元服の書㉙ 因果の世界に落ちて五百年!抜け出す手段(手立て)は?  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の 求道の問いに答えて書いています

Q:令和元年・・どのような目標の年でありたいですか? 

A:孫娘に、将来、何になりたいか聞いたオバアチャン・・私は看護婦にナリタイ。お婆ちゃんは?・・と切り返えされて思わず「ホトケサンに成るの・・」と答えたソウナ。

一休さんではないが、正月と同じで、イッタイ何が目出度いのか・・ホドホド・マアマアの・・よくわからない祭日を過ごしています。

禅語録「無門関」に、野狐禅に例えられる「百丈野狐」第二則公案がある。昔々この(大雄)山に住した・・私(お坊様)に行脚の僧が問い尋ねた・・「禅の修行を積んだ者は、因果応報(原因と結果)の世界から脱出できるでしょうか」私は「不落因果(因果に落ちず)」と答えたのですが その瞬間、狐の姿にされて五百年経過しました。

どうぞ助けてください」と、百丈に救済を求めた。

野狐から救った禅者、百丈の一語は「不昧(ふまい)因果」クラマサナイの意。

百丈懐海・・百丈720~814・唐 玄宗皇帝35歳の頃 楊貴妃の前年 誕生。国の上下で、爛熟、頽廃した時代。禅林清規の創定者。日本では聖武天皇桓武嵯峨天皇の頃の禅者。

この禅問答は、奉魯愚・碧巌の歩記「碧巌録 意訳」に詳述します

要は、後先考えず、今、ここにある生活、仕事を大事にしなさい・・と云うことです。悟りを求めて坐禅をしたり、東大合格を目指して塾通いしたり・・して得た成果は、かえって迷いを深めたり、後悔の繰り返しとなりましょう。どうやら根本的に「目的と手段」の後先を誤まっています。「手段と目的」が正解です。説教めいて言えば「手段・方法」の行為にベストを尽くせば、結果はどうあっても「マアマア」と納得できましよう。

例えば・・たかが3分の独りポッチ坐禅が出来ずに、安心を得たいとするのは傲慢でしょう。日頃の努力を重ねずに、大金を得たいとするには、タカラクジに当たるか、人をだましたり強盗したりしか方法がないのです。

因果応報に落ちない方法(対策)はアリマセン。

因果関係をだませないのなら、毎日の暮らし・・その1時間1分ずつを、誠実に、努力して・・その成果に甘んじる自分であることです。

結果とは「諦め」ではなく【明らめ】です。

落ち込む事はアリマセン!

今日、武田邦彦先生のブログを拝聴しました。https://takedanet.com/

「人生の目標・先と後」に感銘して、この野狐禅を引きずり出しました。

私は、日頃「お気に入り」に入れて、先生の語りを楽しみにしております。

是非ともに推奨いたします。

 

 

禅(ZEN)羅漢と真珠 ◆坐禅の心要⑴ 放下着

坐禅をしないと悟れませんか?

中学・高校生とその親御さん達~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

禅(ZEN)は、例えると・・

大地(坐禅)に咲く木槿ムクゲ)の花です。

その一樹のタネは「自分とは何か」・・

自己をかえりみる心の問いと、その独り一人の自覚です。

坐禅 無くして「悟り」は ありません!

結論を先に書きます。昔・・坐禅せずとも悟る人が多くありました。(紀元千年の前後、まだ禅者が独り、山奥に庵を構えて生活し、求道者が行脚していた頃)・・以降 宗教的集団(寺僧の組織・運営)の現代まで、いくら坐禅、修行をしても「悟れない」人が大多数となりました。

(例えば、一休・良寛など、晩年は「独りポッチ禅者」です)

長い偽禅 横行の時代が続いて・・平成になった頃から以降、どこぞの禅寺の老師さんから「印可」(悟りの証明)をもらったとか、禅の公案が透ったとか、野狐禅(やこぜん)バカリが目立ちます。

スマホやPCの発達からAI時代を迎え、本=活字文化が衰退するのと同調(シンクロ)して、口頭禅/観光禅・・いわゆる形骸化した禅(ZEN)しか残らず、世界に漫然と拡散しています。

アメリカなどで「ナイト スタンド ブッデスト」という、仏教に関与しない庶民の瞑想・坐禅が注目されています。

神・仏に欣求祈願しない普通の人が(国籍、主義、社会的地位、信仰を問わず)仕事から帰って 自由に 独り 静かに、坐禅(瞑想)する事をいいます。

かねてから禅は宗教ではない「独りポッチ禅」こそ「純禅」と提唱して、この奉魯愚(ブログ)を通じ紹介してきました。

(この はてなブログで【禅者の一語=碧巌録意訳】【禅のパスポート=無門関提唱(素玄居士)復刻解説】【禅・羅漢と真珠=禅の心 禅の話】で、合計17662回のアクセス(閲覧)があったそうです。誰共、仲間にならない・・独りポッチのイス坐禅ですが、来たる者は拒まず、去る者は追わず・・少しづつ、純禅(坐禅)への関心が高まっているのでしょう。こんな役立たずな奉魯愚(ブログ)であればこそ、何回も見ていただけるのは、大変ありがたいことです)

世間では、禅や坐禅・悟りについて・・ストレス解消に役立つとか、呼吸法は健康増進に良いとか・・心理学的療法に良いとか・・効用効果を求めたり、成果・検証を訴求して飯のタネにするものばかりですが・・。

無償、非組織、教導無用、この奉魯愚も読み捨て忘却して、独りポッチいす禅を無理せず実行してください。貴方のこだわりとか思い上がりや仲間意識など坐禅に不要なことは、早く捨て去ることです。。

純禅(の坐禅)は、どうすればできるのですか?

