禅・羅漢と真珠/雑記29 ◆いま・・此処(ここ)の真実?

禅の極意「今・此処」とは?・・その真の意味を教えてください。

「時間➡時覚」は、どのように「自覚」体験が出来ますか・・? 

坐禅は「棒や喝」の「暴力」で鍛えられる というのは本当ですか?

禅について・・三つの「?」に、まとめてお話します。

● 痛棒、大喝は「イマ・ココ」の気付け薬です。

● 俱胝一指の公案、机をコツン(故、鈴木大拙翁)で・・どうぞ。

● 棒・喝は暴力ではありません。

  禅者(師家)の思いやりも、スマホの時代 廃(すた)れました。

時間とは、仏陀(覚者)の教え=「仏教」によると、刹那(セツナ 0、013秒)から、1劫(ゴウ 43億2千万年)まで、一瞬なりと切断して提示できない、過去から、現在・・未来へ・・ズットつながっている・・今・いま・イマの連続。際限のない波濤だといわれています!

西洋の科学的論理的な「今」と云う瞬間は、まるで物理学で言う波でもあり粒子でもある「量子力学」の世界でしょうか。

科学的とか物理学の学問で、ビッグ・バンで初めて「時間」が生まれたとか・・ブラックホールの中に時間はあるのか・・とか、少なくとも科学的な分析や考察を「禅」では云いません。それは、例えば仏教で言う「如」の世界や「西方浄土」は何処にあるか、わざわざ調べたりしても競(せ)んないことになるからと同じです。

生死・葛藤・懊悩の不安を どれだけ分析・検証しても解消するに至りません。人間だけが「主体と客体」に区分して分析、考察する、思考(霊性を認識できる)動物です。言葉・文字、そして数字とゼロをつくり、物事を比較・対比させて、有ると無し、価値と無価値、生/死、善/悪・好/嫌など、思考と感性(本能)を元に、人間社会をご都合次第の文化で創り出してきました。

また、現代科学は、光の1年間に届く距離を1光年と称し、この宇宙を140億光年として設定し、今なお、広がりつつある宇宙像を正論としています。TVのブラウン管の雑音映像(ノイズ)の約10%が、その宇宙誕生の時の電磁波だと云うことです。   

この電磁波・・戦争の時は敵機を探知、撃墜するレーダーに使われ、今や、家庭でチンする便利な電子レンジになって普及しています。

科学への好奇心はつきないにしても・・では、いったい不思議な電磁波の、どこを切り取れば、現在(イマ)になるのでしょうか。どこからが過去になり、何時からが未来(将来)になるのか・・納得できる答えはあるのか、ないのか・・ワカリマセン。アインシュタイン によれば、運動する2つの物体に同時刻は存在しないそうです)。

時計や暦(時間意識=時覚)は、科学的社会(文明)に発達にとって欠かせない係数でしょうが・・「禅」は、ソンナ頭デッカチな論理的思考方法はとりません。

各自が、直截な「時覚の自覚」体験を尊び、発見することに迫るのです。

禅には「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人」の格言があります。その意味は「生きる・死ぬは、自分にとって最重要課題だ。生活のすべてに無事、平穏なる時はないのだから、(他人の言行に振り回される・・)夢うつつに過ごすなかれ。時間は、お前さんの勝手な造作を待ってはくれないぞ」とあります。

(造作するナカレ・・は臨済義玄の言葉です)

良寛の、地震で災難した知人へ、びっくりするような見舞いの手紙があります。

災難に遭う時節には、災難に逢うがよく候。 

  死ぬ時節には死ぬがよく候。

   是はこれ災難をのがるる妙法にて候。山田杜皐 老あて手紙

    (1828年12月 新潟県三条市地震 家屋全壊12000、死者1500人・・良寛71歳)

