価値がある・・価値が無い・・ということ・・

元服の書 NO㊱ 

価値とは何のことですか? 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

価値がある・価値がない・・について、役立たずの坐禅とか、無功徳の禅とか言われますが、いったい価値とは何ですか?

禅では・・ここでは「禅ニヨル生活」・・禅者である私の独語として読んでください。

私は、言葉や文字で表現することに、出来るだけ囚(とら)われないようにしています。考えたり、思ったりすることは、人間の大脳が比較し分別することだからです。社会や科学の進歩は、比較、検証することで成り立っていますから、学校の教育にせよ、社会で働くにせよ、機能機作や効果効能を重視し、社会や自分に貢献する・・価値あるものを大事にします。こうした是非を判断する大脳(本能)の発達は、身を守る・・死から生命を守り、人間という種を増やすことの方法から進化を始め、感性(愛/大慈・芸術・宗教)と理性(知性・科学・哲学)ともに進化して、全宇宙で、ただ一つ・・人間種(約70億人)だけが、最も優れた能力=比較価値(計らいと造作)を知る生物となりました。

閑話休題(それはさておき)・・今、宇宙の彼方に、知的生命体を探査したり、微生物の存在をしらべたりしていますが、私は(科学的な究明は大事ですけれども)残念ながら 他の惑星に、未知の生物を発見することは無いと思っています。

約2500年前、釈尊釈迦牟尼世尊)の「天上天下 唯我独尊」・・宇宙で唯ヒトツの遺伝子を持つ、ひとり独りだから、比較分別すべき価値が無いゆえに「尊い」のだ・・と言われた教えを守ろうと覚悟しています。

どうやら人間種は、100億人ぐらいでピークを迎え、日本に限らず減少すると統計学で言っています。この説が正しい(物理的科学的思考・・光より早いものがない等)とすれば、火星や土星位ならまだしも、数千・数万光年かなたの惑星に、知的生命体による文明があったとしても、いったいどんな価値なり、危険があるものか・・わかりません。浦島太郎や竹取物語のSF版か、あるいは宗教の例え、地獄・極楽の話のように思えてくるだけでしょう。それよりも宇宙的観点からすれば、僅か100億(人)程度の数は、尊重すべき価値ある生命体と思えないのです。

ビフィズス菌ですら、100億といえば、スプーン1杯分、たった1回で口の中にペロリです。

むしろ、人間・大脳の比較価値観を離れて、この天の川銀河の、浜の真砂より多い辺境の星。この太陽系の3番目、水の惑星に・・比較すべきものがない独りの人間として、自覚する生命体がいる・・この寂寥感に満ちた生活をすること・・禅ニヨル生活・・が大事だなぁと思います。

昔、父から「金石麗生」と刻印された石印をもらい、年賀状に押しまくっていました。金銀珊瑚、玉といわれる宝石は、生じた時から、麗しく価値あるものである・・と評価される。この思い込みは大誤解でした。また禅は坐禅によって「悟り」を得る・・とか、坐禅は「悟り」の姿ソノモノ・・であるとか・・思考(試行)錯誤は止めましょう。嘘も方便はもういい加減、捨てないといけません。

 

私は過年、年賀状を廃しています。それでも頂く年賀状には、遅れて2月頃、普通ハガキに禅語録の気に入つた頌や詩文の一節を書いて、その片隅に・・今でも「金石麗生」の朱印を押すことにしています。

その真意は・・純金であろうと、路傍の石コロであろうと、すべて独尊に麗しく生じている(露堂々・麗赤々)との意からです。

2020年は、臨済義玄臨済宗開祖)の「無事是貴人」(ぶじ これきじん)とするか・・

洪 自誠の菜根譚からの一節「花看半開」(はなは はんかいをみる)とするか・・

いずれにしても、計らい、造作のない(無価値・無功徳)の禅者の一語を採用する予定です。

くどいようですが、私の提唱する「役立たずの独りポッチ・イス坐禅」は、価値・無価値を勘案せず、河原にころがる石のように坐禅することにあります。どこかの誰かが、漬物の重石(おもし)にと持ち帰られるのも勝手ですが・・。

*タクワン石となる・・これは、京都 南禅寺師家 故・勝平宗徹老師の言葉です。

有(会)難とうございました。

 

◆カクレンボ・・ご飯ですよ!・・の声かかり。

2019年12月9日 追記補足

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて、坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず、修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅たったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)などから、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して仲間づくりはなさらないこと。独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず、坐禅と書いてください。

        雑感31 ◆時覚の自覚(Ⅱ)

かくれんぼ・・ごはんですよ・・の声かかり・・

「時間」というのは、武田邦彦先生のブログによれば、エントロピーの増大で、その変化である・・といわれる。社会の歴史は、過去・現在・未来へと、1方向に流れる時間経過の、人の群れとしての変化であるから、群団を統率した人の名は不要であろう・・と云われる。

科学的時間論や物理的分析、あるいは「君の名は」のような、出会いのすれ違い文学論はさておき、自心の時間について書いてみます。昔から、禅者の時間意識は、お腹がすけば食べ、日が暮れれば眠り、晨陽(しんよう)を視れば、野良に出て働く・・ことであった。時間感覚はあってない・・至極 独り感覚的な実際生活に基づいている。

例えば、西洋で時計や羅針盤が発明され、科学的文化的生活が発展したが、真の禅者は(現代といえども)「時計やスマホ」を持ちたくない上に、TVも見たくない人達と云えましょう。

せいぜい時事に関しては、新聞、ラジオを聴く程度。これで現代社会に、うまく適応できているか・・どうかは自身の自(時)覚次第なのです。当たり前のことですが、禅者の社会生活は、チャント、ルールとマナーを守っているし、社会の為に働いていく・・その姿は、世間からは「木偶の棒(雨ニモマケズ)」と呼ばれたり、木鶏とか閑古椎(カンコツイ)とか言われたりする・・時代の人物評価の範疇に入らない者なのだ。