何の役にも立たない(無価値)な・・一切の造作(比較・執着)を追わない「独りポッチの坐禅」をすることです。

ある禅者は悟りの一語で「無功徳(むくどく)」/「莫妄想(まくもうそう)/「放下着(ほうげちゃく)」と言いました。

これら見性(悟り)のヒトコトは、この羅漢と真珠「至言の禅語」で紹介していきます。

今回、坐禅の心要は放下着(捨て去れ)です

これは、趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん778~897)の求道者、厳陽との問答による一語です。

長年の坐禅・修行で、無一物の境地に至ったと自負する厳陽に、趙州は、イキナリ・キッパリと禅機・禅境(地)丸出しの「放下せよ(捨て去れ)」と言い放ちました・・悟りの境地である「無一物」の境地すら、自我意識、未練の残りカスがある・・それを捨て去って、少しも跡を残さないところにしか「純禅」の花は咲かないぞ・・と一語を浴びせたのです。                          

  • 坐禅は、自己究明の手段(方法)ですが、結果(悟り・自己救済)を求めても決して得られません。禅は、もともと無功徳・無効用・無一物ですから、まず、役立たずのゴリヤクなし・・と覚悟してなさることが肝要でしょう。
  • 坐禅は・・誰からの教導も受けず、お一人で、数息して、なさってください。約10秒程度の呼吸を「ヒトーツ、フターツ・・」と18回数えます。それで計3分程度の坐禅です。

坐り方は、イスに座り 姿勢よく 眼は半眼に、手は肩に力の入らないように(合わせるなり膝におくなりリラックスして・・時に ベッドで寝禅(夜/朝)トイレで坐禅。通勤、通学の電車の中のつり革禅。休憩時間のひと息禅・・ご自由に。たったこれだけですが 独りポッチで ナカナカ続けられません。

以前、独りポッチ禅のご案内をしたら、やたらに形式にコダワル人がいました。足は結跏趺坐でなければ・・せめて線香3本位は・・など、ソンナ作法の多い、痛くて苦しい坐禅はお薦めしません。偉いお坊さんや学者、先生の講演話を聴いたり、お仲間と写経や、精進料理を食べ歩く観光禅は要りません。お金も先生も仲間も時間も、一切 何の手間のかからない、役立たずの坐禅をする・・それが「禅」です。

ゼーンブ・・放下し尽くして、心が木槿(ムクゲ/無垢偈)の花のように、青空に香り豊かに・・風に乗って流れていく・・それが風流でしょう。

ムクゲ(花)を、無垢(むく・清らかの意)偈(げ・悟りの詩)にダブらせました・・見性は言葉・文字にできない直観的な自覚・発見発明です。せいぜい俳句とか詩とか、銘とかでしか表情(表現ではなく)できません。奉魯愚(ブログ)で、意訳中の禅語録・・無門関とか碧巌録の逸話、問答が、ウムと納得できたら、後は、アナタの「禅による生活」があるだけです。

禅(ZEN)について 素直で単的な見解・疑問・質問があれば・・日本語のメールでどうぞ。

日本語で率直にお答えします。宛先 加納泰次  taijin@jcom.zaq.ne.jp

 有(会)難うございました。4月17日(WED)追記補筆。 

「ナイト スタンド ブディスト」について・・

お尋ねの件・・2019年4月2日(火)改訂しました。

アメリカ(西欧)での・・仏教・寺僧の教導に頼らない(宗教・主義に関与しない)一般の人が、夜、電気スタンドをつけて仏教関係の書を読んだり、坐禅・瞑想をしたりすることを云います。

ただ、自分(独り)の生き方を省(かえ)りみて、静慮・瞑想・坐禅をするのは、大変 良いことだと思います。

仏教には、もともと、狭義で言えば「仏陀(覚)者の教え」と、広義には「仏(ゴーダマ シッダルダの)教(団)」の二面性があります。ですから、求道修行中の仏陀(私は釈尊と云っています)が、菩提樹下、暁の明星を看て大覚されたZEN・・阿羅漢(アラカン・自己を究明した覚者)の「坐禅」を真似て 仕事の会社帰りの欧米人が 独り、夜坐されたり、寝坐、起床坐されたりして、何の規制(律・戒・宗教組織)教導を受けることなく、自由になされることを・・(かねてより「独り(三分間)ポッチ・イス坐禅」で)推奨しております。

