「末後(まつご 死にぎわ)に糞をさらして梵天に捧ぐ」・・一休宗純

元服の書⑨ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

「悟り」というのは、どんな心境ですか?

      ●人生 裸(心)で生きるべし・・そんなもんでしょうか・・

それは独り一人に、もともと備わって(持って)いるものです。

悟り(見性)は坐禅をすること・・その心境が、生活の中で身について、行いが、そのまま坐禅となるような心境・・自分一人・・の只中でしか、発見発明できません。

 

その心境は、どのようにしても、決して他人に伝えて理解されるものではありません。

あえて言えば、言葉や文字で判断、理解できるような、理性、思考、論理、哲学、心理学、宗教(三昧)、物理学、量子力学、さらに芸術や職人、スポーツなど・・戦争や集団など・・集中、分別、対比、検証の範疇にアリマセン。

臨済は、禅(心)に「造作」すること・・意識した思い、目的行動、利権組織、罪や罰、自我意識など極端に否定しています。

達道の禅者は、煩悩が、そのまま菩提(ボダイ・・悟り)であることを、坐禅(禅による生活)で体験、熟知しています。

どだい「悟った」とか、「見性」したとか、修行の僧堂師家、老師の印可証明をもらったとか・・忍者の極意書じゃあるまいし、少し独りポッチの坐禅を自らに課してきた者なら、悟りは、どのようにしても表現できない・・乾坤(ケンコン 宇宙)ただ独り・・自覚するものだという自分軸を確信(覚心・核心)しています。

さらには・・鍛錬、修行し研究努力して、その功績があって悟りに至る・・そんな概念(イメージ)を持ったら大間違いです。

むしろ悟り(見性)など、この世にない・・ありえない事として、独りポッチ禅を、3分間、役立たずになさることが初心、素直なおこないでしょう。

アナタは、禅(心)を悟って、どうしよう・・どうしたい・・と思うのですか。

みんなに認められて、教祖様にでもなりたいのですか?

今・・私は、現代社会に生きているので、誰かの・・何かの教導で「安心できる」とか、「ココロが救われる」とか・・そんな嘘っぱちは見聞したくありません。もう齢(ヨワイ)70を越して足腰も衰え、棺桶(ベッド)の中で寝起きする毎日です。

武田邦彦先生がブログ・・http://takedanet.com/ で言われるように「昨日は晴れ。今日も朝」の清々しい気持ちで、晨陽(シンヨウ  アシタ、アサヒ)を迎えたいと思います。

自分では「人生 裸(心)で生きるべし」です。

釈尊ですら、衆生が煩悩するから我も悩むのだ・・と、現在進行形で云われます。愚禿(グトク 禿げ頭)親鸞は「南無阿弥陀仏」と一度だけでも、この娑婆(シャバ)で唱えれば、極楽浄土へ往生できる・・というが、はたして本当だろうか?・・と思うことがある・・と、たしか唯円に語られたそうです。親鸞さんは、弟子はひとりも持たない・・といわれた方ですが、その後の教団組織・・アリャ一体・・何ですか?

私は、東西の本願寺派を信じるのではなく、親鸞さん(独り)を信じています。

日本の禅では一番に一休(宗純)さんです。遺偈(イゲ 死に際の言葉)に・・誰か吾が禅を会(エ)す。虚堂(キドウ)来たるも半銭(値打ちもない)に値(アタイ)せず・・と、自分が尊敬する中国の禅者を唾(ダ)するごとく切って捨てています。

二番目に敬愛する禅者は、大愚良寛さんです。

 

このように、禅者は自分本位の「悟り」など、何の心の支えにならないことを知っています・・そんな思い(煩悩)を消却(償却)して、地域の人々と一緒に、日常の暮らし(禅による生活)をしているのが真の禅者です。(例え悟ったにしても日頃の悩みは尽きず・・が本当です)・・よく、どの宗派でも坊さん達が、昔から「煩悩無尽誓願断」(ボンノウムジン セイガンダン)と、四弘誓願(シグセイガン)を唱えますが「煩悩即菩提」なのに、ワザワザ、どうして誓願までして「断」ずることをしたいのだろう・・?と疑問です。

今回も、解かったようで、解からない話になりました。

愛が問う(PCの打ち出し文字)・・有(会)難うございました。