坐禅は、一人独りに備わっている「心の免疫」である!

禅とは?・・シリーズ     

  元服の書 NO40   やさしい坐禅の仕方⑷

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

息(呼吸・坐禅)は・・心の免疫づくり

赤チャンが誕生する時、力の限り泣きます。誰から教わったのでもない、この世に生まれて、初めて息をするのに産声をあげるのです。 

赤ちゃんが生きる第一の働きは、息(呼吸)をしたこと・・息(イキ)は「生きる」という「自(おの)ずから心を」生(しょう)ずる・・と書きます。誰もが、当たり前にやっている息が、坐禅の一番、大事な出来事なのです。

坐禅は、まず・・息を数え、息と姿勢を整え、眠らぬよう目を半眼にして行います。昔は、数息(息を数える/呼吸)を何万回と数えたり、南無阿弥陀仏と口の中で祈念したり、ヨガの姿勢にしたり、滝に打たれたり、いわゆる集中する修行を集団でしたのですが、無心とか三昧とか、・・ナカナカ人工的な難行苦行は成功しません。

現代でも寺僧の跡継ぎを養成する専門道場が、トマトや苺の温室栽培もどきに、形式重視の坐禅研修をして住職の資格を与えています。

佛教を生業にする僧籍でない一般人は、自宅や仕事・職場、学校の合間に独りで行う・・リラックスした正当な坐禅をなさってください。

「禅」を建物とすれば、チャント「玄関」=数息・・呼吸から入るのです。

*玄関・・禅語・・最初の関所・・入口の意。

知識や迷いや欲望など、身に着けた思惑、造作を忘れ、捨て去る時・・最後に残るのは「呼吸」と「心臓」の働きです。

思考を思考することの出来ない人間が「天地同根」を大覚できるのは・・?

頭脳(思考・感性)は、本能から発達した「言葉や文字」によって思考しています。つまり、産まれた時からの、母親や兄弟や学校などの教育と社会環境で学んだことを、比較し分別して、わが身の利害、損得に利用、判断している訳です。

では、自分と他者を区別する「免疫」のメカニズムはどうなっているのでしょうか。自他を分別するには、自他共通の土台がないと区分できないはずですが、何を自己とし、何を異物として認識するのでしょうか。それにアトピー性皮膚炎とか花粉症は、自己免疫の過剰反応だといわれますが、どうしてソンナ間違いが起こるのでしょうか。

不思議です。

*この免疫の考察は、医学者や生物学などの学者、先生にお任せします。

私は、身体と同様、精神(心)にも「免疫作用」があると思っています。

これを、心(霊性)の免疫と呼びますが、それぞれの人が、一人独り、自己参究する・・坐禅の数息(呼吸)から始まり、分析、区分できない矛盾の公案から・・突然、頓悟(飛躍)・・見性/自己同一/透徹・・の自覚(境地)にいたる・・それでいて、ハッキリ、普段の生活を大慈にしながら・・禅ニヨル生活を、淡々と営んでゆく・・そんな境地を、悟りと言い、この心の免疫を体験(体得)した悟者を禅者というのである・・と思うのです。

つまり頭脳の神経回路が、普段の思考回路とは別に、公案を拈弄するうちに直観(霊性)的な共感回路として創られ、結成するのでないか・・文字を書けなかった米つき恵能が、突如 頌(悟りの詩)の代筆を頼んだり、梅の香りで大覚したり、竹に石の当るカチンと云う音で見性したりする禅者の・・大悟する状態は釈尊以来、独りごとに さまざまで不思議な魅力を持っています。

禅を海外に紹介された、故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)は、白隠慧鶴の「毒語注心経」・・般若心経の毒舌的解説の書・・の不生不滅の項の一節・・手臂不向外曲(手臂 外に向かって曲がらず)の一語で悟られた・・と、大森曹玄著(株)春秋社発行にあります。