   *自由とは・・自(おの)ずから由(よし)とする意です。

   *人/単(独り)と書いて禅。坐禅の坐は、自然、大地の上に、

    バラバラにスワル姿です。家の中の座とは書きません。

「禅」は・・広義でいう「宗教」ではアリマセン。

哲学・文学や論理的概念でもありません。

菩提達磨(ぼだいだるま)が中国に渡海して、梁の武帝と面談(520年)禅について問答した逸話は、禅語録「碧巌録」に詳しいのですが、当時、中国で広まっていた仏教との比較話で達磨は「欣求=祈りの対象たるべきことも無く、効用効果=功徳もなく、青空の如き心境(地)」・・が禅であると述べています。「ソレじゃ、いったい、アナタ(達磨さん)は何のために支那まで来たのだ?アンタはわざわざ「無い」ということを伝えに来たというが、イッタイ何者なんだ?」・・との問いに「識らず」と断言して、嵩山少林寺に面壁九年、坐禅されました。ZENは すでに釈尊の布教行脚の時から、独り、弟子の迦葉(かしょう)に付嘱す(ふしょく依頼・タノムの意)とされている仏教外・別伝の出来事です(事例 無門関 第6則 世尊拈花)また、日本に伝播した禅については、達磨以来~現代インド仏教の面影は まったく どこを探してもありません。

こうした禅語録の、問答逸話のどこが、達磨を始祖とする「禅」を「宗教」として伝えた・・と言えましょうか。

悟り(見性)は。ひょっとしたハズミで起こる禅(機)の自覚体験です!この自分にしかワカラナイ・・文字にも言葉にもできない禅経験を、日頃の生活の中で、実現醸成して(禅)境地を深めていくことです。

 

論理(哲学)的に云えば、絶対矛盾的自己同一(西田幾多郎)・・何のことやらの心のありようです。これは、坐禅したから悟れるような、また論理的でも修行努力の結果でもありません。

禅が、中国・日本で宗教(的組織)化したのは、寺僧の集団事情・国土と政治変遷、現実重視の風土などが因縁であり、さらに日本に伝播して、天皇・武士社会に定着した由来もあります。

禅の伝播は やむを得ない事情と、生業(生活手段)の、寺僧による長い時期の揺籃を経て 今日があるのです。

しかし、日本の戦後にいたり、親離れか子離れか・・宗教集団、組織のクビキからナカナカ脱却できず、寺僧の跡継ぎ養成の為の温室栽培の如き修行道場や、僧堂の師家たちのアンチョコ教導、学問化、知識化した 接ぎ木のような伝灯に至って、遂に立ち枯れ状況になってしまいました。

これは 外国人歓迎の観光・拝観禅に成り下がった、まるでパンダ絶滅種の有様と言えましょう。

(ですから 外国の方に禅を語る時は、日本で学修できることではなく、独りひとりの坐禅体験を通じて、独り一人が「禅による生活」を自覚する出来事だ・・と、お伝えください)

かって・・純禅のタネは、アメリカなど太平洋を越えて大樹となるよう、先達の鈴木大拙(仏教学者・禅者)先生等が、無依の種蒔きをされました。

せめて、まず、坐禅したいとか、禅を知りたいとか・・の外国人は 鈴木大拙著「Living by Zen」(禅ニヨル生活)の1冊を、読みこなしていただきたいのです。

そのうえで、誰にも語らず、他に学ばず、ただ独り、禅語(趙州無字 隻手音声など)関心をもたれた公案を念頭に、坐禅してください。

外国人がナカナカ「悟り・見性」できない理由を、鈴木大拙先生は以下のように語られておられました。

「私には手がある。5本の指がある」・・という、

英語では【手を持つ・・5本の指を持つ】・・という。

自分の手であり、自分の指であるのに、他人事のHAVEを使うと・・

私流の解釈で言えば・・英語は、在る、無い・・是と非を明確に分別するので、学問・科学の研究に有利な言葉です。しかし、東洋・日本語の「如去・如来」とか「看 脚下」など、漢字のもつ・・冷暖自知、天地同根の意は、香を聴くという日本人と同様に理解するのは難しい。彼らは英語で「考え・分析」しているから「無」の文字ひとつ・・無 嘸 牟 巫 懋 亡 梦 矛 廡 无 母 敄・・など 計60文字(PC検索)の意味など 直ちに理解できないこと・・なのです。目的と手段を ハッキリ分別・論理思考する彼らは、2千年以上の昔から、論理的思考に染まっているのです。その言葉と文字のシガラミは、2千年の歴史であり、容易に脱却できるものではアリマセン。

しかし石上に花を咲かせ、大海の水をひと息に飲み干す・・真の禅者を、この世に・・たった一人でも 誕生させるのが禅の所以(ゆえん)です。

これを願って「役立たずの 独り(3分)ポッチ坐禅」を提唱しています。

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録 意訳

       「禅のパスポート」無門関 素玄居士提唱 意訳

どうぞ、ナイト スタンド ザゼン のおりに ご覧ください。

有(会)難とうございました。 

 

 

元服の書㉘・・良寛さんは、どんな人ですか?

