◆人生 ホントに「ケ・セラ・セラ」でいいんですか? とんでもありません!・・気が木でない話②
坐禅の心要⑶「ナルヨウニナル・・シンパイスルナ」に絡んで、意見があり、問い合わせがあった。歌の文句の「ナルヨウニナル」の 運任せのホッタラカシでは、よくなることでも悪くなります。人を看て法を説けと云われます。前号で書いた【一休さんのナルヨウニナル】は、禅語の「放下着」のことでもあります。
・・と云っても、この言葉は、中国、唐代の趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん 曾州778~897)という、120歳まで生きて、禅を教導した、卓越した禅者の言葉です。しかも、修行のほぼ完成した厳陽(げんよう)という求道者が、禅語「本来 無一物」の公案を持ち掛けて、趙州の禅境(地)を酌量した問答に由来しています。
まったく「ホッタラカシ」でいい・・との手前勝手な判断は大間違いも はなはなだしいことです。
・・この質問に答えます。趙州の「放下着」は、厳陽の問いに答えたものであり、一休の「ナルヨウニナル」は、門下の騒動の時に開封せよ・・と指示した遺言です。つまり、「問い」に対する禅者の「答え」は・・キミみずから看よ・・と云うのです。
つまり他人の意見などに振り回されず「自分で発見・発明せよ」と云うのです。ですから、仮に私の意見を、いくら聞いたところで、それは私の意見であり解釈にすぎません。とどのつまり私の悩みを解決、解消してくれた薬の効能書きにすぎないのです。貴方にとっては絵にかいたモチ、決して満腹(納得)にはなりません。世の中、付和雷同する人が、この「ナルヨウニナル」を聞いたら、人生、すべて人任せ。どうなろうと心配するだけ損じゃんとばかり無関心の「ホットケ病」が蔓延することでしょう。
自分の意見がなく、もちろん自主性がなく、マニュアル通りの生活に慣れてしまった生活を続けると・・自分すら自分がわからない・・ギリシャの哲学者、ソクラテスの「汝 自身を知れ」以来の「問い」に必ずぶつかることになります。
「俺って、何なのだろう?何のために生まれてきたのだろう?」
この自分への問いかけこそ「役立たない」独り坐禅への大事な「産声」です。そして誰もが、独り一人・・その人生は、自分発見の行脚(旅)となっていくのです。
どんなに本を読み、碩学の先生に尋ねても、アナタが、自分で自分に突き詰めて、得心のいく解を発見発明しない限り・・つまり、生活体験の中で・・ピチピチ若鮎のごとく反応、検証(見性)しないと、迷いは雲の如くに湧いては消え、湧いては消え・・際限がありません。
それでは私の私だけの答えを書きます。(読忘してください)
それは「正直に生きること」・・人生、裸(心)で歩くべし・・
禅は宗教ではありません。独り一人に「禅」(唯我独尊)があります。しかし、それは・・何の役にも立たない「独りポッチ坐禅」でしか、体験し得ない・・浅くもあり深くもありの禅機禅境(地)なのです。
看看 看ヨャ 看ヨ
古岸 何人把釣竿 独り翁が岸辺で釣りをしているぞ
雲冉冉 水漫漫 雲は悠々と大空を旅し水は果てなく広がる
名月蘆花 君自看 月は蘆花を照し天地一白。君自ズカラ看ヨ。
頌(雪賓重顯)
碧巌録六十二則 雲門中有一寶(うんもん ちゅうう いっぽう)
雲門 形山(ぎょうざん)に秘在(ひざい)す
【追記】所説は種々あっても、私は 一休さんが生涯、抱き続けた公案は、自分の生い立ちから始まる根深い性の問題でしょう。
柳田 聖山著「一休 狂雲集の世界」人文書院の説を採ります。
一休は・・風雲の生い立ちにあって、人間として業(性・宿命)の公案「婆子焼庵」の問いに解を求め続けた禅者だった・・といえるでしょう。
この公案の大意は、青年僧を二十年も供養していた達道のお婆さんが、求道の禅境を知りたくて、年頃の娘を抱きつかせて「正恁麼時(しょう いんものとき)・・(この私を)どうしてくれます」と迫らせた出来事による。
僧は「枯木寒巌によりて三冬暖気なし」と答えた・・のを、聞いた婆さんは「个(こ)の俗漢、よくも長い間タダメシ喰らっていたな」とばかり 追い出して その庵を焼き捨てた。
いったい・・枯レタ木ガ凍ッタ岩ニ寄リカカッタヨウダ・・との境地の何が悪いのか。この公案に一休の詩によるコメント・・(右替え歌 柳田聖山氏)
老婆心 賊のために梯(かけはし)を過(か)して 婆(ばば)の魂胆 泥棒手引き
清浄の沙門に女妻(にょさい)をあたう 青い坊主に 可愛い娘(こ)添わす
今夜美人 もし我れを約せば 今夜その娘が このわし抱けば
枯楊(こよう)春老いて更に稊(ひこばえ)を生ぜん 枯れた柳もわき芽を出そう
*ひこばえ・・昔・稊と書かれていますが、今は「櫱」となっています。
*个(こ)と中国で書いたが、日本語で「ケ」箇とか個の意味になったそうです。
【附記】禅の悟りは、大悟すれば生涯、廓然無聖(青空のごとき)であると解してはなりません。坐禅して見性(覚悟)しても、本能(食欲、性欲、感情)は湧いてくる。まして社会での軋轢、葛藤は、生きている限り、次々に雲の如く湧き上がって苦しみ、悩むのが人情です。
煩悩は断ち切れない。
坐禅で悩みが断ち切れると誤解しないこと。
悩みが悩みを増幅させてしまうことがままあります。
煩悩即菩提(悟り・愛・慈悲)であると云うのは、役立たず(無価値)の坐禅が出来てこそであり、欲気の想い(煩悩)に捕らわれない醒めた坐禅がなされてこそなのです。
要は・・迷いが先か悟りが先か・・言葉や文字が先か、それとも行動が先か・・因果が先か応報が先か・・鶏が先か卵が先か・・比較検討するのではなく、役立たずの(無価値な)「今・・ココ」に坐るのが禅のすべてです。
これが禅の「終りの初め」であり「はじめの終わり」です。
一休が、性(業)を解脱した一偈・・
「枯れた柳も、櫱(ひこばえ)を生ずるぞ」
コレは・・コレは・・
なんと清々しい禅境(地)でアルコトか!
有(会)難うございました。