手首やヒジは、内に曲がっても、海のタコではあるまいし、外側には曲がりません。この当たり前の、誰でもわかっている「不自由な自由」の事実に、どうして禅機(悟り)がヒラメキ・・一瞬の内に「天地同根・真空妙用」が体観できたのでしょうか。

後年・・アメリカで「ZEN」に入門するには、どうしたらよいのか・・の問いに、哲学的仏教的解説を加えられることなく、サラリと・・机をコツンと叩かれて「ココからどうぞ」と答えられたそうです。どうして、コンナ音一つでZENにわが身が投入され、公案が透化されるのでしょうか。

不思議です。この悟りの実態を、もっと脳内革命として研究する禅学者が出てきてほしいものです。

禅を「心の免疫」というのは、身体の免疫(細胞)が、他と自己とを、どんな仕組みで判断、区別してしまうのか・・極めて単純、自由闊達な答えがあると思うのです。それには・・理屈や造作抜きに、無功徳の達磨禅・・役立たずの数息イス坐禅を、独り行なうこと・・分別・意識・好嫌・感情や自利他利の損得が及ばない・・ココロのTPO状態でのみ、禅機・発見・悟りといわれる「心の免疫作用」が機能機作する・・と今のところ思っています。

心の免疫は、体の自己免疫同様、独り一人に備わる無功徳な働きですから、頭脳(の認識)に関与しない・・数息坐禅の実行で体得してください。

よくわからない免疫のことを、禅の場合に当てはめてみました。

有(会)難うございました。 

坐禅の仕方(3)◆この話・・独りイス坐禅に最適な公案です!

元服の書 NO㊴

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

      禅のパスポート 素玄居士提唱 無門関NO29 復刻・意訳    

    非風非幡(ひふう ひはん)第二十九則 

     【本則】六祖 ちなみに・・風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ、

         二僧あり、対論す。一(ひと)りは云く「幡(はた) 動く」と。 

         一りは云く「風 動く」と。往復して かって理に契(かな)わず。

         祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、

         仁者(じんしゃ)が心 動くと。

         二僧 悚然(しょうぜん)たり。

【本則】素玄居士 提唱

幡(はた)の動くのは、お前さんたちの心が動くのだ・・とは頗(すこぶ)る禅的だ。遉(さすが)に六祖じゃ。

大庾嶺(だいゆれい)の大将が、世の難を避けていたが、禅、興隆の時に臨(のぞ)み、山から下りた際の話である。

禪ではモノに即することなく、心は又その大敵じゃ。

風幡(ふうはん)に即せざるも、心が残っているから心で風も幡も動かしている、心に眼をつけて眼の敵(かたき)にするのじゃ。

肚(はら)がドッシリと坐っていると心奴(め)動き出ぬ。

心がヒッ込んでいると禅機、活発じゃ。撃石火(げきせきか)閃電光(せんでんこう)の活作略(かつさりゃく)をする。

ここが禅の生々たる流露(りゅうろ)じゃ。

素玄云く 帝銀事件で予審判事と検事とが互いに不事実を強調している。言の長き事六尺、語軽きこと三斤。

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は意訳です)

風や幡や心に絡みつかれては、祖師(禅)は見えてこない。

では恵能の真意をどこでみるか。もしも、その真意を、はっきりと見るならば、二人の求道者は「鉄」を買って、それが「純金」だったことで、大儲けしたことになる。

六祖恵能は大変 苦労なさった方なので、ツイツイ本音を漏らして禅の大事を安売りしてしまった。

   【無門曰く】是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くに非ず、是れ心の動くに非ず。

         何のところにか祖師を見ん。

         もし、この者裏(しゃり)に向かって見得して親切ならば、

         まさに知る、二僧、鉄を買うて金を得たり。

         祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、

         一場(いちじょう)の漏逗(ろうとう)なることを。

【頌に曰く】風も幡も心も、全部、たった一つの判決文で、決済をすましてしまう。言葉や文字を追っかけていては、総てが虚妄で災いのもとになる。心が動くと言えば落語のオチとなるぞ。