森山隆平著「行乞の詩人 良寛」を紹介します・・

中学・高校生と60才~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

「石仏の森山」といわれた・・故・森山隆平 著『行乞の詩人良寛』(株)考古堂1992年出版・・

漢詩訳文も)にチナミ、良寛さんを紹介してみます。

  世間の人のありようは        我見世間人

  どいつもこいつも同(おんな)じだ  個々例若斯

  とりとめもなくお喋りし       凡言取次出

  言葉と行為はちぐはぐだ       願行全参差 

  言行つねにそむくとき        当言行相背

  責を負うのはどなたかな       禍咎帰於誰

  あとの祭りと悔やんでも       是時仍切歯

  ああ遅かりき由良之助        咄嗟八刻遅

 

  世に売れっ子もいるもんだ    世有多事人

  タレント振りも堂に入り     自用逞聡明

  思いの儘に世をわたる      凡事無大小

  屋敷はオクション        随意皆改成

  ハイカラで           鼎列山海美

  食事はグルメ竝(なら)べたて  宅極当時栄

  前はカメラの放列だ       前門車馬溢

  人気絶頂のスターでも      遠近称声名

  わずか十年もちはせぬ      不過十箇年

  家は荒れはて草ぼうぼう     牆荒荊棘生

       

良寛さんの生涯(1758~1831)は、無一物の七十四年でした。

出雲崎の名主 橘屋の跡継ぎでありながら二十二才で出家。倉敷(玉島・圓通寺)で修行十年。大忍国仙和尚から「良(ヨ)きかな 愚の如く 道転(みち うたた)寛(ヒロシ)。謄々(とうとう)任運、誰か看るを得ん」・・その悟り(印可)の偈の語頭・語尾の良と寛から大愚良寛を名乗って故郷に戻ったのは三十九才。帰郷しても生家に帰らず、乞食坊主と罵られながら「禅による生活」・・清貧の修行を貫かれました。子供の頃から、元来、空想好きで手毬、オハジキが大好き。衣服は無頓着。交際は苦手で寡黙。物忘れも多くボウとして昼行燈と云われたりしました。名家の跡継ぎであり、若い頃は、弟の由之ともども道楽者の評判があり、プレイボーイぶりもチラつきました。

しかし真っ正直で、人を疑わなかった方でした。

五十才以降・・五合庵に腰をすえて暮らされるまでを「破庵仮住」の時期とします。その暮らしぶりは、外護者が増え、村の子供たちにも慕われて、傍らに良寛さんがいるだけで、ミンナ安心(アンジン)した心もちになったと云います。

独り・清貧に徹した禅者、円満な境地に至った詩がたくさん残っています。

  立身出世もままならぬ      生涯懶立身

  乞食沙門はゆくまま気まま    謄々任天真

  貧乏暮らしも板につき      嚢中三升米

  金も要らなきゃ名も入らぬ    炉辺一束薪

  まして悟りは縁もなく      誰問迷悟跡

  雨のそぼ降る草の舎に      何知名利塵

  ごろりてまくら         夜雨草庵裡

  こっくりこ(ゆめうつつ)    雙脚等閒伸 

 

「鉄鉢に明日の米あり夕涼み」無欲一切足 有求万事窮

人間、欲心さえなければ、何事も満足に暮らすことができることを詩文でうたいます。

「世の中に寝るほどの楽はなかりけり」・・と、江戸狂歌にあります。米三升と一束の薪があれば、それで満足とする悟境に至れないのが人情というものですが、良寛さんは、まるで柔道の空気投げのように態を無所得・無心に委ねてしまいます。

そうした良寛さんの草庵の暮らしを支えたのは、村々の農民であり、庄屋の主人たちでした。

彼らは、良寛の帰依者であり、よき理解者でもありました。

その手紙類を覗いてみると、おもしろいほど くっきりと日常生活が浮き彫りにされてきます。

味噌が塩辛いので、とりかえて下さい。甘い好物のお菓子、銘柄指定でのみ、お送りください。この薬は効果効用がありませんので、お返しいたします。インキン・タムシの貝殻に入った薬(貝の絵つき)なんとか都合してお送りください・・などなど。

泥棒に入られて・・の一句「ぬす人に とり残されし 窓の月」サバサバした素寒貧(スカンピン)の禅境地をしのばせる, まったく禅史上、類を見ない「独りポッチ」の行乞禅者でした。

  ハイ 今日は 

      雑炊の味噌一かさ

      下されたく候

   ハイ さようなら     良寛

何卒(なにとぞ)白雪羔(落雁様の菓子)

 少々、御惠たまわり度候。余の菓子は無用。  

   十一月五日 良寛    山田杜皐老

薬十帖あまり服用 仕候(つかまつりそうら)へ共

 何のしるしも無之間(これなくあいだ)

 余りは御返申候  七月十日 良寛

此(この)味噌 風味には難なく候(そうら)へ共、

 あまりにも しほ(塩)はやく候間、何卒おかへ

    被下度候(くだされたく そうろう)早々以上 

                       十二月二十二日 良寛  定珍老

いんきん たむし再発致候間 万能功一貝(ばんのうこう ひとかい)お恵度被下候

  (貝の絵)  七月九日 良寛  守静老

蕭条老朽身   明日をも知らぬ 老いの軀は 

 借此草庵送歳華  草の庵を仮の宿 

            命しみじみ送るかな

 春来如有命    花咲く春のめぐり来て 

            生きの命のまだあれば     

 鳴鈴一過夫子家  鈴を鳴らして君が家 

            訪ねゆく日を指おりつ

 

災難に遭う時節には、災難に逢うがよく候。 

   死ぬ時節には死ぬがよく候。

   是はこれ災難をのがるる妙法にて候。

           山田杜皐(とこう)老あて 手紙(1828年12月 新潟県三条市地震 

   家屋全壊12000、死者1500人・・良寛71歳)

