禅(ZEN)羅漢と真珠 ◆坐禅の心要⑴ 放下着

坐禅をしないと悟れませんか?

中学・高校生とその親御さん達~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

禅(ZEN)は、例えると・・

大地(坐禅)に咲く木槿ムクゲ)の花です。

その一樹のタネは「自分とは何か」・・

自己をかえりみる心の問いと、その独り一人の自覚です。

坐禅 無くして「悟り」は ありません!

結論を先に書きます。昔・・坐禅せずとも悟る人が多くありました。(紀元千年の前後、まだ禅者が独り、山奥に庵を構えて生活し、求道者が行脚していた頃)・・以降 宗教的集団(寺僧の組織・運営)の現代まで、いくら坐禅、修行をしても「悟れない」人が大多数となりました。

(例えば、一休・良寛など、晩年は「独りポッチ禅者」です)

長い偽禅 横行の時代が続いて・・平成になった頃から以降、どこぞの禅寺の老師さんから「印可」(悟りの証明)をもらったとか、禅の公案が透ったとか、野狐禅(やこぜん)バカリが目立ちます。

スマホやPCの発達からAI時代を迎え、本=活字文化が衰退するのと同調(シンクロ)して、口頭禅/観光禅・・いわゆる形骸化した禅(ZEN)しか残らず、世界に漫然と拡散しています。

アメリカなどで「ナイト スタンド ブッデスト」という、仏教に関与しない庶民の瞑想・坐禅が注目されています。

神・仏に欣求祈願しない普通の人が(国籍、主義、社会的地位、信仰を問わず)仕事から帰って 自由に 独り 静かに、坐禅(瞑想)する事をいいます。

かねてから禅は宗教ではない「独りポッチ禅」こそ「純禅」と提唱して、この奉魯愚(ブログ)を通じ紹介してきました。

(この はてなブログで【禅者の一語=碧巌録意訳】【禅のパスポート=無門関提唱(素玄居士)復刻解説】【禅・羅漢と真珠=禅の心 禅の話】で、合計17662回のアクセス(閲覧)があったそうです。誰共、仲間にならない・・独りポッチのイス坐禅ですが、来たる者は拒まず、去る者は追わず・・少しづつ、純禅(坐禅)への関心が高まっているのでしょう。こんな役立たずな奉魯愚(ブログ)であればこそ、何回も見ていただけるのは、大変ありがたいことです)

世間では、禅や坐禅・悟りについて・・ストレス解消に役立つとか、呼吸法は健康増進に良いとか・・心理学的療法に良いとか・・効用効果を求めたり、成果・検証を訴求して飯のタネにするものばかりですが・・。

無償、非組織、教導無用、この奉魯愚も読み捨て忘却して、独りポッチいす禅を無理せず実行してください。貴方のこだわりとか思い上がりや仲間意識など坐禅に不要なことは、早く捨て去ることです。。

純禅(の坐禅)は、どうすればできるのですか?

何の役にも立たない(無価値)な・・一切の造作(比較・執着)を追わない「独りポッチの坐禅」をすることです。

ある禅者は悟りの一語で「無功徳(むくどく)」/「莫妄想(まくもうそう)/「放下着(ほうげちゃく)」と言いました。

これら見性(悟り)のヒトコトは、この羅漢と真珠「至言の禅語」で紹介していきます。

今回、坐禅の心要は放下着(捨て去れ)です

これは、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん778~897)の求道者、厳陽との問答による一語です。

長年の坐禅・修行で、無一物の境地に至ったと自負する厳陽に、趙州は、イキナリ・キッパリと禅機・禅境(地)丸出しの「放下せよ(捨て去れ)」と言い放ちました・・悟りの境地である「無一物」の境地すら、自我意識、未練の残りカスがある・・それを捨て去って、少しも跡を残さないところにしか「純禅」の花は咲かないぞ・・と一語を浴びせたのです。                          

  • 坐禅は、自己究明の手段(方法)ですが、結果(悟り・自己救済)を求めても決して得られません。禅は、もともと無功徳・無効用・無一物ですから、まず、役立たずのゴリヤクなし・・と覚悟してなさることが肝要でしょう。
  • 坐禅は・・誰からの教導も受けず、お一人で、数息して、なさってください。約10秒程度の呼吸を「ヒトーツ、フターツ・・」と18回数えます。それで計3分程度の坐禅です。

坐り方は、イスに座り 姿勢よく 眼は半眼に、手は肩に力の入らないように(合わせるなり膝におくなりリラックスして・・時に ベッドで寝禅(夜/朝)トイレで坐禅。通勤、通学の電車の中のつり革禅。休憩時間のひと息禅・・ご自由に。たったこれだけですが 独りポッチで ナカナカ続けられません。

以前、独りポッチ禅のご案内をしたら、やたらに形式にコダワル人がいました。足は結跏趺坐でなければ・・せめて線香3本位は・・など、ソンナ作法の多い、痛くて苦しい坐禅はお薦めしません。偉いお坊さんや学者、先生の講演話を聴いたり、お仲間と写経や、精進料理を食べ歩く観光禅は要りません。お金も先生も仲間も時間も、一切 何の手間のかからない、役立たずの坐禅をする・・それが「禅」です。

ゼーンブ・・放下し尽くして、心が木槿(ムクゲ/無垢偈)の花のように、青空に香り豊かに・・風に乗って流れていく・・それが風流でしょう。

ムクゲ(花)を、無垢(むく・清らかの意)偈(げ・悟りの詩)にダブらせました・・見性は言葉・文字にできない直観的な自覚・発見発明です。せいぜい俳句とか詩とか、銘とかでしか表情(表現ではなく)できません。奉魯愚(ブログ)で、意訳中の禅語録・・無門関とか碧巌録の逸話、問答が、ウムと納得できたら、後は、アナタの「禅による生活」があるだけです。

禅(ZEN)について 素直で単的な見解・疑問・質問があれば・・日本語のメールでどうぞ。

日本語で率直にお答えします。宛先 加納泰次  taijin@jcom.zaq.ne.jp

 有(会)難うございました。4月17日(WED)追記補筆。