  【頌に曰く】風幡心動(ふうぱんしんどう)一状に領過(りょうか)す。

        ただ口を開くことを知って、話堕(わだ)することを覚えず。

【附記】帝銀事件・・1948年1月、東京都豊島区の帝国銀行、椎名町支店に顕われた男が、伝染病予防のためと言って青酸カリ溶液を飲ませ12名を毒殺。現金を奪った事件。犯人とされた平沢貞道は犯行を否認、1955年死刑確定。再審請求がなされて刑の執行がなされないまま1987年、95才獄死した。

坐禅で数息が出来てくると、素玄居士の提唱が少し見えてきます。提唱と云うのは、自分なりの見解(けんげ)がシッカリあって、生き方に迷いがない禅者の語りです。坐禅は息(呼吸)が大事で、数息することが一番、禅にふさわしいと思います。

数息の坐禅が身につくと、次第にどんな生活行動でも、自然と数息(呼吸)をしている自分が、自覚できるようになってきます。姿勢正しく、静かに物事に対応できるのです。

ただ、これは坐禅ではないし、当然、禅(ニヨル生活)でもありません。

自分の、どこから湧いてくるのか・・解かりませんが「坐禅」や「禅」によって不安な気持ちを解消したい・・とか、禅語録に登場する禅者の言動が、どこか生死を超えた、超然としたものを感じて、ナントカ理解、納得したいとか・・

こうした思いが募ってくるのが、人であると思います。その時の気持ちは、本や知識や、教導されることの煩わしさ・・誰にも相談したくない「孤独」や「寂寥」に包まれているのです。

さて・・ココから、禅語録の「公案」・・の、どの則の話題か・・数息坐禅をする人、それぞれを、ニッチもサッチもいかないようにしてしまう、不思議な搦め取られる「禅者の一語」が誕生してきます。

寺僧の専門道場では、老師・師家に相見して、公案・・例えば「隻手音声」とか・・「趙州無字」とか・・禅語の一節を、厳そかに与えられました。

私は、この僧堂の修行、密室の参事のあり方こそ、禅を衰退させた元凶であると確信しているので賛成できません。

ある程度、独りイス坐禅で、数息できるようになったら、次に、自分の関心がある禅語の一語を、独り坐禅で拈弄(ねんろう)なさるよう・・拈弄とは、理解不明な「禅者の一語」を、数息のように・・数息の代わりにして、溶(解・説)けない飴玉を、口の中でグルグル溶かし切るまで、嘗め回す状態をいいます。

公案は、どの則であれ解読不能です。哲学者であれ、宗教家であれ、神様、佛様、ノーベル受賞者・・誰であれ・・論理や分析、思考、意識、造作、判断、因果、結果・・経典・文字、説明・・一切キリ・・ソレこそ、なんの役にも立たない価値なき・・

「ZEN」が、禅者の行動で簡潔に書かれています。

いわゆる「悟り・見性・透化・大覚」とかは、坐禅公案を拈弄する・・それぞれの人が、霊性というか、直観というか・・それぞれの禅機(ヒョッとしたTPO)で、決して心理学的なものではなく、突然、体験(頓悟)するものです。

悟りを青い鳥のように追及したり、銀河帝国のフォース、ヨーダのように思いこんだりしてはなりません。

この則に登場する恵能は、山猿と蔑(さげす)まれる土地の出身であり、文字をかけない米つき行者でした。求道者として寺に入っても、長い間、米つき・・手作業の脱穀ばかり・・人に悟境の詩(頌)を書いてもらわないと、自分の気持ちを訴求することすらできない有り様でした。それでも、独り一人に禅がある。独り、ヒタスラの米つきが彼の「坐禅」だったのです。

