禅とは?シリーズ ◆元服の書NO㉟

やさしい坐禅の仕方⑵   

中学・高校生とその親御さん~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

まず呼吸・数息が「坐禅」の始め・・

  次に「禅・公案」の拈弄です

呼吸を「ヒトーツ」「フターツ」と数えて、坐禅するのを数息観(すうそくかん)と云います。

意思して自分の思うようにできないのは心臓の鼓動と呼吸です。

しかし、呼吸は1分間ほど止めることができます。

このどうにもならない呼吸と心の乱れを整えるのが、坐禅の数息(観)といわれる坐法です。

坐禅の時は、想いや知識を全部、忘れてしまうことが大事ですが、生まれた時から、学校・社会で教えられてきた言葉(文字)、知識・感情の経験則が、そう簡単に消え失せてくれるものではありません。

とりわけ自己保存本能と社会の組織に依存、由来した、食欲・性欲、利益、権力、闘争などが、感情、気分を苛立たせます。

宗教で言う「愛」とか「大慈」とかの感性を、いとも簡単に抹消してしまい、自己中心の思いと行為にかえてしまうのです。

崇高な慈愛の心が、そのまま、憎悪や怒り、苦しみ、恐怖の心に変化する・・他人の為に命まで捧げる献身的行動が・・少し、環境が変わってしまえば自己優先の修羅場となってしまう・・そんな出来事は枚挙にいとまがないほど生活の中に湧き出てきます。

生きる限り、ゴミはでます。

こうした雲の如く湧き出てくる思い、悩み・・煩悶を毒消ししてくれる唯一の手立てが・・「数息(観)坐禅」です。

生きる根源にある「呼吸」を数えることに専念する・・これ以上、単純で、専心にできる行為は他にアリマセン。つまりゴリヤクなし・・純粋な「役立たずで無功徳」な独りの行為です。

ただし、数息坐禅が出来るようになったから・・と云って、また、その次の、自分の気になる公案を拈弄して、常に、生活・行動の片隅に疑団として残すようになった・・としても、また、イス坐禅をしていることを忘れてイス坐禅していた・・としても、それがサトリでもなく・・悟れる訳もなく、人生を達観できるものでもないのです。

拈弄(ねんろう・壁にボールをあてて遊ぶように、矛盾した問い(疑問)を繰り返し深堀りしていくこと)

禅は既成概念や、哲学や論理で判別、理解できることじゃありません。寺僧の教導や、学問、数多(あまた)の禅、瞑想、宗教に関する経典や本など、既成の概念に頼らず(・・これが大事)拘らずに払拭して、自己の内から湧いてくる好奇心を唯一の指針にしてください。

ココニ悩みの塊があつて、悟れば、苦しみは粉々に砕け、神々しい愛の女神が、優しく自分を包み込んでくれる・・そんなマンガの世界じゃない。かといって修行や禅寺や学問(心理学・精神論)に通わねば、解決がつかないと思い込むものでもない。  

悟り(自覚)は、専心、どんなに長く坐禅しても・・期待して待ち焦がれても・・これだけは保証してもよい・・絶対、やってこないのです。悟れません

*百丈懐海(720~814)は、師の馬祖道一(709~788)に問答して鼻を捻じりあげられて、あまりの痛さの中で見性しました(碧巌録 第53則 百丈野鴨子) その馬祖道一が若い頃、修行坐禅している時、師の南嶽懐譲に何をしていると尋ねられて「坐禅によって、佛(覚者)に成ろうと努力している」・・答えました。すると師は、小石を取り上げて、傍らの敷石をこすりはじめました。「師よ、何をなさるのですか」と問うと「貴方が坐禅で覚者に成れるのなら、私は、敷石を磨いて鏡にすることができよう」と答えて、思惑(先入観)の愚かさを教えたのです(禅話・磨塼作鏡 マセンサキョウ)

