元服の書㉘・・良寛さんは、どんな人ですか?

森山隆平著「行乞の詩人 良寛」を紹介します・・

中学・高校生と60才~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

「石仏の森山」といわれた・・故・森山隆平 著『行乞の詩人良寛』(株)考古堂1992年出版・・

漢詩訳文も)にチナミ、良寛さんを紹介してみます。

  世間の人のありようは        我見世間人

  どいつもこいつも同(おんな)じだ  個々例若斯

  とりとめもなくお喋りし       凡言取次出

  言葉と行為はちぐはぐだ       願行全参差 

  言行つねにそむくとき        当言行相背

  責を負うのはどなたかな       禍咎帰於誰

  あとの祭りと悔やんでも       是時仍切歯

  ああ遅かりき由良之助        咄嗟八刻遅

 

  世に売れっ子もいるもんだ    世有多事人

  タレント振りも堂に入り     自用逞聡明

  思いの儘に世をわたる      凡事無大小

  屋敷はオクション        随意皆改成

  ハイカラで           鼎列山海美

  食事はグルメ竝(なら)べたて  宅極当時栄

  前はカメラの放列だ       前門車馬溢

  人気絶頂のスターでも      遠近称声名

  わずか十年もちはせぬ      不過十箇年

  家は荒れはて草ぼうぼう     牆荒荊棘生

       

良寛さんの生涯(1758~1831)は、無一物の七十四年でした。

出雲崎の名主 橘屋の跡継ぎでありながら二十二才で出家。倉敷(玉島・圓通寺)で修行十年。大忍国仙和尚から「良(ヨ)きかな 愚の如く 道転(みち うたた)寛(ヒロシ)。謄々(とうとう)任運、誰か看るを得ん」・・その悟り(印可)の偈の語頭・語尾の良と寛から大愚良寛を名乗って故郷に戻ったのは三十九才。帰郷しても生家に帰らず、乞食坊主と罵られながら「禅による生活」・・清貧の修行を貫かれました。子供の頃から、元来、空想好きで手毬、オハジキが大好き。衣服は無頓着。交際は苦手で寡黙。物忘れも多くボウとして昼行燈と云われたりしました。名家の跡継ぎであり、若い頃は、弟の由之ともども道楽者の評判があり、プレイボーイぶりもチラつきました。

しかし真っ正直で、人を疑わなかった方でした。

五十才以降・・五合庵に腰をすえて暮らされるまでを「破庵仮住」の時期とします。その暮らしぶりは、外護者が増え、村の子供たちにも慕われて、傍らに良寛さんがいるだけで、ミンナ安心(アンジン)した心もちになったと云います。

独り・清貧に徹した禅者、円満な境地に至った詩がたくさん残っています。

  立身出世もままならぬ      生涯懶立身

  乞食沙門はゆくまま気まま    謄々任天真

  貧乏暮らしも板につき      嚢中三升米

  金も要らなきゃ名も入らぬ    炉辺一束薪

  まして悟りは縁もなく      誰問迷悟跡

  雨のそぼ降る草の舎に      何知名利塵

  ごろりてまくら         夜雨草庵裡

  こっくりこ(ゆめうつつ)    雙脚等閒伸 

 

「鉄鉢に明日の米あり夕涼み」無欲一切足 有求万事窮

人間、欲心さえなければ、何事も満足に暮らすことができることを詩文でうたいます。

「世の中に寝るほどの楽はなかりけり」・・と、江戸狂歌にあります。米三升と一束の薪があれば、それで満足とする悟境に至れないのが人情というものですが、良寛さんは、まるで柔道の空気投げのように態を無所得・無心に委ねてしまいます。

そうした良寛さんの草庵の暮らしを支えたのは、村々の農民であり、庄屋の主人たちでした。

彼らは、良寛の帰依者であり、よき理解者でもありました。

その手紙類を覗いてみると、おもしろいほど くっきりと日常生活が浮き彫りにされてきます。

味噌が塩辛いので、とりかえて下さい。甘い好物のお菓子、銘柄指定でのみ、お送りください。この薬は効果効用がありませんので、お返しいたします。インキン・タムシの貝殻に入った薬(貝の絵つき)なんとか都合してお送りください・・などなど。

泥棒に入られて・・の一句「ぬす人に とり残されし 窓の月」サバサバした素寒貧(スカンピン)の禅境地をしのばせる, まったく禅史上、類を見ない「独りポッチ」の行乞禅者でした。