昔は、中国や日本でも、求道者は達道の禅者を求めて行脚しました。師とするに足る禅者かどうか・・禅語録をひも解いて、問答して師の見識を査定したのです。そして、的確に求道者を見抜いて、垂示してくれる禅者に就いて、その「禅ニヨル生活」を学んだのです。(先生が生徒に試験されていた)

師も弟子も、それぞれ自給自足。アバラ小屋(禅庵)の周辺に、てんでバラバラに野宿して、師の挙動から禅を体得しようと努力したのです。原の白隠など、腐った味噌を農家から貰ってきて、具のない味噌汁に仕立てたところ、碗の中から、ゾロゾロ、ウジ虫が湧いて来るので、それを箸で一匹づつとって逃がしてやってから汁を飲んだ・・という逸話があります。また、ある求道者は、托鉢に出た時、悪ガキに鉢の中に馬糞を入れられ、これとて有難き施こしであるとして食して死んだといいます。

この公案の拈弄にいたる方は、少なくとも、私の意訳しつつある「禅者の一語・碧巌録」や「禅のパスポート・無門関」など、おりに読みこなされていると思います。

禅者の効能書きは、あまり語りたくありません。

数息が出来るようになられたら、お気に入りの公案、気がかりな公案のどれかを、ご自由に「拈弄」してください。

坐禅は、一人独りが行うものです。

禅は(昔は寺僧の揺籃を得ましたが)宗教・哲学・心理学ではありません。

はてなブログ「禅のパスポート」無門関・・ご覧ください。

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録は・・この素玄居士提唱「無門関」復刻・意訳より、初心の方には取り付きやすいと思います。数息坐禅から、公案拈弄に入って・・坐禅する時、自己の禅境(地)をかえりみる一助となさってください。

(注)この素玄居士提唱「無門関」は、不許転載です。禅は宗教に非ず・・と喝破された方ですから、とりわけ寺僧の教導・教材になさらないでください。 

 

坐禅で大事なことは何ですか?

禅とは?・・シリーズ」やさしい坐禅の仕方⑵ 元服の書NO㊳

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

坐禅で一番大事なことは息の仕方ですか?

それとも坐り方ですか?

公案を拈弄(ねんろう)することですか?

何が大事・・と問われれば、呼吸です。

     ただ独り(イス)に坐って、ただ息をすることです。

        これを役立たず(無功徳の達磨)坐禅といいます。

お寺の坊さんになる修行なら ともかくも、現代の青少年に、坐禅の坐り方・・結跏趺坐(けっかふざ)とか半跏趺坐(はんかふざ)とか・・をさせて、イヤになって止めてしまう例があります。アメリカの青年が禅寺にきて坐禅した。

それが・・わずか数分で「足が死んだ」と叫んで道場を飛び出し、戻って来ませんでした。

まったく愚かな教導です。

足の組み方が間違っていたにしても、イス禅や寝禅したりしても、全部・・坐禅の内です。

むしろ問題なのは、坐禅や瞑想は本などを参考にして、自分一人でできるのに、わざわざ知人・友人を誘ったり、何か資格や免許のあるかのような仕組みの・・教導を求めたり、指導料をとったり、取られたりすることを、当然とする習慣が良くないと思います。

坐禅や瞑想で、迷いや不安感がなくなり、集中できて時間を忘れた・・と言われるかもしれませんが、三昧(ざんまい)の境地など、別段、誰から教えられなくとも、面白い(楽しい)事や、何か役に立つ事をしている時は、誰でもソンナ心境になることができます。

職人の仕事や茶華道などの芸事に限らず、アスリートや、幼児のママゴト遊び・・パチンコ、賭博だって三昧の境地に入って出来るのです。

 

坐禅や瞑想は、もともと三千年前から、インドが発祥の地です。

要は「独りで呼吸を整える」事が大事です。

また、息という字は「自(おの)ずから」の「心」と書きます。おのずから・・とは、貴方自身が、計らいや造作しない、妄想のない状況です。終日働いていようが、遊ぼうが、坐禅・瞑想しようが、寝ていようが、自然(じねんと呼びます)のままに「数息(呼吸を数える)」が生(な)されれば・・道を求める者、まず初め、形を忘(わ)する・・の境地でしょう。

ありていに言えば、心臓や呼吸が、頼みもしないのに勝手に動いている・・このことに、誰かの教導がナンデ要(い)るのでしょうか?