禅者は、まるで、常に極点に境地立脚しているようだ。

東西南北の地図が要らない生活をしているのである。

昔、一休宗純の「無」の一字の大書を見たことがあるが、あまりの迫力に近寄れなかった。いわば、禅境(地のアマリの)深さを感じたのです。「ナルヨウニナル。心配スルナ」との、禅者の一語(遺言)の深きもケ・セ・ラ・セ・ラの歌の文句ていどの受け止め方では、悟境万里であろう。

だから、時間は人間が勝手に設定したものだ・・と思います。

つまり、人が「気になる出来事を気(嫌擇・造作)する時だけ、時間が生まれる」ので、気にしなくなると時間は消失してしまう・・と思います。

時間とは・・強力な利権の欲望・好嫌に拘泥する者にとって、また、自責の念にかられて苦悩する者や、自己犠牲の者など・・あるいは楽しく、面白く思う時や、他人の為に、何か役立つことを為している時は、長短、増幅のいずれを感じるのであろうか・・。

夕暮れ時・・カクレンボ・・「ご飯ですよ」・・の声かかり・・遠くで母の呼ぶ声を耳にした鬼役や、隠れている子供たちの、それぞれの遊ぶ時間は、統一されてはいないだろう。

そこに子供たちと「カクレンボ」に興じていた 五合庵の禅者、良寛はどうしたのであろう。

彼は、真っ暗になった道の端の草陰で隠れ続けていたが、村人に怪しまれて「シーッ・・静かに!鬼に見つかるではないか」と、独りしゃがんで「隠れんぼ」をつづけていたという。

良寛は、この不思議な時間の網から、自由に解き放たれていたのだろうか?。  

どうやら現代社会は、組織(システム)化され、電磁化され、自動化され・・時間(出来事)を気にする人の関りが、エントロピーの2乗で増大していくかのような・・スマホ依存症の増幅社会だなぁと思います。また、逆に、独り一人、同じ時間(概念)がない、電磁波社会ともいうべき現代であればこそ「役立たずの独りイス坐禅」の環境が整ってきた・・と思います。

もし、欧米の方が「ZEN」や「坐禅」に関心を持たれて、日本に来られたなら・・

「ZEN」を紹介された鈴木大拙先生の著作「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう、お奨めください。

面倒だとばかりに、京都や鎌倉の拝観料をとる有名な寺僧を紹介するような、無責任なことをなさらないように願います。

多少、瞑想やヨガなど、実践された方でも、純禅は、知識や集団の修行では得難い事・・独りイス禅(そのまま居眠りできる位の気楽で勝手な坐禅)で、腕時計が外せるようになり、TVやスマホやゲームやマンガから執着しない生活が出来るようになれば・・無門関(禅のパスポート/素玄居士提唱 意訳)ぐらい・・貴方の語学力で話してあげてください。

48則ある語録の内の、ただ1則・・自分が【?!?!】と思い、興味・関心を持った・・タッタ1則のZEN MONDOU【?】によって、疑心暗鬼の時間の網の目が氷解してくれればいいのです。

ご自分一人でなさる折々のイス坐禅で、本や他人の教導を受けず、矛盾を突き詰めていってください。何年か・・そうした孤独の坐禅をなされる内に、禅境が深まっていかれたことに気づかれることになるでしょう。

時に、独りイス禅にウンザリして、途中放棄してもかまいません。無理やり、自分が自分に押し付ける、強制的な坐禅はしないことです。いつかまた・・何かのキッカケで、必ず何処かから、独りイス坐禅の「呼ぶ声」が聞こえてきます。

注意すべきは、決して仲間を作ったり、禅の解説本を読んだりして、助けを呼ばない事です。

外国の方は、分析や検証する科学的な能力に優れています。神ですら契約に基づく信仰の、長い歴史をもつ民族です。無価値で評価しようのない「空・無・般若」は「光あれ」と天地創造された神の以前・・の自分とは何か・・を知りたい根源の好奇心の「呼び声」です。

論理では理解できないものですが・・といっても、頭脳は分析し比較し論理的心理学的にナントカ納得しようとします。

欧米にZENを紹介された、鈴木大拙先生といえど、禅への入門の方法を問われれると、「コツン!」とテーブルをノックされて「ここから どうぞ」と言われたそうです。

入門は「無門関」です。どこからでもノックして入れます。

見性(悟り)は、公案タッタの一則透過すればOK・・、俱胝(ぐてい)和尚は「指1本」を生涯、あやつって使い切れず・・雲門さんは「クソカキベラ」とケナシ付け・・趙州さんは「ご飯を食べたら茶碗を洗いなさい」と叱りつけた・・ZEN。本を読むと、少しは解かった気になりますが、実は思考作用だけで、迷うだけ・・独りイス禅が、禅ニヨル生活の基本です。

中国の禅者、大慧宗杲(だいえ しゅうこう1091~1163)は、禅が文字、説話の学習に堕して、実参実修であるべきはずを憂いて、碧巌録を焼き捨てたと云います。

私は、こうした社会にあって、間違いなく「時間」を気にかけない・・それでいて「時間・出来事」の只中にありながら、それを「面白い(楽しい)か、役立つ」かして、不惜身命に社会や人々に貢献している方・・それを「役立たず」まで掘り下げた方・・「禅ニヨル生活」をなしている禅者とします。

あえて一人、禅者をイメージすれば大愚良寛でしょうか。

私は、禅の原点である達磨(面壁)禅から、真っ新(さら)にリセットしなおさないと純禅は絶滅すると考えています。

遠い将来に・・国別、年齢、能力を問わない・・無功徳な「禅による生活」者が誕生することを・・ソレこそ夢見ています。

カクレンボしている・・次世代の禅者に呼びかけたい・・

カクレンボご飯ですよ!』の声かかり。

有(会)難とうございました。

 

坐禅の数息観って何ですか?

