坐禅の心要⑵ ◆壺中 日月長(こちゅう にちげつながし)

        坐禅の心要⑵ 壺中 日月長し

GALLERY星ヶ岡アートヴィレッヂ(四国・高知)での話・・

6月29日、四国高知の友人、岩崎 勇氏(写心作家)の実兄、故、片木太郎 没後20年 画文集出版(編集岩崎勇)記念パーティに前日泊まりで出席した。

午前中、絵が展示してあるギャラリー星ヶ岡を尋ねた。画家の片木太郎氏は、早逝した四国の、あまり知名度はない方だが、起床時と就寝前、30分の静坐(禅)をなさっておられたようだ。どの絵も「空」が素晴らしく描かれていて、達磨の「廓然無聖」碧巌録第1則 武帝との禅問答、禅境地・・「カラリとした青空」を想わせ、絵の前・・前・・で、無言で立つ以外になかった。

本来、絵には・・くだくだしい注釈や由来・解説は要らない(説明が必要なのは絵ではない)

西欧の変化(へんげ)する空に禅の「色即是空」を受け取った。

空と云えば、昔、鎌倉円覚寺坐禅しながら、演劇学や映画論を学んだ学生の頃、アラン・ラッド主演の(任侠)西部劇「シエーン」の空の美しさに打たれて何度も映画館に通ったことがある。

それ以来の・・まっさらな空との出会いです。

独りヨーロッパを行脚した画家の心象に打たれました。

*折り・・高知への・・ご縁の方にお薦めしたいTPOです。

星ヶ岡アートヴィレッヂ 088-843-8572 高知市横内153-1 /6月29日~7月15日10:00AM~18:00PM/無休(地理・・よく調べて行かないと迷います)

この星が岡の展示場で(実に清楚で閑静なギャラリーでした)管理の武田さんと、時間の許すついで、茶道や利休、禅の話に及びました。

茶掛け「壺中日月長」は、その時の話題です

この一語は・・中国の仙人話(後漢書)に由来する・・汝南(じょなん)の町役人であった費長房(ひちょうぼう)が、軒先に壺をぶら下げて薬を売る老翁の言いなりに、その壺の中に入ると、そこは仙境だった。彼は仙術を学んで帰ると(僅か十日余りと思いきや)十数年の歳月が経過していた・・という。アインシュタイン相対性理論の、光速ロケットで旅した、わずかな時間と、地球時間のあまりにも長い年月の落差に例えられる話だ。日本の浦島太郎 中国版である。

これを茶道(茶人)は、禅の三昧境(地)と混同して、著名な書家の一行書(茶掛け)として珍重するに至った。

禅では、今・此処(孤・個)を大事とする。

禅者は、過去・現在・未来など時間経過を分別したり、壺中・壺外を比較区分して、その心境を語ることはしない。

禅では「日月長し」を、自分は・・どのように受け止めて・・暮らしているのか・・その禅境(地)を自身で感じたまま、語るだけである。

私は、社交的な茶道には関心がない。

だが、侘びとか寂びとか云うのなら、茶の湯の前に、生活の中で「独り坐禅」の三分間ほど なさることをお奨めしたい。

 

この「日月長し」の禅境を「壺に水仙、私の春は十分」山頭火・・これは、チョット禅臭くて私はとらない

例えば・・江戸期、原の白隠は・・「六月の風は安売り、売扇は価三文」と、暑い苦しい、好きだキライだ・・を、天然の風に託してサラリを述べている。

越後の山里、五合庵で「何となく心さやぎて寝ねられず 明日は春のはじめとおもへば」と、僅かの米や薬の代わりに揮毫している大愚良寛の書も、未練たらしくなくて好きである。

この雑記で、とっておきの禅者の一語は、壺中も日月も吹き飛ばして「喫茶去」で・・納棺から葬式まで済ませたような趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん778~897)である。

趙州狗子(くす)・・無門関第一則「無」字の一関は、十年坐禅しても会得しがたいと云われる。

この「お茶をどうぞ」にかかっては、一杯のお茶すらマトモに飲ませてもらえないまま、役立たずの坐禅に齧りついて(果たして)身につくかどうか・・

さても ギャラリーの出会いこそ、楽しい「日月長」でした。有(会)難とうございました。

帰路はG20を終えて関西空港を飛び立つトランプさんのお蔭で、3時間余りも高知空港で待機され,ANAから千円の遅延お詫びの封筒をもらった。どうやら文章が茶道から誤サドウしてしまったようです。

◆7/3追記・・【附】西部劇SHANE(シエーン)1953年 主演 アラン・ラッド/監督 ジョージ・スチーブンス/撮影 ロイヤル・グリッグス/音楽 ビクター・ヤング /第26回 アカデミー賞 カラー部門撮影賞 受賞/主題曲「遙かなる山の呼び声」