まるで「青信号!皆で渡れば怖くない?」

心的自己免疫過敏症と言うべき出来事です。

 

私は、眼を閉じる「瞑想」をすると、かえって妄想したり、眠くなるので、眼を半眼にしての独りポッチのイス坐禅をお奨めしています。息は1呼吸10秒程度「ひト~ツ・ふタ~ツ・・むぅ~ツ」・・と数え、計3回繰り返す。合計18回、約3分間ポッチの数息(スウソク観)でOKです。これを寝る時、起きる時、トイレの時、電車や信号待ちの時、働く前の時、授業の前や、スポーツの前、休憩時間ETC・・おりおり気づいた時にやってごらんなさい。

3分間独りポッチのイス坐禅は、やらねばならぬ・・とやっては長く続きません。

フト・・「あ、そうだ」と気づいた時に無理せず行うので充分です。

貴方の心が「あ、そうだ」と気づく・・

これが大事な「禅」への入り口(玄関)です。

玄関・・禅語・・初めの関所の意。他、普請、作務、造作・・など禅語。

何べんも何べんも、何の効果効能がなくとも、気づいたら、すぐにしてみることです。

3分間・独りの場・数息坐禅のTPOを弁(わきま)えましょう。

【附記】熱帯のインドで発生した坐禅(瞑想)は、涼しい木陰の大地、石上に、独り坐って「静慮」しました。

釈尊は六年にわたる入山。苦行してやせ細り・・ヨウヨウに下山。スジャータの山羊乳(施こし)を受けました。そして菩提樹下、体調を整えなおして、安らかに坐禅され・・明星の輝きをご覧になって大覚(見性・悟り)したのです。

心体ともども(コンデション)が、ベストでないと、正観できないとされたのです。また、赤道直下、日夜ともに暖かかければこそ、大地に直に独りが坐す・・坐禅が出来た訳です。

日本のように雪が降る国で「足が死ぬ」ような・・我慢大会の修行は、坊さん養成道場に任せて、関わらぬようにしましよう。

坐禅は文字通り・・人が土の上に、バラバラ(独り)に坐る姿です。屋根のある土間に座る「座禅」・・新聞や本で紹介される「座」の字は、本来の坐禅にふさわしくありませんので、私は採用しません。

もともと・・坐禅も瞑想も、三千年ぐらい前(仏教以前)に、数字「ゼロ」を発明した熱帯のインドで行われた整体静心の方法でした。

釈尊は、大悟の後、仏教(悟者/覚者の教え)を行脚、布教されましたが、禅については教外別伝(不立文字)として、独り・・迦葉尊者に付託されたのです。文字でも言葉でも表現、解説できない「ZEN」は、海路、ダルマによって中国にもたらされました。

(一説に彼は仏教宗団の誰かに毒殺されたといいます)

中国の禅者たちは、はじめ剃髪もせず、道者と呼ばれて、世の為、人の為、働いておりました。禅には「作務(さむ)」・・住む寺を普請(土木工事)したり、農耕、牧畜したり、生活手段(生業ナリワイ)として働いた・・ことが特筆されます。共産主義の「働かざる者、食うべからず」ではなく「一日、作(な)さざれば、一日食らわず」百丈懐海(720~814)の如く、自主的に、働かないのなら食べないおこう・・とする労働の尊さを大事としたのです。

その後、日本に伝播した禅宗は、すっかり宗教、教団に取り込まれて、今は観光禅に落ちぶれてしまいました。釈尊、迦葉~達磨~以来、一休、良寛など、ひとり独りの坐禅をもって発露したZENが、寺僧の生業と化してしまったのです。