この災難の字を「天災、地震、戦争、難治の疫病、病気」など、良寛の生きていた当時の時代背景に合わせてみる必要があります。不意に、避けようもない不幸な出来事に遭遇して、死ぬのかナ・・と覚悟しないとならない時・・良寛は(自分は)・・何時も、ソンナ災難を逃れる方法は、これしかないと思っています・・と、身内を亡くされた知人に(慰めようもない)運命=業への覚悟を書かれました。

真っ正直な良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」・・と同義の想いであると解釈しています。

現代は・・周囲の思惑や詮索に取り囲まれて、窮屈に暮らす社会ですが、良寛さんは、貞心尼に看取られながら、やせ我慢や悟り臭さを抜けきって、死すべき時節にいたり往生されました。

病いは「吐き下だし」。辞世は「かたみとて何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみじば」の一首と、日頃、何かの話のおりに詠んだものか・・「良寛に辞世あるかと人問はば、南無阿弥陀仏といふと答へよ」の二つが伝わっています。

どうやら、他力易行道(あなたまかせ)の境地に自らを置いて寂に入ったと思われます。葬儀は盛大に行われ285人の会葬者が参列。葬列は三町余に及び、先頭が火葬場についても、棺はまだ木村家の門をでなかったと手紙類に書かれています。

墓は隆泉寺境内、木村家墓地の一隅にあります、

 

【附記】この元服の書㉘は、NHKなどの放送で紹介された・・石仏の森山隆平(1918~2008)・・実は、私の母の弟(つまり叔父)の本の丸写し(コピペ)です。

私事ですが、学生時代、鎌倉(円覚寺)に帰るのが面倒な時は、当時、住まいの西落合のお宅を訪ね、祖母のキクおばあちゃん・・幼い頃、松任の駅におんぶされて汽車ポッポを見せてくれた「ピーばあちゃん」の夕ご飯をいただいたりしたものだった。

その当時から、石佛の写真や詩句を紹介されていたが、同好会のように、石仏に関心のある方々を道案内したり、教導して現地で解説されたりして、実際の見聞を大事に・・(自分が見聞きしたことのみ写真に記録し)詩にされ本にされる人でした。

この「行乞の詩人 良寛」は1992年に母(現在103歳)から私に渡されたもので、同じ本を東京で直にいただいており、計2冊、手許にあります。これは、何度も良寛の足跡を踏まれての作品であり、そっくりコピペして紹介しても、どんな権威のある本も敵わないと思います。

また、本には それぞれの漢詩(と意訳された詩文)に付随して、洒脱な良寛像が描かれており、まるで、その漢詩の禅境(地)を絵解きしてみよ・・と云わんばかりの描き方、墨の濃淡なのです。時に良寛像が「無」「嘸」と読め、時には「如・行」と見え「一人」か「一夢」と思えることもありました。

他に石仏・羅漢の書、良寛や加賀の千代女など多数の著作があり、関心のある方はお読み下さるよう、お勧めしておきます。

以上、良寛の生活の一コマをご紹介しました。

有(会)難とうございました。(3/16「災難にあう時節」・・加筆追記)

 

元服の書㉗ スーパーボランティア 尾畠さんの歩き旅 270キロで中断!

尾畠さんの歩き旅は37日間270キロ、静岡県浜松市で「ココロクバリ」の中断。

どうやら故郷・大分に戻られました。

中学・高校生と60才~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

良寛さんの事を書こうと思った矢先、尾畠さんの歩き旅が中止とのTV・NEWSがありました。尾畠さんの1日の行進は、平均8KM弱・・大人の歩行は1時間当たり約4KMだから、テントや生活道具を乗せたリヤカーを引いているにしても、ひどく遅い印象でした。その理由は、尾畠さんを見かけた町々の人が声をかけ、会話や揮毫をせがみ、それに独り一人、誠実に対応していたためのようです。

歩き旅を中断して大分に戻ったのは、ゾロゾロ、列をつくって面談を希望するオバサンや子供たちを疎(うと)んじたせいではありません。一生懸命、応対に努める内に、ますます順番を待つ行列ができ、人だかりができ、路上にあふれた人が車道にまで出張って、車の渋滞騒動に及んでしまったからです。自分が歩き旅をしたために交通事故が誘発される・・その恐れを感じて中止を決意されたのです。                          人の「人間」たるを評価するのは、言葉や文字でもなければ、財産(金)や役職、地位ではありません。前号で「人の重きは行いにあり」と書きましたが、日頃の生活(ご飯を食べたり、仕事をしたりする)態度・行動にある・・このことをシッカリ肝に銘じて黙々と働く姿こそ・・尊いのです。

話を一寸(チョット)そらします・・このことを学校の先生や親に注意されることなく、自覚できるよう、自分に自分が言い聞かせて、少しでも努力していける者でありたい。

そんな若者であってください。

先生や親や社会に責任を押し付けたり、甘えて言い訳する・・そんな優柔不断なグズグズ人間にならないでほしいのです。

もしイジメや暴力に出会ったら、それに屈する前に、何時でも目前の警察や弁護士に駆け込み、マスコミは、いち早く察知して、その経過をも報道するよう、政府や行政に対策・対応を迫り続けてほしいと思います。