この災難の字を「天災、地震、戦争、難治の疫病、病気」など、良寛の生きていた当時の時代背景に合わせてみる必要があります。不意に、避けようもない不幸な出来事に遭遇して、死ぬのかナ・・と覚悟しないとならない時・・良寛自身、自分は・・何時も、ソンナ災難を逃れる方法は、これしかないと思っています・・と地震で身内を亡くされた知人に(慰めようもない)運命=業への覚悟を、寂寥の想いで書かれました。私は、真っ正直な良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」・・と同義の想いであると勝手に解釈しています。

臨済の大喝、徳山の三十棒・・昔の求道者は、達道の禅者を求めて行脚し、これはと思う師に随侍して、期間・費用、忖度ぬきに、鞭撻を図りました。中国であれ、日本であれ(江戸時代・・良寛の頃まで、求道者は、居住の家を待たず、行脚、乞食(こつじき)に修行をし、あるいは、自ら田畑を耕し、家普請をし、草鞋を作り薪を売って働き(作務し)ながら、自(みずか)ら【禅による生活】を汲み取っています。今どきの寺僧(葬式坊さんとか、観光禅のお布施・授業料)の組織的集団とは大違いの、独り一人の修行でした。

臨済宗の祖・・臨済義玄だって、黄檗のブッ叩き棒を3回にもわたって浴び、紹介先の大愚の元では瘋癲(フーテン)者とさげすまされ(省悟して、その脇腹を3度突いた後)黄檗の元に戻って、師のホッペタを思い切りヒッパタいて、大悟の証しとしています。

まるで横から見ても縦から見ても暴力教室のようです。ですが、見性(悟り)は、頓悟(ヒヨットしたハズミ)の自己発見といえるので、学校・組織、集団修行、教育論文、試験採点方式では、ゼッタイ達成できない個人の自主的行為です。棒で30回も叩かれたり、首を締め上げられて「サア道え、言ってみろ」と洞豁(どうかつ)された・・と思うのは、被害者意識の過剰反応です。自発的に内爆・発見(見性)する・・その寸前の、禅者(師家)によるチョットした動機(キッカケ)刺激(気付け薬)にすぎず、当人は、そうなってくれた自分(自性発見)に感謝しています。

徳山は、禅機の熟した求道者を見極めて、発見発明するよう、促す意味で三十棒(回)打ち据えて、見性体験させただけなのです。コンナ暴力的に見える行為が、禅の中にかくれ潜んでいるとは・・と怖気づく現代人ですが、スマホ時代・・廃れました。釈迦の道う「拈華=微笑」の公案も、臨済の大喝一声も、ゼーンブ「今・・此処」の、素直な時覚(自覚)の霊性体験に他なりません。

禅機(悟りに到る突然の機会)は、どんなTPOも「今・・此処」を「時覚/自覚」した瞬間のコトです。求道者の禅機を見据えることなく、ヤミクモナ棒喝行為をしたとスレバ・・それは寺僧・師弟もろとも野狐禅に堕してしまう・・度し難い欺瞞でしょう。

口を酸っぱくして言いましょう・・坐禅して悟りに至ったのは、釈尊独りのみ。師家の(一見、暴力的な手助けを含めて)アドバイスを機に見性した禅者は、禅語録をひも解いても十指に足らぬ少人数しかおりません(見性の総ては・・普段の生活行為の中で、禪機の自発によるものでした)

*見性の証しの、師の印可状を破り捨てたり、伝来の衣鉢を焼き捨てたり、寒中、貧者に仏像を焼いて暖を取らせたり、仏像(の金銅、後光)を与えたりとか、禅語録には、自由闊達な禅者がたくさん登場します。禅機も・・梅の香りで・・とか、掃除をしていて・・とか、箒で叩かれて・・とか、指を切られてとか・・独り一人に、大覚を自省自発する禅機が備わっていることがよくわかります。

無門の云う如く、文字にも言葉にもならない【今・ソノコト】ですから、ギリギリ・・趙州(778~897)は「喫茶去」と道い・・「放下着」と云い、雲門文偃(うんもんぶんえん864~949)は「乾屎橛」(かんしけつ・クソカキベラ)と言い・・その弟子、洞山守初(とうさんしゅしょ910~990)は「麻三斤」と答え、密庵咸傑(みったんかんけつ1118~1186大徳寺)は「破沙盆」(はさぼん・欠けた役立たずのスリ鉢)と【独り一人】喝破、自白しました。

(コンナ自分独りにしか体得できない禪ノ自省自認ノ いったいドコニ宗教ヤ集団坐禅ノ有効性ガアリマショウカ!)