現代は、商いや仕事をしながら、宗教に関与しない禅を求めること・・独り坐禅をすること。

これからのAI・・電磁的社会では、働く独り一人がバランスのとれた心体ともに免疫力を持つことが大事でしょう。体の免疫のことは学者の先生にお任せすることにして、心の免疫は「無功徳(役立たない)達磨禅」・・独り坐禅が担当することになる・・と思います。

               有(会)難とうございました。

 

元服の書㊲ 子供に坐禅を教えたいのですが・・

小学の子に「坐禅」をさせたいのですが・・ 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・問いに答えて書いています

まず、お母さんに対して厳しく言いますが・・無理です。

母親のワガママな願いを、子供に押し付けてはなりません。

お子さんが、おいくつなのか・・ワカリマセンが・・スマホやTV、ゲーム、PCではなく・・面白く関心を持つ遊びやスポーツなどさせて、一心に打ち込む姿を見守ってあげてください。

坐禅にせよ、瞑想にせよ・・基本は眼を半眼にしているか、閉じているか・・の違いですけれど・・私の友人知人100人の内、僅か3分間ポッチの独り坐禅を、10年間・・続けることができた人は・・1人か2人・・いるかどうか疑問です。ナカナカ簡単なようで難しいのです(息するのは どなたも気にしてませんが、意識すると、トタンに苦しくなります)

とりわけ欣求宗教ではない禅・・無功徳(役立たずの達磨)禅は、寂寥(せきりょう・孤独)を感じる人でなければ続けられません。

貴女が瞑想(坐禅)を、どれだけの深まり(禪境)で体験されているか知りません。けれども母親だからといって、どんな出来事でも、我が子まで道ずれにしてはなりません。

時に・・子に学び、教えられることが多くなった今は電磁的競争社会です。

例えば、幼児のママゴト遊び・・夢中で遊びます。夫役の男の子は、妻役の女の子ほど、アドリブの効いたセリフと仕草はできません(社会に出て働く男のイメ―ジが湧きにくいのです)。

妻役は、日頃の実際の家庭での生活を真似て、ママゴトと同じような生活を演じているか、または、かくありたい・・とする想いがそのままに、自由にイキイキと表情されている様子です。

 

映画やCM制作者や出演者の間で「子供(ジャリ)と犬猫には勝てない」とよく言われます。動物や子供たちの演技は、素直でアリノママ・・表現ではなく、心(情)が自然と表にでてくるものだから【表情】に引き付けられ、注目されるのです。

この純真な生活行動・・こそ、現代の大人たちが「表現・造作」ばかり作為的にすることで見失ってしまった【人間らしさ】でしょう。

 

最近 見かけなくなった・・公園のカクレンボで・・「ご飯ですよ」・・と母親が呼びかける風景・・ご飯を犠牲にしてまで遊びたい・・そんな遊び心を・・私たちは、何時、何処で消滅させてしまったのでしょうか。

 

今年は、2度目の日本でのオリンピックの開催です。

若い・・といっても、まだ少年少女としか言えないような子供が天才的な特訓、教導を受けて、脚光を浴びる時代です。

ソンナ優勝とか・・金メダルとか・・勝て!負けてはならぬ!の大人の競争、比較検証の社会を、進歩とか未来社会とか言ってソソノカスのは いったい誰なのか・・教えてほしいと思います。               

 

いや・・それよりも・・価値がありますとか、金や権力が得られますとか・・アナタは「何のために生きるのですか」とか・・お為ごかしに宣伝利用されるのはゴメンです。

 

千年前の白拍子の歌謡に・・【遊びをせんとや生まれけむ・・戯(たわ)ぶれせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ、動(ゆ)るがるれ】

梁塵秘抄」リョウジンヒショウ(1180年頃、平安末期の今様)