昔から、親はなくとも子は育つ・・という。少子化のおりでもあります。いっそ国家と行政が、そうした子供たちを大学卒業とか、高校を卒業して就職するまで、完全養育して・・その代わり、医者や自衛隊や、仕事に従事した時の数年間は・・日本国に貢献する条件で・・社会参画するまで面倒を見、親に変わる愛情を注いだらどううだろう・・と思います。前に書きましたが、社会が弱者への「ココロクバリ」を忘れ、親が子供への「シンパイ」をなくしてしまうと、国家・家庭は崩壊します。第一「ココロクバリ」の漢字さえ、まともに書けない社会人や親・学生が出現しています。それでいて「シンパイ」しています・・と口先だけのしおらしさで言うのです。

閑話休題(それはさておき)・・

尾畠さんは、自分の周りに集う人たちの交通事故を心配して、歩き旅を中止されました。

私は、尾畠さんを「アメニモマケズ」の主人公のような人・・と書きましたが、ミンナにデクノボウと呼ばれる・・ソンナ人は「心配り」の出来る人なのです。

どうぞ、そっと見守ってあげてください。

 

次回、ホントに次回こそ、良寛さんにたどりつきますが、この大愚(たいぐ・おおばかの)良寛さんは世界で、まれに見る「心配り」をなした方です。

【註】この「禅・羅漢と真珠」は、出来るだけ下書き原稿を作らず、若い方の質問をうけて、機のむくままに書いています(・・気ではありません。機とは心のハズミを云います)

その根底にあるのは、坐禅・・それも・・何の役にも立たないことを覚悟して・・3分間の独りポッチ禅をしてみてください・・のお願いです。

年をとるにしたがい とかく造作、ゴリヤクの想いに捕らわれて、ナカナカ純禅に至りません。若い内に、寝る前/起きる前・通学/帰宅時・トイレの中・・とにかく3分間(1回10秒程度の呼吸×18回数)誰にも知らせず、独りポッチで、背筋を伸ばして、眠らないため眼を半眼にして坐禅してください(そして・・出来売れば、このはてなブログ=千年前の禅者が編集した「禅者の一語・・碧巌録意訳」と「禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱」をのぞき見してください。

有(会)難うございました。 

 

元服の書㉖ 尾畠春夫さん(スーパーボランティア)は、本当に「雨ニモマケズ」の主人公のような人物ですか?

前号、元服の書㉕で、スーパー ボランティア 尾畠さんは「禅者」です・・と書いたが、どうも禅者らしいイメージがつかめないようで、質問がありました。

2019年2月21日 ABCTVのワイドスクランブル「尾畠さん(79)の歩き旅 第11弾」昨日の大井川・金谷峠・・静岡県島田市時点でのルポルタージュが紹介されていました。まだまだ先の九州まで遠いのに、はや引いているリヤカーの引手が破損して修理している話・・「物はイロイロ工夫して大事に使わないといけない」・・周囲には、その姿を見守るその町角の人々がいた。何か悩みを打ち明けている主婦の方に、人生のアドバイスの一コマ・・「地球の人口、何十億の内の私は、たった一人だけ(の遺伝子をもって)生きていると思えば、ホトンド悩みごとは消えますよ」要約すると、こんな話をされ陽に焼けた顔をほころばせ、元気に行脚されている。

このテクテクリヤカーを引いて行脚されるほこりまみれの姿に、私は宮沢賢治の「ほめられもせず、苦にもされず皆にデクノボウ」と呼ばれる主人公がダブって見えてくるのです。

人の行いの重きこと・と・人の言葉の軽きこと!

昔、幽霊と人間について・・の問答を父としたことがあります。

故郷、富山での「禅境画・書」の個展のおりでしたか・・ラジオ放送の取材で大学時同期の今村さんがディレクターで来られて、あとお茶を飲みながら、禅の話をしている時でした。

会場の窓から忙し気に行き来する人を眺めて父は「どうだ?(足はあっても)幽霊だな」という。

私は答えない。箱根山、駕籠で行く人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人・・単に世相を述べた想いだけでした)

たしか、こんな会話をしたと思う。道を歩く人が、まるで足のない幽霊に見える・・坐禅の後の印象話だった。今なら、差し詰め,胡子無髭(こしむしゅ)無門関第4則をひねくり回して、興を添えればよかったと思う。

故・加納白鷗(父)は、はじめ、高岡の臨済宗 国泰寺派本山 江南軒勝平大喜老師に参禅し大魯の居士号を、また、次いで仏教学者・禅の故・鈴木大拙に師事し、白鷗の居士号を得て、京都で作陶・禅境画・書の芸業をなす清貧の作家だった。私、泰次の名は、国泰寺のタイジに因み大喜老師に名付けられた。大学の頃、鎌倉円覚寺、続燈庵、故・須原耕雲(弓和尚)に寄宿。鞭撻を得たので、対山の松が岡東慶寺に、鈴木大拙翁を尋ねたことがある(大魯老居士惠本と書かれた昭和22年発行の「神秘主義と禅」初版本を大事に持っている・・校正が無茶苦茶でなっていない・・と父が附記していてオモシロイ)