自らの(見性)は・・痛(触)覚・聴覚・嗅覚など、人の五感を通じ・・慈/除/死/旨/知/視/聴/嗅/痛・・自(時)覚する・・全身の瞬間体験なのです。自己が内爆して跡形もなくなる・・いうに云えない経験です。

誰でも彼でも、滅多やたらに棒喝するのは、ソレコソ暴力教室です。

ある程度、禅境(地)が煮詰まってこないと、棒・喝どころか、この糞袋子(フンタイス・飯クソ袋の人間)とばかり、求道者の相手にもしてくれない・・純禅・坐禅境地の世界が(棒・喝)にあるのです。

かねてより、私に限らず、素玄居士をはじめ、真の禅者たちは・・「禅・坐禅」は宗教ではない。と主張しています。禅の求道者が、長い間、寺僧の揺籃を受けたのは、厳しい社会(政治)的な迫害や組織の利権があったからであり、また、その後、逆に、宗教の名のもと集団を擁護する組織で現代にいたったので、抜き差しならぬ弊害(運営、拡大化)に陥ってしまったと考えています。ですから、何らかの利権を追い求める寺僧や、その寺僧の為の組織的な禅・坐禅集団・・の影響を受けない・・純禅、坐禅は「釈尊・達磨禅」に還える「無功徳=役立たずの独りポッチ」禅しかない・・と思っています

幸いにも、スマホ・PC(この電磁的個人的)社会になったおかげで、タッタの2年あまり、このはてなブログを通じて、お話させていただくだけで、2万をこえるアクセスがありました。活字本で書店に並んだにしても、これだけ禅(坐禅)に関心をもっていただけたか・・どうか。これから、ますます電磁的社会が進行するでしょう。それだけに欲求不満(ストレス)を抱えて、悶々と悩む人が多くなります。

たかだか三分・・思い立ったら、その気分のままにだけ・・でよいのです。役立たずの独り(イス)坐禅してください。

そして、ふと、寂寥(無常観)に駆られたら「禅者の一語=碧巌録」「禅のパスポート=無門関」の千年前の唐・宋期の禅語録の意訳のどこでもよい・・矛盾に満ちた公案、禅者の行録話を読んでください。例え、眠くなっても、ウンザリしても・・字面を眺めただけでも・・キット「役立たずの一語」が、心のどこかに、チクリと針ガカリしてくれることでしょう。

このノドボトケの心ガカリこそ、菩提樹下、釈尊坐禅少林寺の面壁、達磨安心に繫がる・・禅(見性)のビッグ・バン・・「自己発見」となる核(覚)心に違いありません。

・・フト寂寥感⇒独り(ポッチ)坐禅・・

 ⇒直截な実感(禅機)の自発自省

 ⇒ZEN・BIGBANG(時覚の自覚)

 ⇒禅による生活・・Living by Zen

この話、見聞だけでは 賊気・執着(無功徳を見徹出来ない自分本位の独断)に絡めとられて、自暴自棄になりかねません。注意が必要です。

読書や思い込みの解毒剤は・・役立たずの「独りポッチのイス坐禅」のみ。

自分で自分(の悟り)に誘(いざな)い・・扶(たす)ける・・これしかありません。

この奉魯愚を閲覧の方々にお願いします。

禅(坐禅・瞑想)に関心のある方あて、どうぞ、この「はてなブログ」羅漢と真珠/禅者の一語/禅のパスポート・・釈尊、達磨由来の「役立たず、無功徳・ごりやくなしの坐禪」・・折にご覧いただくよう・・ご推奨ください。

有(会)難とうございました。