「ナイト スタンド ブディスト」について・・

お尋ねの件・・2019年4月2日(火)改訂しました。

アメリカ(西欧)での・・仏教・寺僧の教導に頼らない(宗教・主義に関与しない)一般の人が、夜、電気スタンドをつけて仏教関係の書を読んだり、坐禅・瞑想をしたりすることを云います。

ただ、自分(独り)の生き方を省(かえ)りみて、静慮・瞑想・坐禅をするのは、大変 良いことだと思います。

仏教には、もともと、狭義で言えば「仏陀(覚)者の教え」と、広義には「仏(ゴーダマ シッダルダの)教(団)」の二面性があります。ですから、求道修行中の仏陀(私は釈尊と云っています)が、菩提樹下、暁の明星を看て大覚されたZEN・・阿羅漢(アラカン・自己を究明した覚者)の「坐禅」を真似て 仕事の会社帰りの欧米人が 独り、夜坐されたり、寝坐、起床坐されたりして、何の規制(律・戒・宗教組織)教導を受けることなく、自由になされることを・・(かねてより「独り(三分間)ポッチ・イス坐禅」で)推奨しております。

   *自由とは・・自(おの)ずから由(よし)とする意です。

   *人/単(独り)と書いて禅。坐禅の坐は、自然、大地の上に、

    バラバラにスワル姿です。家の中の座とは書きません。

「禅」は・・広義でいう「宗教」ではアリマセン。

哲学・文学や論理的概念でもありません。

菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡海して、梁の武帝と面談(520年)禅について問答した逸話は、禅語録「碧巌録」に詳しいのですが、当時、中国で広まっていた仏教との比較話で達磨は「欣求=祈りの対象たるべきことも無く、効用効果=功徳もなく、青空の如き心境(地)」・・が禅であると述べています。「ソレじゃ、いったい、アナタ(達磨さん)は何のために支那まで来たのだ?アンタはわざわざ「無い」ということを伝えに来たというが、イッタイ何者なんだ?」・・との問いに「識らず」と断言して、嵩山少林寺に面壁九年、坐禅されました。ZENは すでに釈尊の布教行脚の時から、独り、弟子の迦葉(かしょう)に付嘱す(ふしょく依頼・タノムの意)とされている仏教外・別伝の出来事です(事例 無門関 第6則 世尊拈花)また、日本に伝播した禅については、達磨以来~現代インド仏教の面影は まったく どこを探してもありません。

こうした禅語録の、問答逸話のどこが、達磨を始祖とする「禅」を「宗教」として伝えた・・と言えましょうか。

悟り(見性)は。ひょっとしたハズミで起こる禅(機)の自覚体験です!この自分にしかワカラナイ・・文字にも言葉にもできない禅経験を、日頃の生活の中で、実現醸成して(禅)境地を深めていくことです。

 

論理(哲学)的に云えば、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)・・何のことやらの心のありようです。これは、坐禅したから悟れるような、また論理的でも修行努力の結果でもありません。

禅が、中国・日本で宗教(的組織)化したのは、寺僧の集団事情・国土と政治変遷、現実重視の風土などが因縁であり、さらに日本に伝播して、天皇・武士社会に定着した由来もあります。

禅の伝播は やむを得ない事情と、生業(生活手段)の、寺僧による長い時期の揺籃を経て 今日があるのです。

しかし、日本の戦後にいたり、親離れか子離れか・・宗教集団、組織のクビキからナカナカ脱却できず、寺僧の跡継ぎ養成の為の温室栽培の如き修行道場や、僧堂の師家たちのアンチョコ教導、学問化、知識化した 接ぎ木のような伝灯に至って、遂に立ち枯れ状況になってしまいました。

これは 外国人歓迎の観光・拝観禅に成り下がった、まるでパンダ絶滅種の有様と言えましょう。

(ですから 外国の方に禅を語る時は、日本で学修できることではなく、独りひとりの坐禅体験を通じて、独り一人が「禅による生活」を自覚する出来事だ・・と、お伝えください)

かって・・純禅のタネは、アメリカなど太平洋を越えて大樹となるよう、先達の鈴木大拙(仏教学者・禅者)先生等が、無依の種蒔きをされました。

せめて、まず、坐禅したいとか、禅を知りたいとか・・の外国人は 鈴木大拙著「Living by Zen」(禅ニヨル生活)の1冊を、読みこなしていただきたいのです。

そのうえで、誰にも語らず、他に学ばず、ただ独り、禅語(趙州無字 隻手音声など)関心をもたれた公案を念頭に、坐禅してください。

外国人がナカナカ「悟り・見性」できない理由を、鈴木大拙先生は以下のように語られておられました。

「私には手がある。5本の指がある」・・という、

英語では【手を持つ・・5本の指を持つ】・・という。

自分の手であり、自分の指であるのに、他人事のHAVEを使うと・・

私流の解釈で言えば・・英語は、在る、無い・・是と非を明確に分別するので、学問・科学の研究に有利な言葉です。しかし、東洋・日本語の「如去・如来」とか「看 脚下」など、漢字のもつ・・冷暖自知、天地同根の意は、香を聴くという日本人と同様に理解するのは難しい。彼らは英語で「考え・分析」しているから「無」の文字ひとつ・・無 嘸 牟 巫 懋 亡 梦 矛 廡 无 母 敄・・など 計60文字(PC検索)の意味など 直ちに理解できないこと・・なのです。目的と手段を ハッキリ分別・論理思考する彼らは、2千年以上の昔から、論理的思考に染まっているのです。その言葉と文字のシガラミは、2千年の歴史であり、容易に脱却できるものではアリマセン。

しかし石上に花を咲かせ、大海の水をひと息に飲み干す・・真の禅者を、この世に・・たった一人でも 誕生させるのが禅の所以(ゆえん)です。

これを願って「役立たずの 独り(3分)ポッチ坐禅」を提唱しています。

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録 意訳

       「禅のパスポート」無門関 素玄居士提唱 意訳

どうぞ、ナイト スタンド ザゼン のおりに ご覧ください。

有(会)難とうございました。