求道者との対話① ・・Q「禅による生活」と禅によらない普段の生活の違いを教えてください。

◆独り3分間ポッチ禅と、厳しい禅寺の坐禅修行の違いを教えてください。集中力、坐禅する意思力、持続力、決断力がないと禅は悟れないというのは、本当ですか?

◆A⇒悟りは独りボッチで千差萬別・自業自得でのみ≒盤珪 不生禅・・関心のある方、悟りのありようを自分で調べて見て下さい

貴方が、悟りを希求する人間の本性により、例え、見性透過をしても、それだけでは「安心」(あんじんと言います)できる生涯が得られる訳ではありません。少なくとも、命の根源を見徹したのですから、自分の生活の中に、空気や水のように、その必要を生かしていくことが大事です。どこからか湧く求道の究極は、禅(一真実)これを、日常の生活の中に、特別のモノでなく、当たり前に実行していくことを「禅による生活」というのです。

禅は行住坐臥・暮らしそのもの。何らの外見変化はアリマセン。

この言葉は、故、鈴木大拙先生「living by Zen」(株)春秋社 1948年発行の英文版、タイトルから発見した。著作では、欧米の若者の、禅についての関心が高まっているので、伝統的な見方をかえて禅を紹介したいと、前書きされている。    

【禅とは生きることであり、禅は生活である。生きることが禅なのだ。つまり、われわれは禅そのものを生きているのだ、(中略)例えば、犬は、まさに禅に生きるけれども、禅によって生きるのではない。禅に生きると同時に、禅によって生きるのは人間だけである】抜粋・・

私が推奨する坐禅は、中國から日本の寺僧に伝燈された、宗教の修行集団の坐禅ではありません。ただし、宗教色が薄い、盤珪の「不生禅」に惹かれる点、多々にあります・・が、その教導に、まだまだ心理的な「計らい・・造作」があり、おのずから発芽してくる「ZEN」の純粋な振る舞いに一任する「自然さ」に乏しいと感じます。

 

まして、欧米の「ZEN」への関心に限らず、電磁的情報機器(スマホ・PC・AI)に蹂躙されている日本の現状は、おぞましいほどに無関心、無責任、無気力で、主体性のないゾンビ社会です。禅寺の跡継ぎには、禅の促成、温室栽培の坐禅に、僧堂、師家一丸の、気力や集中力、意思力、決断力が必要かもしれませんが、旧来の伝統的修行の専門道場、僧堂では、苦行、嫌気、習慣的怠惰が蔓延して、まず跡継ぎさえ満足に育ちません。

まして、古今の、達道の禅者たちの「禅による生活」の語録をひもとけば、悟りは天地同根・・日常生活や行脚、師を求める放浪の求道者の中に、自由に発芽し、自然に開花見性する事例の多いこと。千差萬別のまま、一真実を1箇半箇する禅者が禅語録の中を闊歩しています。

彼ら、達道の禅者は、誰からの関与も受けず(本やスマホから干渉されずに)独りボッチ禅をしているのです。

どうやら、これからの世紀は、ZENの・・「禅による生活」を育てる手立てとしては、集団、組織を捨て、箇(孤・個)に帰って、独りポッチで坐禅する・・それが坐禅だ・・と信じます。

禅は宗教ではない証拠に、浄土真宗南無阿弥陀仏/妙好人)にだって、また、キリスト教の中だって、言い方こそ違え、煩悩即菩提・・悟り・・はチャントあるのです。

*浄土は言葉の要らぬ世界である。人間の世界は言葉の必要な世界である。地獄は言葉の通じない世界である(曽我量深/游煩悩林 平成29年11月号/東京都石神井町 順正寺)

*禅(悟り)は、一人から一人へと手渡し出来るものではない。それは絶対の個人が伝達しようにも出来ない創造的体験である(馬祖の弟子、盤山云く)

*何千の禅者が得たといわれる、どんな悟りも、悟りというべきものではない。これが悟りだと示しうる悟りは悟りではない。人が体験しうる、いかなる経験からも、一つだけ取り出しうる特別の経験ではないからだ(宋代の禅者、慈明)

 欧米の場合、40までに5億円ためて、あとは好き気ままに暮らして何が悪い・・の、全くの格差社会・・人間にだけ自覚される大切な時間を、スマホゲームやTVに浪費する。

その風潮は日本にも蔓延している伝染病です。

人がZENにより自覚できるのは、言葉でもない、文字でもない、欣求宗教、科学・心理・哲学の分析、成果検証でもない、独りボッチの3分間の・・役立たぬ坐禅のただ中の「これ・是れ」だ・・といえましょう。

 

結論・・今や、役立たずの・・独りボッチ禅だけが「悟り」への手立てです。例え、何か悟りの兆しを・・省悟、自覚しても、千回ぐらいは、間違いだし、誤解だし、偽りです。

禅のいう「これ是れ」ではありません。純禅の大悟は・・無門関48則、碧巌録100則・・自分の見解(けんげ)=頌をつけて、はじめて自身が得心して、禅のことを少しは理解した、禅による生活が行うことができた・・と言えましょう。