*日頃の、何の「功徳・ゴリヤクもない坐禅」を続ける内に・・突然・・ある人は坐禅から立とうとして、明星の輝きを目にして大悟しました。

これは菩提樹下、釈尊です。その後、仏陀(覚者)の教え=仏教を教導された・・けれども・・仏陀のもと、数いる求道者の中で、ただ独り、摩訶迦葉(マカカショウ)尊者のみ微笑(自覚)されたのです。この「禅」を付嘱(フショク・預け託)されたと(無門関第6則 世尊拈華)あります。

「禅」が仏教でないことを証明する・・最初の逸話です。

この「禅・坐禅」が中国にわたり、日本にやって来たのです。「禅」は、いわば仏(陀の)教えのモト=本/玄/元/素・・にすぎず、文字や言葉で表現できないので【ただコレ・コノ事】を、それぞれの人が【自覚・見性】すれば安心(アンジン)できる・・のです。

不安は正体がわからないから、心が落ち着かない状態です。

禅(坐禅)を荘厳な寺僧の儀式で飾り立て、集団の坐禅修行で印可・認証する宗教的概念は、世界に通用しなくなりました。。

人は誰にも頼らず、独り、生まれて・泣いて・呼吸出来て・・(モチロン父母や周囲の援助はありますが、呼吸をしたのは自分です)今も独り生きて、やがて洩れなく独り死んでいきます。

しかも、この世界(仏教でいう娑婆)は、産れた子供に限らず、己(オノレ)以外の人やモノの慈(めぐみ)で生かされているのですが、率直に認めようとしないのが自意識(自己保存・拡大の欲望・行動)です。我利我利(ガリガリ)亡者とはよく言ったもので、米や麦一粒、自分で作れない者が、誰かと誰かの創ったスマホやPCに依存して利権を追い求める姿は、ズバリ、勝手すぎませんか・・と言いたい出来事でしょう。

*最近、子供を虐待して死に至らしめる親のワガママが報道されています。教師を数人の教師がイジメる信じられない事件が発生しています。犬猫にも悖(もと)る行為には、議員・省庁官僚への対応を迫るまでもなく、民愚におもねず、ただちに行政が介入して、子供の養育に全責任を持って大人になるまで育て上げる仕組みをつくってください。

既成の組織に甘んじる無関心の態度が一番いけないことです。                 

 オオカミやハチやアリンコだって社会(組織)の力で立派に子育て教育をしています。

親は無くても子は育つ・・この格言は至言です。

自分一人の努力で、生存できた者は人類史上、ヒトリもおりません。政治といい、風潮といい・・チョット、理づめの詰将棋のように成らずに、偶然にせよ、必然にせよ、生かされてきた実感(既成概念)の数々を坐禅で毒消ししてほしいと思います。

呼吸を数息する坐禅は「生かされてある自分」の最終・最後の自覚手段です。私が、釈尊や達磨の禅(坐禅)をしよう・・というのは。宇宙・世界で唯ヒトツ・・自他共に・・何の価値、評価のない「無功徳」・・役立たずの坐禅・・から、独り(独尊)を自覚してほしい・・願いがあります。

既存の教団・組織や教育・哲学や、本や知識、スマホ・PCに頼らず、初めから終わりまで生かされている自分・・盤珪は「不生」禅と云っています・・親鸞は弟子ひとり持ずと云っています。

*これを禿げ頭(愚禿グトク)親鸞(しんらん 浄土真宗の開祖)は・・「善人ナオモテ往生ヲトグ」と、人の行いの中に、阿弥陀仏の救済について語ったのでないか・・と思う。誰もが寿命があり・・この人は善人・こちらは悪人と、簡単に分別できない娑婆(しゃば・社会)の因果応報を身に着けている以上「南無阿弥陀仏」を生涯に1度、唱えれば救われるという念仏(発想・信念)は、私にとって一休さんの「シンパイスルナ!ナルヨウニナル」の自覚を、保証してもらったことと同じなのです。親鸞上人の「禅者の一語」は「南無阿弥陀仏」なのだと思います。

有(会)難とうございました。