  ハイ 今日は 

      雑炊の味噌一かさ

      下されたく候

   ハイ さようなら     良寛

何卒(なにとぞ)白雪羔(落雁様の菓子)

 少々、御惠たまわり度候。余の菓子は無用。  

   十一月五日 良寛    山田杜皐老

薬十帖あまり服用 仕候(つかまつりそうら)へ共

 何のしるしも無之間(これなくあいだ)

 余りは御返申候  七月十日 良寛

此(この)味噌 風味には難なく候(そうら)へ共、

 あまりにも しほ(塩)はやく候間、何卒おかへ

    被下度候(くだされたく そうろう)早々以上 

                       十二月二十二日 良寛  定珍老

いんきん たむし再発致候間 万能功一貝(ばんのうこう ひとかい)お恵度被下候

  (貝の絵)  七月九日 良寛  守静老

蕭条老朽身   明日をも知らぬ 老いの軀は 

 借此草庵送歳華  草の庵を仮の宿 

            命しみじみ送るかな

 春来如有命    花咲く春のめぐり来て 

            生きの命のまだあれば     

 鳴鈴一過夫子家  鈴を鳴らして君が家 

            訪ねゆく日を指おりつ

 

災難に遭う時節には、災難に逢うがよく候。 

   死ぬ時節には死ぬがよく候。

   是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

           山田杜皐(とこう)老あて 手紙(1828年12月 新潟県三条市地震 

   家屋全壊12000、死者1500人・・良寛71歳)

この災難の字を「天災、地震、戦争、難治の疫病、病気」など、良寛の生きていた当時の時代背景に合わせてみる必要があります。不意に、避けようもない不幸な出来事に遭遇して、死ぬのかナ・・と覚悟しないとならない時・・良寛は(自分は)・・何時も、ソンナ災難を逃れる方法は、これしかないと思っています・・と、身内を亡くされた知人に(慰めようもない)運命=業への覚悟を書かれました。

真っ正直な良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」・・と同義の想いであると解釈しています。

現代は・・周囲の思惑や詮索に取り囲まれて、窮屈に暮らす社会ですが、良寛さんは、貞心尼に看取られながら、やせ我慢や悟り臭さを抜けきって、死すべき時節にいたり往生されました。

病いは「吐き下だし」。辞世は「かたみとて何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじば」の一首と、日頃、何かの話のおりに詠んだものか・・「良寛に辞世あるかと人問はば、南無阿弥陀仏といふと答へよ」の二つが伝わっています。

どうやら、他力易行道(あなたまかせ)の境地に自らを置いて寂に入ったと思われます。葬儀は盛大に行われ285人の会葬者が参列。葬列は三町余に及び、先頭が火葬場についても、棺はまだ木村家の門をでなかったと手紙類に書かれています。

墓は隆泉寺境内、木村家墓地の一隅にあります、

 

【附記】この元服の書㉘は、NHKなどの放送で紹介された・・石仏の森山隆平(1918~2008)・・実は、私の母の弟(つまり叔父)の本の丸写し(コピペ)です。

私事ですが、学生時代、鎌倉(円覚寺)に帰るのが面倒な時は、当時、住まいの西落合のお宅を訪ね、祖母のキクおばあちゃん・・幼い頃、松任の駅におんぶされて汽車ポッポを見せてくれた「ピーばあちゃん」の夕ご飯をいただいたりしたものだった。

その当時から、石佛の写真や詩句を紹介されていたが、同好会のように、石仏に関心のある方々を道案内したり、教導して現地で解説されたりして、実際の見聞を大事に・・(自分が見聞きしたことのみ写真に記録し)詩にされ本にされる人でした。

この「行乞の詩人 良寛」は1992年に母(現在103歳)から私に渡されたもので、同じ本を東京で直にいただいており、計2冊、手許にあります。これは、何度も良寛の足跡を踏まれての作品であり、そっくりコピペして紹介しても、どんな権威のある本も敵わないと思います。

また、本には それぞれの漢詩(と意訳された詩文)に付随して、洒脱な良寛像が描かれており、まるで、その漢詩の禅境(地)を絵解きしてみよ・・と云わんばかりの描き方、墨の濃淡なのです。時に良寛像が「無」「嘸」と読め、時には「如・行」と見え「一人」か「一夢」と思えることもありました。

他に石仏・羅漢の書、良寛や加賀の千代女など多数の著作があり、関心のある方はお読み下さるよう、お勧めしておきます。

以上、良寛の生活の一コマをご紹介しました。

有(会)難とうございました。(3/16「災難にあう時節」・・加筆追記)