「人は遊びたいから生まれてきたのだ」とする興趣の湧く處・・千年前・・夢であった「遊び社会・・他の人が楽しく・・役立つように働ける社会」の実現こそ 行政に限らず、私達(独り一人)が 努力していくことだと思います。

しつけは大事ですが、親子もろとも、モットもっと、おおらかに暮らせる社会でありたいと願っています。

話が横道にそれました。(大事なことですから次回に繋ぎます)

独りイス坐禅は、余分なことを思わず、いつの間にか、数息(観)を忘れて(スウソクの)呼吸をしている・・仕事や勉強中とか、通勤中とか・・生活の中で、そんな【息する・・字は・・自然に心が・・落ち着くと書きます・・そんな呼吸の】状況に進化(シンクロ)なされるように・・。

有(会)難とうございました。

 

 

【犀(さい)の角(つの)のように、ただ独り歩め】・・ブッダのことば

 年末・年頭 所感 

はてなブログ・・禅者の一語(碧巌録意訳)/禅のパスポート(素玄居士提唱「無門関」復刻意訳/禪・羅漢と真珠(禅の心、禅の話)

・・この奉魯愚(ぶろぐ)は、2019年12月28日~2020年1月5日間は、一休さんの「門松は冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」にあやかって、菜根譚(さいこんたん)花看噺で通します。

半開(花は半開を看るべし)菜根譚 洪 自誠

花看半開   花は半開、清楚を看るべし・・

酒飲微酔。  酒はホロリと酔うほどにすべし・・。

此中大佳趣。 此の中にこそバランスのとれた風流がある。

若至爛漫モウトウ もしも酒乱泥酔の輩と一緒の花吹雪なら、

便成悪境矣。   花と酒 ともどもに最悪・・お断りだ。

履盈満者    えいまんの(みちたりた)者は 

宜思之。    今が看脚下だぞ。

       *モウトウ・・酉に毛。酉に匋と書く・・酒に憑りつく、アル中の意。

本年は・・はてなブログ計23149回の閲覧(アクセス)と☆86をいただきました(2019年12月28日19;30PM現在)

☆を沢山いただきながら、私がPCの使い方が未熟なため、お礼やご返事もままならない点、お許しください。

また、禅や坐禅のご質問には、ナニブン、禪は宇宙の中で役に立たない価値なき出来事ゆえに、貴方ご自身で見性(自覚)されること・・のみが解決法です。

ご参考に、碧巌録や、終戦前、真っ当な無門関を提唱された素玄居士の復刻・・各則の見解(けんげ)頌(禅機・禅境)など、禅者の風流な生活(行為)を紹介している次第です。

また、千年前の禅者と面談できるよう意訳に努めています。

ご覧になった禅語から【!・・?】と感じられた一語を 独りポッチ(3分間)イス坐禅で、思い返し、考え返してください。(これを拈弄/ネンローと言います)

禅の公案(問答)は、いずれも、異次元から答えられたように矛盾に満ちており、論理的心理的、哲学的科学的な正解はありません。これが正解だと言えば言うだけ、書けば書くだけ、間違いや誤解が増えるだけなのです。

釈尊ですら・・生後7日に生母を失い、ヤソーダラー(妻)との間に、結婚13年目に生まれた男児に「ラーフラ」(サンスクリット語で 障り。悪魔の意、漢字で羅睺羅(らごら)と名付け、子捨て(家出)しました・・その後、独り山に入って、6年に渉る苦行の後、菩提樹下、明星の輝きを見て悟りにいたる・・ソンナ苦悩、行脚の生活が背景にあります。

当時(2500年前)の平均寿命は30才前後。縁なくば、死んでも不思議ではない年齢でした。

後に羅睺羅は、仏弟子となったと伝えられています。

その因縁、由来はつまびらかではありません。

(山折哲夫著「ブッダは,なぜ子を捨てたか」集英社新書

更に1500年前、仏教伝来の最後を飾って、はるばるインドから中国に渡航して禪を伝えた菩提達磨にせよ、その後、禅語録に登場する中国の禅者たちは現実的な中国の風土に育まれて釈尊の・・

