいがんがく)・・酌めども尽きぬ教えを学びとろう

仏道無上誓願成 (ぶつどうむじょうせいがんじょう)・・無上の悟りを達成するように・・

 

結論から申し上げます。

独りポッチ禅では・・何か成果を欣求したり、出来ないかも知れない約束を、高らかに誓願するようなことをしてはなりません。

過去、仏教界(禅宗・寺院・僧侶)は、修行や法事の折ごとに、このような四弘誓願を読誦して、厳しく己の至らざるを戒めてきました。

しかし、私は・・禅(坐禅)は、般若心経に道う「色即是空=煩悩即菩提」であると確信しています。

それを「断ち切りがたい煩悩を断ずることを誓い、願う」など、堂々と読誦できる心が理解できません。例え、生業として宗教派・組織の運営上、大事な戒律であるとしても納得できません。

達磨は無功徳といい、六祖恵能は、菩提もと樹なしといい、臨済は「造作するな」と戒め、曹洞では「坐禅そのままが、悟りである」と言うそうですが,本流で「煩悩即菩提」を言い、その片方で「煩悩を断ずることを誓願する」という・・矛盾を、昔から、禅宗界や禅(哲?)学界の学者たち、誰一人、異論反論しないでいること・・に、集団組織=宗教界の驕り、造作を感じます。煩悩(そのまま菩提)を断じるは、悟りに通ずるから、ソレでいいのだ・・と、どこかの偉い老師様が言われたとしたら、ZENを誤解すること・・はなはだしいと云えましょう。

仮に、煩悩は尽きることなく湧いてくる雲のごとし・・ですが、少しでも減滅するよう坐禅努力していこう・・との意である・・として嘘も方便・・「断」の字を「滅」に置き換えることは、文字・言葉(方便)言い換えにすぎず、それは、見性=悟りではありません。

ソレヨリカ、人は・・悪人ゆえに、弥陀の本願(往生)あり・・とする、愚禿(グトク=禿げ頭の愚人、親鸞の正直な教えに、私は合掌します。

親鸞の教えには、独り・・己が身を預ける純粋な祈りにワザとらしさがありません)

世界にZENを広めた故・鈴木大拙は、仏教学者であり優れた禅者であると思っています。もし彼の師翁に問うことが出来たら・・人が煩悩を断じる、奇跡を成したとしても、それは断続の二元の分別・・邪見であり「即非の論理=悟り」ではない・・として、禅に程遠い見解であると言われたことでしょう。

「禅」には、人情、作為、仏心、妄想、求道、宗教・欣求、誓願、主義、倫理、哲学・・文字、言葉で例えられる一切が「無い」のです。それを断ずることは、生命を断滅することになります。

現代の宗教、寺院禅は、観光禅として拝観・葬儀料、坐禅指導料?写経・点心料などと共に、ホソボソと存続するでしょう。でも、もはや「純禅」は絶滅種であるという証拠こそ、積年、禅寺の坊さんが唱えてきた「煩悩を断ずる」という・・この矛盾した誓願なのです。

これからの・・禅は、宗教ではなく、東洋の知恵=「禅による生活」として、世界の人々に関心をもってもらいたい。

だが、そのため純禅を教導する真の禅者が日本で新たに誕生するのは、何百年も待たねばならないでしょう。欧米人の、論理、哲学的、科学的、心理学的、二元的な分別思考からは文明文化の発展、進化は期待できても、残念ながら達道の禅者は生まれてこないでしょう。禅の悟道、体験は、どうやら・・日本人の繊細であいまいな遺伝子にカスカニ残されているにすぎないようです。

その櫱(ひこばえ)の一株が、「独りポッチ禅」であれと願っています。果たして、百年後・・千年後・・宇宙時代に無重力の宇宙船内で、独りポッチ禅が「盆栽」でもいい・・一枝の実を付けた樹に育ってくれているかどうか・・!

独りポッチ禅は、何の役にもたたない「坐禅」です。10秒1呼吸とすれば、18回(180秒=3分間)独りで眼を半眼に数息するだけ・・四弘誓願などの欣求誓願や経文、効能書きは不要です。