元服の書 ㉟

坐禅の数息観って、なんのことですか・・

なぜ「役立たずの坐禅」を薦めるのですか・・

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

昔から、禅者の坐禅の時の呼吸法を云います。

普通、1呼吸(約10秒程度)の吐く息を「ヒトーツ・・フターツ・・」と数えて「ココノツ・・トウ!」と数え、またヒトーツに戻って繰り返すのですが、私は、「ムゥ-ツ」まで数えて、また最初に戻ることにしています。

これを3回=計18回すれば約3分間です。自然、6分とか10分とか・・寝る前など、もう目が半眼にならずに閉じてしまい、寝入ってしまうことも多くあります。

役立たずにしても、グッスリと眠ります。

中国では、千回・・1万回、呼吸を数えたそうですが、逆に、数えることにコダワッテしまい、夜坐して、朝まで呼吸を数えて過ごしてしまう・・肝心の坐禅をしていない人まで出現しています。

寺僧の教導による坐禅の仕方は、集団修行方式ですから、規律や形式が決められており、私はお奨めしません。例えば、調身・調息・調心の順に、まず体がスワル・・結跏趺坐(けっかふざ)半跏趺坐(はんかふざ)を教えますが、「足が死んだ」と悲鳴を上げる外国人もおり、こんな痛い思いまでして、リラックス出来る訳が無いのです。

せいぜい、つらい痛みに苦しんで、疲れ果てて止めてしまう人が多いのも納得です。イス禅は、ただ・・イスに姿勢よく坐り、眼を半眼にするだけでよいのです。手の組み方(印相)も、法界定印(ほっかいじょういん)とか、降魔坐ではドウとか、約束事や型(タイプ)がありすぎて、うんざり。イス坐禅は、自分の身体が楽になるよう、坐り方も、時間も、好きなだけを、自分で決めればよいとしておきます。

体操ではありませんので、深呼吸や、肩や胸で呼吸をしてはなりません。自然な、寝ている時の腹式呼吸ができれば最高です。

朝、起きる前、寝た時・・寝姿のままで、10秒程度の呼吸を18回やれば、数息観、独り3分間ポッチのイス坐禅ができます。

ところが・・喧騒の社会は、例え3分間といえど、なかなかヒタスラな坐禅などさせてはくれません。

やってごらんなさい。

周囲の雑音の酷いこと。テレビやスマホがガナリ立てている・・犬・猫、自動車の騒音がヒッキリナシ・・ウルササ(五月蠅)と、妄想(思い患う)に、たちまちトリコになり、何のために坐禅がしたくなったのか・・

目的が解らなくなってしまうのです。

何か坐禅をすることで、悟りが開けたり、心が落ち着き、集中力ができ、呼吸が調うことで長息(生)出来る・・そんな期待をしてはなりません。

禅は、この宇宙(神羅万象)が、自分にとって何の役にも立たず、価値も無価値もない「空=無」であることを実体験することにあります。そのキッカケが、自分の心のどこから湧いてきたのかワカリマセンが「坐禅・瞑想でもしてみようか」の思いであり、「禅」とは何だろうか?・・の疑問?であり、好奇心?です。これをタネとし、太陽の光と雨水のような坐禅で、大樹に育ってくれれば・・「心配するな・・ナルヨウニナル」一休宗純の禅境(地)に迫れる禅者となりましょう。

坐禅の仕方や、寺僧の教導、文字(言葉)、哲学、心理学、脳科学に頼るのではありません。

それでは、とうてい解決、安心できない・・宇宙でただ一つの?・・それが「ZEN」です。

浅はかに、教えを乞うたり、欣求(祈り)したり、解説本を読んだりすれば、悟り(真理)が理解できる・・などと誤解してはなりません。

妄想にとらわれず、すみやかに坐禅三昧になる・・とは、よく言ったもので、ソンナ簡単なものではありません。まったくの嘘っぱちです・・

犬に大覚(悟り)はあるか?の求道者の問いに、唇から光を放ったと伝えられる禅者、趙州従稔は「無」と答えています。

(無門関 第1則 趙州狗子)

彼は120歳まで長生きして、禅を広めた方ですが、その語録の内に、ほとんどの欲望、妄想は雲の如く消え失せたけれども、ナカナカ大変だったのは「食欲」だった・・と述べています。

本能が思考や感性(愛憎、宗教・芸術)の原点であるのは間違いないにしても、私の場合・・数息「イツーツ」・・たったの50秒ほど経過しただけで、はや、欲望や想いが湧き上がってくるのです。そう簡単に「無心」になんかナレマセン。

そこで「ム―ッ」と数える時・・「無—ッ」と、趙州無字に置き換えて、想いに囚われぬようにしています。いつの間にか・・坐禅公案の拈弄(コネクリ)になるようにしています。

有(会)難うございました。   

 

雑感30 ◆時覚ということ・・

5475日/131400時間

時間をシッカリと見つめ、人が織りなす因果・葛藤を寂寥の内に風流、瘋癲(ふうてん)に見立てられる方は・・「禅者」です。

 

お尋ねします。

「おいくつですか?」

「どこから来られましたか?」

この二つの問いの答え方次第で「禅(坐禅)による生活」の、天地同根、一得一失が判明するのです。

チョット言い方(問いかけ)を変えてみましょう。

アナタは・・「いくつ(何歳)まで生きられるのですか?」

アナタは「(独り・死ぬと)どこへ行かれるのですか?」

今ではなく未来への願望を尋ねる話になると、いろいろな仮説を想定し忖度(そんたく)や造作(ぞうさ)を図って、実に頼り気のない心持になるものです。

もしも・・もしもだが・・神様から「あと5475日間です」とか「131400時間です」とか、ハッキリ生命時間を断言されたら、アナタはどのように返事をされ、生きるのでしょうか?