また大喜老師の弟子、勝平宗徹さんが南禅寺の師家になられたご縁で、当時、管長の柴山全慶老師を訪ねて、雑誌「禅文化」に掲載する写真を撮影したことがあります。年端もいかぬ若造の私相手に丁寧なお手紙と一行書を書いていただきました。

当時(この頃)の・・達道の禅僧・禅者は、禅語「天地同根」・・そのままの禅による、漂々とした生活をしておられて、すがすがしい清風に吹かれているようでした。

閑話休題(ソレハサテオキ)・・

なにを言いたいかと云うと、禅者とは・・観念論や、宗教・哲学、イメージ(想像、言葉、文字)を飛び越えて、それらに束縛されることなく、無目的で無功徳、無価値で役たたずな、それでいて安心・誠実で、無口で、知らずに周囲を明るくする・・ソンナ「禅ニヨル」生活を常に行っている人のことをいうのです。

一休さん良寛さんなど、真の禅者(禅の臭みのない人)は・・おおらかで明るい笑顔のイメージだけを、それぞれ自分勝手にこしらえて、あてはめるような人たちではないのです。もう片方の現実には、普通の貧しい、明日食べる米もない、寝る布団もない、病気で薬もない・・無一物の暮らしでありながらも・・「平常心」=「日々好日」で居られる覚悟がある・・人なのです。(ですから・・次回の良寛さんは、世に知られた良寛さんではなく、出来るだけ人間臭く、暮らしぶりがわかるように・・例えば、コメやインキンたむしの薬をほしいと訴える手紙や、泥棒に取られるものとてない、寝ている破れ布団を差し出す良寛さんの「禅による生活」行いに重点を置いて紹介するつもりです)

私は、リヤカーを引いて、金谷峠を上る尾畠さんの後ろに、リュックを背負い、後押ししながらついてゆく若者の姿を見て、一寸(チョット)ほっこりしました。まだまだ日本には、求道者がいて、捨てたものではないナ!と思いました。

 

例え人生、独りポッチでも、手のあたたかな人の「看 脚下」・・大地を踏みしめての歩るきが大事です。

尾畠さんは仕事に追われ、スマホのトリコになって、自分の足で歩くことを忘れた幽霊もどきではありません。

かけがえのない尾畠さんだけの1日1時間を・・

大事に大切に・・過ごしておられるのです。

君は、チャント、温かい手や足(の禅)がありますか?

ソレトモ、私が手足を持つ(I Have)という英語表現に漬かりきった人ですか?

有(会)難うございました。 

*2月22/24日 修正加筆しました。

鈴木大拙 翁(1870~1966 世界的仏教学者・禅者)

●勝平大喜 老師(1887~1944 松江万寿寺・国泰寺管長)

●柴山全慶 老師(1894~1974 京都 南禅寺管長)

●加納大魯・白鷗居士(1914~2007 禅境書・画 作家)

●勝平宗徹 老師(1922~1983年 南禅寺師家・管長)

 

 

 

 

 

 

元服の書㉖「雨にも負けず」宮沢賢治の詩の主人公が現れた! 

A:スーパー・ボランティア 尾畠春夫さんについて・・独りポッチ禅では、この方を、どのように評価されますか・・教えてください。

     *中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

A:信念をもって行脚される禅者として尊敬しております。

まず、私の書いている現在の奉魯愚と禅の関係・・そして尾畠さんについて・・天秤棒のように話さないと、つり合いが取れませんので、この奉魯愚についてからお話します。

私は、はてなブログで【禅者の一語=碧巌録】意訳と【禅のパスポート=無門関・素玄提唱】復刻版を解説、紹介しています。

そして古今の禅(による生活)者・・の足跡や風景を、私の思うまま、感じるままに、自由に切り取って紹介しています。

禅語録(碧巌録、無門関)は、今から約千年ぐらい前、中国の唐・宋期に編纂(へんさん)された・・多くの禅(による生活)者たちの求道問答集です。

(真の答えは、独り一人の自覚、行いにあります)

日本では、禅宗寺院の継承者を養成する専門道場や、本山・寺院で僧堂師家(老師)の提唱(体験的解説)があり、禅についての教導が行われてきました。しかし、教育制度や社会の仕組みは激変しました。宗教についても、随分、考え方や欣求信仰の在り方など変わりました。例えば、千年も前の伝統的な禅の・・師を求めての行脚・行雲流水(雲水)の修行は時代遅れとして、若者は関心を持とうとしません。

現代は、分析・検証の科学的進化を尊重する社会です。

誰もが自分にとって・・面白い(楽しい)か・・役立つ(利得)か・・二つに一つを価値観とする仕事・生活の社会です。

しかし、「純禅」は「達磨 無功徳」・・何をなしても、ゴリヤクがない、いわば、釈尊以来の「無価値な坐禅と、その悟道の実践・・禅による生活」を基本としています。

ところが、戦後・欧米の文化や科学の発達により、21世紀初頭~もともとが宗教ではない禅(無価値=純禅)の求道者はいなくなり、絶滅に瀕する時代となりました。

観光拝観料で成り立つ有名寺院は、写経や精進料理、有名な禅者の書画を見たさに、諸外国から観光客が押し寄せています。

でも、どこを探しても、観光拝観禅や寺院の跡継ぎ養成所、温室栽培禅ばかりで、一休さん良寛さんのような純禅に生きた禅(による生活)者が見当たらなくなりました。

いや・・ひとりいましたよ。宮沢賢治です。彼は詩人・作家と云うより、禅(による生活)者であると、私は思い込んでいます。             

彼の「アメニモマケズ」の「みんなに木偶の棒と呼ばれ」・・る暮らし・その行いが、禅の独り寂寥の大地に立つ「役立たず」とピッタリ合致するのです。

私は、お金や名誉、地位(組織。団体)に執着せず、他人の為だけに奉仕する・・五欲(色欲・食欲・睡欲・名欲・利欲)のない・・「雨にも負けず」のような・・生活実践者・・こんな無功徳(無価値)に生きて、廓然無聖(純心)な人を「禅者」と呼んでいます。

