雑感30 ◆時覚ということ・・

5475日/131400時間

時間をシッカリと見つめ、人が織りなす因果・葛藤を寂寥の内に風流、瘋癲(ふうてん)に見立てられる方は・・「禅者」です。

 

お尋ねします。

「おいくつですか?」

「どこから来られましたか?」

この二つの問いの答え方次第で「禅(坐禅)による生活」の、天地同根、一得一失が判明するのです。

チョット言い方(問いかけ)を変えてみましょう。

アナタは・・「いくつ(何歳)まで生きられるのですか?」

アナタは「(独り・死ぬと)どこへ行かれるのですか?」

今ではなく未来への願望を尋ねる話になると、いろいろな仮説を想定し忖度(そんたく)や造作(ぞうさ)を図って、実に頼り気のない心持になるものです。

もしも・・もしもだが・・神様から「あと5475日間です」とか「131400時間です」とか、ハッキリ生命時間を断言されたら、アナタはどのように返事をされ、生きるのでしょうか?

時間と自覚=寿命と命(イノチ)について・・深く坐禅をしなければ透徹した悟り(時覚・発明発見)はないのです。

戦前から欧米で禅を紹介、広められた故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)に学んだり、本を読まれたりした多くの人達がおられます。 

しかし、戦後74年を経過した現在。残念ながら、大悟・見性して「禅ニヨル生活」を為している禅者は出現しておりません。

例え、外国に、真の禅者がいたとしても、世間の評判から隠れて、宮沢賢治の詩、雨にも負けずの「デクノボウ」と呼ばれていることでしょう。

欧米のZENに関心を持つ人達は、日常の思考・感覚の相違からナカナカ独り坐禅に溶け込みません。彼らは、日本人の・・例えば「香ヲ聴ク」体現的な感覚を、社会的な歴史の中に持ってはいないのです。表意文字でもありません。

そうした禅への理解や、体験的な素質については別の折りに書いてみます。日本人も、段々とスマホ・PCの電磁的社会の利便性に依存して、真の坐禅の意義を失ってきています。

誰か、奚仲造車(ケイチュウゾウシャ)無門関 第8則か、

胡子無髭(コシムシュ)同4則あたりで、拈弄にくたびれて、うろついている欧米の禅者に出くわしたいものです。

日本人は、口先ばかりの寺僧や学者が多く、孤独に徹して、寂寥(無功徳・瘋癲フーテン)の坐禅を為す方がいなくなりました。