時間と自覚=寿命と命(イノチ)について・・深く坐禅をしなければ透徹した悟り(時覚・発明発見)はないのです。

戦前から欧米で禅を紹介、広められた故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)に学んだり、本を読まれたりした多くの人達がおられます。 

しかし、戦後74年を経過した現在。残念ながら、大悟・見性して「禅ニヨル生活」を為している禅者は出現しておりません。

例え、外国に、真の禅者がいたとしても、世間の評判から隠れて、宮沢賢治の詩、雨にも負けずの「デクノボウ」と呼ばれていることでしょう。

欧米のZENに関心を持つ人達は、日常の思考・感覚の相違からナカナカ独り坐禅に溶け込みません。彼らは、日本人の・・例えば「香ヲ聴ク」体現的な感覚を、社会的な歴史の中に持ってはいないのです。表意文字でもありません。

そうした禅への理解や、体験的な素質については別の折りに書いてみます。日本人も、段々とスマホ・PCの電磁的社会の利便性に依存して、真の坐禅の意義を失ってきています。

誰か、奚仲造車(ケイチュウゾウシャ)無門関 第8則か、

胡子無髭(コシムシュ)同4則あたりで、拈弄にくたびれて、うろついている欧米の禅者に出くわしたいものです。

日本人は、口先ばかりの寺僧や学者が多く、孤独に徹して、寂寥(無功徳・瘋癲フーテン)の坐禅を為す方がいなくなりました。

 

禅とは?シリーズ ◆元服の書NO㉟

やさしい坐禅の仕方⑵   

中学・高校生とその親御さん~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

まず呼吸・数息が「坐禅」の始め・・

  次に「禅・公案」の拈弄です

呼吸を「ヒトーツ」「フターツ」と数えて、坐禅するのを数息観(すうそくかん)と云います。

意思して自分の思うようにできないのは心臓の鼓動と呼吸です。

しかし、呼吸は1分間ほど止めることができます。

このどうにもならない呼吸と心の乱れを整えるのが、坐禅の数息(観)といわれる坐法です。

坐禅の時は、想いや知識を全部、忘れてしまうことが大事ですが、生まれた時から、学校・社会で教えられてきた言葉(文字)、知識・感情の経験則が、そう簡単に消え失せてくれるものではありません。

とりわけ自己保存本能と社会の組織に依存、由来した、食欲・性欲、利益、権力、闘争などが、感情、気分を苛立たせます。

宗教で言う「愛」とか「大慈」とかの感性を、いとも簡単に抹消してしまい、自己中心の思いと行為にかえてしまうのです。

崇高な慈愛の心が、そのまま、憎悪や怒り、苦しみ、恐怖の心に変化する・・他人の為に命まで捧げる献身的行動が・・少し、環境が変わってしまえば自己優先の修羅場となってしまう・・そんな出来事は枚挙にいとまがないほど生活の中に湧き出てきます。

生きる限り、ゴミはでます。

こうした雲の如く湧き出てくる思い、悩み・・煩悶を毒消ししてくれる唯一の手立てが・・「数息(観)坐禅」です。

生きる根源にある「呼吸」を数えることに専念する・・これ以上、単純で、専心にできる行為は他にアリマセン。つまりゴリヤクなし・・純粋な「役立たずで無功徳」な独りの行為です。

ただし、数息坐禅が出来るようになったから・・と云って、また、その次の、自分の気になる公案を拈弄して、常に、生活・行動の片隅に疑団として残すようになった・・としても、また、イス坐禅をしていることを忘れてイス坐禅していた・・としても、それがサトリでもなく・・悟れる訳もなく、人生を達観できるものでもないのです。

拈弄(ねんろう・壁にボールをあてて遊ぶように、矛盾した問い(疑問)を繰り返し深堀りしていくこと)

禅は既成概念や、哲学や論理で判別、理解できることじゃありません。寺僧の教導や、学問、数多(あまた)の禅、瞑想、宗教に関する経典や本など、既成の概念に頼らず(・・これが大事)拘らずに払拭して、自己の内から湧いてくる好奇心を唯一の指針にしてください。

ココニ悩みの塊があつて、悟れば、苦しみは粉々に砕け、神々しい愛の女神が、優しく自分を包み込んでくれる・・そんなマンガの世界じゃない。かといって修行や禅寺や学問(心理学・精神論)に通わねば、解決がつかないと思い込むものでもない。  

悟り(自覚)は、専心、どんなに長く坐禅しても・・期待して待ち焦がれても・・これだけは保証してもよい・・絶対、やってこないのです。悟れません

*百丈懐海(720~814)は、師の馬祖道一(709~788)に問答して鼻を捻じりあげられて、あまりの痛さの中で見性しました(碧巌録 第53則 百丈野鴨子) その馬祖道一が若い頃、修行坐禅している時、師の南嶽懐譲に何をしていると尋ねられて「坐禅によって、佛(覚者)に成ろうと努力している」・・答えました。すると師は、小石を取り上げて、傍らの敷石をこすりはじめました。「師よ、何をなさるのですか」と問うと「貴方が坐禅で覚者に成れるのなら、私は、敷石を磨いて鏡にすることができよう」と答えて、思惑(先入観)の愚かさを教えたのです(禅話・磨塼作鏡 マセンサキョウ)

