好き勝手は、天真爛漫のこと・・ではないぞ!

禅・羅漢と真珠  

「ポカン・・とした3分間」は「坐禅」じゃない!

    【500年前の坐禅の注意書】     

何の役にも立たない坐禅・・どうすれば・・

「3分間ひとりイス禅」では、指導者とか、お仲間とか、誰かと一緒になって坐禅することをお奨めしません。必ず、集団心理(迷い)が働きますので・・.

もともと、生まれるもひとり・・生きるも独り・・されば死するもヒトリ・・と禅語にあるとおり、社会的なつながりや、学校で学んだ知識・体験など、コピペした、あらゆるものを捨て果てて・・それから・・三分間・・心は「丸裸」であれ・・と「ひとりイス禅」をお奨めしています。

*イスに背筋を伸ばして坐り、眼は半眼に。肩やお腹、手の力を抜いて、静かに鼻で呼吸してください。出来ても、出来なくても・・ただ、それだけのイス坐禅です。

両手はどうしたらいいのか・・など、聞く必要はありません。

自分で最も、落ち着く手の置き方でいいのです。

寝ている時、手はどうしたら・・蚊が飛んできたらどうする・・とか・・考えません。

自然に・・どうなるか・・どうしてるのか・・気にしないことです。

思いが湧いたら、まるで雲が湧くのを看るように、放っておくことです。

「思いはアタマの分泌物・・」と、曹洞宗系の・・どなただったか忘れましたが見事に喝破されています。何にも役立たない・・たったの三分間・・これがなかなかに難しい。

好き勝手は、天真爛漫のこと・・ではない点 注意してください!

以下、坐禅(瞑想)時の、注意点について・・

500年、昔の坐禅の参考を書きましたが、関心のない方、飛ばして読んでください。

無異元來(1575-1630)著 「博山和尚参禅警護」

無異元來(1575-1630)著「博山和尚参禅警護」意訳=鈴木大拙 禅思想史研究 第四「工夫的精神の意義と機能」発行 ㈱岩波書店・・抜粋

1 世間体のあらゆることに心を煩わせないこと。

2 静寂・黙思に執着しないこと。

3 天地万象に囚われるな。

4 ネズミをとる猫のように、惺々(せいせい)

       明歴々(めいれきれき)たれ。

5 日日の進歩。工夫、努力をおこたるな。

6 公案に知的(分別的)解釈を試みるな。

7 小賢(こざか)しい解釈をしてはならない。

8 ポカンとしているのを工夫、進歩と思うな。

9 錯覚、誤解にとらえられるな。

10 做工夫 不祇是念公案

          念仏称名のように公案を念ずるな。

これら注意を守る時は修行者は確実に疑情(真実への希求心)をして成熟の状態にいたらしめる。

そうでないと、疑情を起こすことが出来ないばかりでなく、修行者は邪路に堕すであろう。即ち、禅の真理を體會(体得)し得ぬであろう。

・修行者の落ち入る邪路というのは・・次の如きものである。

・知的了解によりて公案の内容を検討せんとする

・厭世的意向を生じて、ただ寂静・無人の處を慕う

・情識・妄想の心をもって、意識上に強いて澄澄(ちょうちょう) 

 湛湛底(たんたんてい)の境地を現出せんと勉める

・古人の公案を把って分別理解上の穿鑿(せんさく)をする

・この身體と思われるものの中に、心というものがあって、その

 物が往来したり能(よ)く動き、能く静かに無形無相なれど、

 根門頭(ろくこんもんとう)眼耳鼻舌身意=色声香味触法)にお

 いて色々と活躍すると想像する

・この心が・・手足を使って善悪の業を成ずると考える

・然(しか)ざる場合には、この身體を無暗に苦しめて、禁欲主義 

 の生活に解脱を求める

・積極的には徳を積み、善を行じて、佛果を獲んと思う

・或いは放逸にして無軌道的生活を営み、それで天真爛漫(てんし 

 んらんまん)だと信ずる

・自分の優越感に沈溺(ちんでき)して自制を知らぬ

●真実の参究心を持ち合わせぬ修行者は、実際生活上、種々の方面において、支障百出の憂き目に遭い、したがって公案を本当に看ることが出来なくなる。

●看話禅の修行の容易でないことが分明になる。

どうですか・・仏教学者であり、禅者である故・鈴木大拙が、四・五百年前の参禅注意書を紹介する意図は何か。

まず一つは、欧米で流行の「ZEN」への誤解と戒め・・そして、現代の僧堂の修業の在り方が・・温室栽培・促成的な、味も香りも色艶まで薄いトマトやキュウリ、茄子のような、禅寺後継者養成所であることを憂えた、古文引用であると思います。