悟りや禅を自分の都合のいいように解釈したり、勝手なイメージを膨らませて、日常、現実の暮らしとの格差に、幻滅することは よくありません。

次回に紹介する良寛さんでも「焚くほどに、風が持てくる落ち葉かな」と、一見、鷹揚にかまえているように見えても、イロリのお鍋には米が乏しく、水虫の塗り薬を頂きたい・・と布施を乞う手紙が残っています。

コンナ手紙を今時は額装にして、何十万円で売り買いするオークションを見たら、良寛さんは、現代人を何と思うでしょうか。

おそらく、享楽に溺れる自己中の社会にあきれ果てることでしょう。

ただインドで死を迎える庶民を看病して弔った故・マリア・テレサさん位に、宗教をこえた「禅」の心を知ったでしょう。

さて、アナタが問われた、スーパー・ボランティア、尾畠さんは・・現代に生きる数少ない「禅者」であると思っています。

赤い鉢巻を頭に巻いた尾畠春夫さん(79才)・・報道によれば、東京から大分の自宅まで1320キロの行脚(徒歩・野宿)の途上とか。2019年1月30日現在、まだ神奈川県内、国道沿い。一日わずか1時間程度の行軍が精いっぱいだ・・とのこと。大幅な予定の遅れは、子供連れのお母さんたちのスマホ自撮りや、色紙書きに並んで待つ人々に丁寧に応対するため・・だそうです。

どんな言葉を色紙に書いておられるのか・・お風呂はどうしておられるのか・・洗濯や食事は?・・トイレはどうされているのか・・持病はないのか?・・

昔、山頭火が乞食行脚した・・「しぐるるや道は一すじ」・・「まったく裸木となりて・・立つ」を「歩く」と置き換えれば、尾畠さんの境地であろうと思うのです・・こうした行脚・流浪の人を「散聖・捨て聖・野風・遊行の道者」などと呼びますが、そのおひとりであろうと思えてなりません。

一休さん良寛さんや山頭火、あるいは宇治 黄檗山万福寺(隠元隆琦・禅浄双修の念仏禅)の鉄眼道光(1630~1682 畿内の飢餓難民を救済して救世の大士とよばれた方)また、乞食の聖者と云われた雲溪桃水(1612~1683 曹洞宗)・・無宗教的な立場をとった江戸初期の鈴木正三(1579~1655)など(不思議に三人とも同時期の、いずれも世俗を離れた禅者達ですが)それぞれに出家、僧形の禅者であり、道者であるように、近隣住民の信を篤(あつ)くして尊敬されていました。

けれど、今は、デジタル社会です。都会人・エリートの暮らしぶりは立派ですが、それも建前だけ。幼稚園を建てるにしても子供の泣き声がうるさいから・・と反対の住民が騒ぐ、当たらず触らず、我 関せずのスマホ病の無関心社会です。                 

その無情なビル、マンションが立ち並ぶ、舗装された国道を手押し車を引いて尾畠さんは・・ヒタスラ歩かれています。講演しても謝礼は受け取らず、携帯をもたず。通りすがりの道端の人の、わずかお握り程度の喜捨があるだけ・・の中を・・です。たったお握り一つの施しでも、幼くして亡くなった母や山河大地の慈愛を感じて涙ぐむ尾畠さんを「御モテナシ」できる地域の正直な人々が、この長い行脚路に、はたしてどれだけ おられることでしょうか?

現代日本では、僅かに、四国のお遍路さんに路傍・ご接待の面影が残るのみとなりました。都市に限らず、大方の田舎でも、薄汚い孤独な老人は見て見ぬふりをする建前社会です)

万一に病いや困窮に倒れることあれば、どうぞ、今までチヤホヤと取材、放映してきたマスコミや、ボランティアしてもらった市町村など、挙って介助してあげて欲しいと願っています。

私は、私達の・・誰でもが知っている宮沢賢治雨ニモマケズ」の詩集から・・「そういう者に私はなりたい」・・の主人公が奇(貴)しくも現れた・・のだと思っています。

     雨ニモマケズ  宮沢賢治

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニソウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ヒデリノトキハナミダヲナガシ 

   サムサノナツハオロオロアルキ

   ミンナニデクノボートヨバレ 

   ホメラレモセズ クニモサレズ

   サウイフモノニ ワタシハナリタイ

                 *宮沢賢治全集 第十三巻 筑摩書房 1997年発行

 

有(会)難とうございました。

次回は良寛さんを紹介しましょう。