*日頃の、何の「功徳・ゴリヤクもない坐禅」を続ける内に・・突然・・ある人は坐禅から立とうとして、明星の輝きを目にして大悟しました。

これは菩提樹下、釈尊です。その後、仏陀(覚者)の教え=仏教を教導された・・けれども・・仏陀のもと、数いる求道者の中で、ただ独り、摩訶迦葉(マカカショウ)尊者のみ微笑(自覚)されたのです。この「禅」を付嘱(フショク・預け託)されたと(無門関第6則 世尊拈華)あります。

「禅」が仏教でないことを証明する・・最初の逸話です。

この「禅・坐禅」が中国にわたり、日本にやって来たのです。「禅」は、いわば仏(陀の)教えのモト=本/玄/元/素・・にすぎず、文字や言葉で表現できないので【ただコレ・コノ事】を、それぞれの人が【自覚・見性】すれば安心(アンジン)できる・・のです。

不安は正体がわからないから、心が落ち着かない状態です。

禅(坐禅)を荘厳な寺僧の儀式で飾り立て、集団の坐禅修行で印可・認証する宗教的概念は、世界に通用しなくなりました。。

人は誰にも頼らず、独り、生まれて・泣いて・呼吸出来て・・(モチロン父母や周囲の援助はありますが、呼吸をしたのは自分です)今も独り生きて、やがて洩れなく独り死んでいきます。

しかも、この世界(仏教でいう娑婆)は、産れた子供に限らず、己(オノレ)以外の人やモノの慈(めぐみ)で生かされているのですが、率直に認めようとしないのが自意識(自己保存・拡大の欲望・行動)です。我利我利(ガリガリ)亡者とはよく言ったもので、米や麦一粒、自分で作れない者が、誰かと誰かの創ったスマホやPCに依存して利権を追い求める姿は、ズバリ、勝手すぎませんか・・と言いたい出来事でしょう。

*最近、子供を虐待して死に至らしめる親のワガママが報道されています。教師を数人の教師がイジメる信じられない事件が発生しています。犬猫にも悖(もと)る行為には、議員・省庁官僚への対応を迫るまでもなく、民愚におもねず、ただちに行政が介入して、子供の養育に全責任を持って大人になるまで育て上げる仕組みをつくってください。

既成の組織に甘んじる無関心の態度が一番いけないことです。                 

 オオカミやハチやアリンコだって社会(組織)の力で立派に子育て教育をしています。

親は無くても子は育つ・・この格言は至言です。

自分一人の努力で、生存できた者は人類史上、ヒトリもおりません。政治といい、風潮といい・・チョット、理づめの詰将棋のように成らずに、偶然にせよ、必然にせよ、生かされてきた実感(既成概念)の数々を坐禅で毒消ししてほしいと思います。

呼吸を数息する坐禅は「生かされてある自分」の最終・最後の自覚手段です。私が、釈尊や達磨の禅(坐禅)をしよう・・というのは。宇宙・世界で唯ヒトツ・・自他共に・・何の価値、評価のない「無功徳」・・役立たずの坐禅・・から、独り(独尊)を自覚してほしい・・願いがあります。

既存の教団・組織や教育・哲学や、本や知識、スマホ・PCに頼らず、初めから終わりまで生かされている自分・・盤珪は「不生」禅と云っています・・親鸞は弟子ひとり持ずと云っています。

*これを禿げ頭(愚禿グトク)親鸞(しんらん 浄土真宗の開祖)は・・「善人ナオモテ往生ヲトグ」と、人の行いの中に、阿弥陀仏の救済について語ったのでないか・・と思う。誰もが寿命があり・・この人は善人・こちらは悪人と、簡単に分別できない娑婆(しゃば・社会)の因果応報を身に着けている以上「南無阿弥陀仏」を生涯に1度、唱えれば救われるという念仏(発想・信念)は、私にとって一休さんの「シンパイスルナ!ナルヨウニナル」の自覚を、保証してもらったことと同じなのです。親鸞上人の「禅者の一語」は「南無阿弥陀仏」なのだと思います。

有(会)難とうございました。

 

 

《禅とは?シリーズ》NO34 やさしい坐禅の仕方⑴ 三分間出来ますか?

元服の書NO34 わかりやすい坐禅・・

たったの3分間の坐禅・・ソレこそ何の役に立ちますか?  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

どうせなら30分とか1時間とか・・  

 もう少し 長くやれば良いじゃありませんか!

ホントだね・・

3分間ポッチに限定したのは、初心者の習慣化のため。

たったの3分間でもナカナカ坐禅は出来ないものです。思い(空想)が次々に脳裏をかすめて、静かに椅子に坐っているだけでも気分がイラツクものです。

坐禅で足が痛くなったり、まるで我慢比べのようになったりしては元も子もありません。

一番やりやすいのは「寝禅」です。横になって手足を伸ばし眼を半眼にして、1回10秒ほどの(複式)呼吸をして、その呼吸数を「ヒトーツ・・フターツ~ムーツと数え、これを3回繰り返します(計6×3=18回、約180秒=3分間)・・

(心も体も)リラックスしておこなってください。

*6呼吸(約60秒)の数息(すうそく)をするのは、まず気持ちを整え、想いにとらわれないようにするためです。まだ他に事由はありますが、いずれお話ししましょう。

人は、まるで湧いてくる雲のように・・スグに空想します。気にせず、またヒトーツからやり直して・・出来たら、続けて・・もう1回・・さらに、もう1回・・繰り返している内に眠くなります。それでいいんです。眠ってください。

うまく出来ない・・とか・・ナントか1回でもマトモニ寝禅、やり遂げよう・・など、思うこと自体を・・湧く雲のように放下着(ホウゲ・捨て去る)のです。

次にやりやすいのは、朝、目が覚めた時・・

起き上がる前の・・3分間。

その次は・・通学・通勤の往復電車の中・・スマホに手がいく前に、たった3分間。乗客の思い思いの表情や窓の風景に季節が感じ取れて来たら、足元が少しシッカリしてきた証拠です。

その次が・・お昼や3時の休憩時間・・姿勢を正して、眼は必ず半眼にして(眼を瞑(つむ)ると眠くなります)前方1~2メートル下を見ます。周囲のことが気にならなく迄・・気が散ったら、ソノママ止めて結構です。ナニクソ・・もう一度と・・無理やりがよくありません。世の中、そんな執着、造作ばかりです。

これで1日5回 15分間の立派な坐禅です。(1年で15分×365日=5475分÷60分=91.25時間あまり)この時間は、チョットした禅寺の跡継ぎ修行者の参禅・接心の日数です。もっとも生活の中での【行禅】は、身につくのに数年かかります。長時間やればやるだけ早く悟れる・・ソンナ安直なものじゃありません。

この3分間18回の数息に集中して【造作なく】呼吸できるようになってください。

よく瞑想などで、音楽や水音などに意識を集中したり、南無阿弥陀仏と唱えたりして、三昧に入るとよいと指導されます。坐禅の一番の邪魔は「聴覚」・・耳からの雑音です。次に「嗅覚」・・おいしいスイーツや食事、香水など、敏感になって、たちまちトリコになります。誰からの影響も受けない、純粋な釈尊(ダルマ由来)からの坐禅をなさってください。印を結ぶとか、結跏趺坐(けっかふざ)とか、伝統や形式に縛られることから行うと、執着や依存心が醸成されます。拘(こだわ)らないこと。執着から離れようと、努力しない事。坐禅は偏差値や試験じゃありません。一休さんの道う「ナルヨウニナル・シンパイスルナ」の禅境を真似ましょう。

手足はどうすればいいんですか・・自分の手足です。眠っている時、手はどうしていますか。坐禅の邪魔(妄想)にならぬよう、つり革を持ったり、イスに座ったらヒザの上に自然において・・お好きにどうぞ。

わかりやすく【独りポッチのイス坐禅】と名前をつけたのは、釈尊や達磨が、木陰や川のほとりで、誰とも一緒せず・・独りポッチで坐禅をされた由来に基づきます。

*心意気のあうお仲間と古寺名刹を尋ね、点心をよばれたり、写経やご老師の法話を聞いたり・・とか、本や茶華道やスポーツや瞑想、ヨガ教室などで話が出て「禅=坐禅」に関心が湧いた方がおられます。

でも、本来、坐禅は字の通り、人がバラ・バラ、それぞれに生活の中で、土や石や(中には樹上で)静慮した姿であり、二人以上、組になって組織(集団)的に研修・話題にするものではありません。

坐禅による「悟り」は 自からが自からを啓発・自覚するものです。少し独り坐禅をしはじめるとわかりますが、一呼吸ごと、同じ状態の呼吸はアリマセン。眠っている時も、食事の時も、スマホに夢中の時も・・自分の身体(呼吸)は《同じ状態》と云うことがないのです。体にせよ心(思い)にせよ・・常に変化(諸行無常)し続けている自分に気づかれるでしょう。それから、右手は左手の為に、足は働くために、口は食事をして胃腸は栄養を届け、心臓や呼吸は、止まれと云っても、黙々と、アナタ(自分)のために、ほんの少しの栄養(報酬)で働き続けています。ことに3分間イス坐禅など、他人の為にも、自分の為にもならぬ無功徳(無価値・役立たず)な行いに文句ひとつ言いません。髪の毛や爪や、垢や糞尿など、もともと自分でありながら、淡々と新陳代謝して自分から分かれて行きます。

独りひとり・・自分の呼吸から、坐禅に入るのが純禅のはじめです。

寺僧(師家)の教導や禅の本から、悟りに到った禅者など、私の知る限り(釈尊以来)ひとりもおられない・・といって過言ではありません。

      *釈尊・・釈迦牟尼世尊、お釈迦様、ゴーダマ・シッダルダのこと。

これから元服の書で「やさしい坐禅の仕方」を紹介します。

併せて はてなブログ 禅者の一語「碧巌の歩き」で禅語録「碧巌録」意訳を・・また「禅のパスポート」で、第2次大戦中に活躍された素玄居士(高北四郎)「無門関提唱」の絶版・復刻/一部意訳をしています。

おりおりに ご覧いただければ幸甚です。

禅は、独り一人に存在(無位の眞人/本来の面目)しており、これを自覚するのに・・例えば「コッン」とテーブルを叩く(故・鈴木大拙翁 発言)・・そこからワープ(参入・発見発明)する安心/禅による生活です。

これからの世界は、よきにつけ悪しきにつけ、電磁的社会・文化の中で宇宙を目指すか、愚かにも地球と文明を破壊するか・・どの道を選択するかワカリマセン。

しかし、私の願いは、将来・・遠く火星や木星土星を目指す、アストロノートのヒトリが、東西南北のない・・無重力の宇宙船の中で、ぐるぐる遊泳しながら独り坐禅をしている禅者の姿です。

どうぞ価値観なき「無功徳」の禅を、寂寥の内にアナタもなさってください。

   有(会)難とうございました。

禅・羅漢と真珠/雑記29 ◆いま・・此処(ここ)の真実?

禅の極意「今・此処」とは?・・その真の意味を教えてください。

「時間➡時覚」は、どのように「自覚」体験が出来ますか・・? 

坐禅は「棒や喝」の「暴力」で鍛えられる というのは本当ですか?

禅について・・三つの「?」に、まとめてお話します。

● 痛棒、大喝は「イマ・ココ」の気付け薬です。

● 俱胝一指の公案、机をコツン(故、鈴木大拙翁)で・・どうぞ。

● 棒・喝は暴力ではありません。

  禅者(師家)の思いやりも、スマホの時代 廃(すた)れました。

時間とは、仏陀(覚者)の教え=「仏教」によると、刹那(セツナ 0、013秒)から、1劫(ゴウ 43億2千万年)まで、一瞬なりと切断して提示できない、過去から、現在・・未来へ・・ズットつながっている・・今・いま・イマの連続。際限のない波濤だといわれています!

西洋の科学的論理的な「今」と云う瞬間は、まるで物理学で言う波でもあり粒子でもある「量子力学」の世界でしょうか。

科学的とか物理学の学問で、ビッグ・バンで初めて「時間」が生まれたとか・・ブラックホールの中に時間はあるのか・・とか、少なくとも科学的な分析や考察を「禅」では云いません。それは、例えば仏教で言う「如」の世界や「西方浄土」は何処にあるか、わざわざ調べたりしても競(せ)んないことになるからと同じです。

生死・葛藤・懊悩の不安を どれだけ分析・検証しても解消するに至りません。人間だけが「主体と客体」に区分して分析、考察する、思考(霊性を認識できる)動物です。言葉・文字、そして数字とゼロをつくり、物事を比較・対比させて、有ると無し、価値と無価値、生/死、善/悪・好/嫌など、思考と感性(本能)を元に、人間社会をご都合次第の文化で創り出してきました。

また、現代科学は、光の1年間に届く距離を1光年と称し、この宇宙を140億光年として設定し、今なお、広がりつつある宇宙像を正論としています。TVのブラウン管の雑音映像(ノイズ)の約10%が、その宇宙誕生の時の電磁波だと云うことです。   

この電磁波・・戦争の時は敵機を探知、撃墜するレーダーに使われ、今や、家庭でチンする便利な電子レンジになって普及しています。

科学への好奇心はつきないにしても・・では、いったい不思議な電磁波の、どこを切り取れば、現在(イマ)になるのでしょうか。どこからが過去になり、何時からが未来(将来)になるのか・・納得できる答えはあるのか、ないのか・・ワカリマセン。アインシュタイン によれば、運動する2つの物体に同時刻は存在しないそうです)。

時計や暦(時間意識=時覚)は、科学的社会(文明)に発達にとって欠かせない係数でしょうが・・「禅」は、ソンナ頭デッカチな論理的思考方法はとりません。

各自が、直截な「時覚の自覚」体験を尊び、発見することに迫るのです。

禅には「生死事大 無常迅速 光陰可惜 時不待人」の格言があります。その意味は「生きる・死ぬは、自分にとって最重要課題だ。生活のすべてに無事、平穏なる時はないのだから、(他人の言行に振り回される・・)夢うつつに過ごすなかれ。時間は、お前さんの勝手な造作を待ってはくれないぞ」とあります。

(造作するナカレ・・は臨済義玄の言葉です)

良寛の、地震で災難した知人へ、びっくりするような見舞いの手紙があります。

災難に遭う時節には、災難に逢うがよく候。 

  死ぬ時節には死ぬがよく候。

   是はこれ災難をのがるる妙法にて候。山田杜皐 老あて手紙

    (1828年12月 新潟県三条市地震 家屋全壊12000、死者1500人・・良寛71歳)

この災難の字を「天災、地震、戦争、難治の疫病、病気」など、良寛の生きていた当時の時代背景に合わせてみる必要があります。不意に、避けようもない不幸な出来事に遭遇して、死ぬのかナ・・と覚悟しないとならない時・・良寛自身、自分は・・何時も、ソンナ災難を逃れる方法は、これしかないと思っています・・と地震で身内を亡くされた知人に(慰めようもない)運命=業への覚悟を、寂寥の想いで書かれました。私は、真っ正直な良寛さんの「焚くほどは風が持て来る落ち葉かな」・・と同義の想いであると勝手に解釈しています。

臨済の大喝、徳山の三十棒・・昔の求道者は、達道の禅者を求めて行脚し、これはと思う師に随侍して、期間・費用、忖度ぬきに、鞭撻を図りました。中国であれ、日本であれ(江戸時代・・良寛の頃まで、求道者は、居住の家を待たず、行脚、乞食(こつじき)に修行をし、あるいは、自ら田畑を耕し、家普請をし、草鞋を作り薪を売って働き(作務し)ながら、自(みずか)ら【禅による生活】を汲み取っています。今どきの寺僧(葬式坊さんとか、観光禅のお布施・授業料)の組織的集団とは大違いの、独り一人の修行でした。

臨済宗の祖・・臨済義玄だって、黄檗のブッ叩き棒を3回にもわたって浴び、紹介先の大愚の元では瘋癲(フーテン)者とさげすまされ(省悟して、その脇腹を3度突いた後)黄檗の元に戻って、師のホッペタを思い切りヒッパタいて、大悟の証しとしています。

まるで横から見ても縦から見ても暴力教室のようです。ですが、見性(悟り)は、頓悟(ヒヨットしたハズミ)の自己発見といえるので、学校・組織、集団修行、教育論文、試験採点方式では、ゼッタイ達成できない個人の自主的行為です。棒で30回も叩かれたり、首を締め上げられて「サア道え、言ってみろ」と洞豁(どうかつ)された・・と思うのは、被害者意識の過剰反応です。自発的に内爆・発見(見性)する・・その寸前の、禅者(師家)によるチョットした動機(キッカケ)刺激(気付け薬)にすぎず、当人は、そうなってくれた自分(自性発見)に感謝しています。

徳山は、禅機の熟した求道者を見極めて、発見発明するよう、促す意味で三十棒(回)打ち据えて、見性体験させただけなのです。コンナ暴力的に見える行為が、禅の中にかくれ潜んでいるとは・・と怖気づく現代人ですが、スマホ時代・・廃れました。釈迦の道う「拈華=微笑」の公案も、臨済の大喝一声も、ゼーンブ「今・・此処」の、素直な時覚(自覚)の霊性体験に他なりません。

禅機(悟りに到る突然の機会)は、どんなTPOも「今・・此処」を「時覚/自覚」した瞬間のコトです。求道者の禅機を見据えることなく、ヤミクモナ棒喝行為をしたとスレバ・・それは寺僧・師弟もろとも野狐禅に堕してしまう・・度し難い欺瞞でしょう。

口を酸っぱくして言いましょう・・坐禅して悟りに至ったのは、釈尊独りのみ。師家の(一見、暴力的な手助けを含めて)アドバイスを機に見性した禅者は、禅語録をひも解いても十指に足らぬ少人数しかおりません(見性の総ては・・普段の生活行為の中で、禪機の自発によるものでした)

*見性の証しの、師の印可状を破り捨てたり、伝来の衣鉢を焼き捨てたり、寒中、貧者に仏像を焼いて暖を取らせたり、仏像(の金銅、後光)を与えたりとか、禅語録には、自由闊達な禅者がたくさん登場します。禅機も・・梅の香りで・・とか、掃除をしていて・・とか、箒で叩かれて・・とか、指を切られてとか・・独り一人に、大覚を自省自発する禅機が備わっていることがよくわかります。

無門の云う如く、文字にも言葉にもならない【今・ソノコト】ですから、ギリギリ・・趙州(778~897)は「喫茶去」と道い・・「放下着」と云い、雲門文偃(うんもんぶんえん864~949)は「乾屎橛」(かんしけつ・クソカキベラ)と言い・・その弟子、洞山守初(とうさんしゅしょ910~990)は「麻三斤」と答え、密庵咸傑(みったんかんけつ1118~1186大徳寺)は「破沙盆」(はさぼん・欠けた役立たずのスリ鉢)と【独り一人】喝破、自白しました。

(コンナ自分独りにしか体得できない禪ノ自省自認ノ いったいドコニ宗教ヤ集団坐禅ノ有効性ガアリマショウカ!)

自らの(見性)は・・痛(触)覚・聴覚・嗅覚など、人の五感を通じ・・慈/除/死/旨/知/視/聴/嗅/痛・・自(時)覚する・・全身の瞬間体験なのです。自己が内爆して跡形もなくなる・・いうに云えない経験です。

誰でも彼でも、滅多やたらに棒喝するのは、ソレコソ暴力教室です。

ある程度、禅境(地)が煮詰まってこないと、棒・喝どころか、この糞袋子(フンタイス・飯クソ袋の人間)とばかり、求道者の相手にもしてくれない・・純禅・坐禅境地の世界が(棒・喝)にあるのです。

かねてより、私に限らず、素玄居士をはじめ、真の禅者たちは・・「禅・坐禅」は宗教ではない。と主張しています。禅の求道者が、長い間、寺僧の揺籃を受けたのは、厳しい社会(政治)的な迫害や組織の利権があったからであり、また、その後、逆に、宗教の名のもと集団を擁護する組織で現代にいたったので、抜き差しならぬ弊害(運営、拡大化)に陥ってしまったと考えています。ですから、何らかの利権を追い求める寺僧や、その寺僧の為の組織的な禅・坐禅集団・・の影響を受けない・・純禅、坐禅は「釈尊・達磨禅」に還える「無功徳=役立たずの独りポッチ」禅しかない・・と思っています

幸いにも、スマホ・PC(この電磁的個人的)社会になったおかげで、タッタの2年あまり、このはてなブログを通じて、お話させていただくだけで、2万をこえるアクセスがありました。活字本で書店に並んだにしても、これだけ禅(坐禅)に関心をもっていただけたか・・どうか。これから、ますます電磁的社会が進行するでしょう。それだけに欲求不満(ストレス)を抱えて、悶々と悩む人が多くなります。

たかだか三分・・思い立ったら、その気分のままにだけ・・でよいのです。役立たずの独り(イス)坐禅してください。

そして、ふと、寂寥(無常観)に駆られたら「禅者の一語=碧巌録」「禅のパスポート=無門関」の千年前の唐・宋期の禅語録の意訳のどこでもよい・・矛盾に満ちた公案、禅者の行録話を読んでください。例え、眠くなっても、ウンザリしても・・字面を眺めただけでも・・キット「役立たずの一語」が、心のどこかに、チクリと針ガカリしてくれることでしょう。

このノドボトケの心ガカリこそ、菩提樹下、釈尊坐禅少林寺の面壁、達磨安心に繫がる・・禅(見性)のビッグ・バン・・「自己発見」となる核(覚)心に違いありません。

・・フト寂寥感⇒独り(ポッチ)坐禅・・

 ⇒直截な実感(禅機)の自発自省

 ⇒ZEN・BIGBANG(時覚の自覚)

 ⇒禅による生活・・Living by Zen

この話、見聞だけでは 賊気・執着(無功徳を見徹出来ない自分本位の独断)に絡めとられて、自暴自棄になりかねません。注意が必要です。

読書や思い込みの解毒剤は・・役立たずの「独りポッチのイス坐禅」のみ。

自分で自分(の悟り)に誘(いざな)い・・扶(たす)ける・・これしかありません。

この奉魯愚を閲覧の方々にお願いします。

禅(坐禅・瞑想)に関心のある方あて、どうぞ、この「はてなブログ」羅漢と真珠/禅者の一語/禅のパスポート・・釈尊、達磨由来の「役立たず、無功徳・ごりやくなしの坐禪」・・折にご覧いただくよう・・ご推奨ください。

有(会)難とうございました。