「犀(さい)の角(つの)のように。ただ独り歩め」

中村 元訳ブッダのことば スッタニバータ・・と道(い)われた「禅ニヨル生活」を歩んできたのです。

「禅」は独り一人にチャントあります。宗教ではアリマセン。

寺僧や教本、教導に頼ることなく、独りでチョットの時間でも 無価値で役立たずの「坐禅」をなさってください。

          有(会)難うございました。 

価値がある・・価値が無い・・ということ・・

元服の書 NO㊱ 

価値とは何のことですか? 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

価値がある・価値がない・・について、役立たずの坐禅とか、無功徳の禅とか言われますが、いったい価値とは何ですか?

禅では・・ここでは「禅ニヨル生活」・・禅者である私の独語として読んでください。

私は、言葉や文字で表現することに、出来るだけ囚(とら)われないようにしています。考えたり、思ったりすることは、人間の大脳が比較し分別することだからです。社会や科学の進歩は、比較、検証することで成り立っていますから、学校の教育にせよ、社会で働くにせよ、機能機作や効果効能を重視し、社会や自分に貢献する・・価値あるものを大事にします。こうした是非を判断する大脳(本能)の発達は、身を守る・・死から生命を守り、人間という種を増やすことの方法から進化を始め、感性(愛/大慈・芸術・宗教)と理性(知性・科学・哲学)ともに進化して、全宇宙で、ただ一つ・・人間種(約70億人)だけが、最も優れた能力=比較価値(計らいと造作)を知る生物となりました。

閑話休題(それはさておき)・・今、宇宙の彼方に、知的生命体を探査したり、微生物の存在をしらべたりしていますが、私は(科学的な究明は大事ですけれども)残念ながら 他の惑星に、未知の生物を発見することは無いと思っています。

約2500年前、釈尊釈迦牟尼世尊)の「天上天下 唯我独尊」・・宇宙で唯ヒトツの遺伝子を持つ、ひとり独りだから、比較分別すべき価値が無いゆえに「尊い」のだ・・と言われた教えを守ろうと覚悟しています。

どうやら人間種は、100億人ぐらいでピークを迎え、日本に限らず減少すると統計学で言っています。この説が正しい(物理的科学的思考・・光より早いものがない等)とすれば、火星や土星位ならまだしも、数千・数万光年かなたの惑星に、知的生命体による文明があったとしても、いったいどんな価値なり、危険があるものか・・わかりません。浦島太郎や竹取物語のSF版か、あるいは宗教の例え、地獄・極楽の話のように思えてくるだけでしょう。それよりも宇宙的観点からすれば、僅か100億(人)程度の数は、尊重すべき価値ある生命体と思えないのです。

ビフィズス菌ですら、100億といえば、スプーン1杯分、たった1回で口の中にペロリです。

むしろ、人間・大脳の比較価値観を離れて、この天の川銀河の、浜の真砂より多い辺境の星。この太陽系の3番目、水の惑星に・・比較すべきものがない独りの人間として、自覚する生命体がいる・・この寂寥感に満ちた生活をすること・・禅ニヨル生活・・が大事だなぁと思います。

昔、父から「金石麗生」と刻印された石印をもらい、年賀状に押しまくっていました。金銀珊瑚、玉といわれる宝石は、生じた時から、麗しく価値あるものである・・と評価される。この思い込みは大誤解でした。また禅は坐禅によって「悟り」を得る・・とか、坐禅は「悟り」の姿ソノモノ・・であるとか・・思考(試行)錯誤は止めましょう。嘘も方便はもういい加減、捨てないといけません。

 

私は過年、年賀状を廃しています。それでも頂く年賀状には、遅れて2月頃、普通ハガキに禅語録の気に入つた頌や詩文の一節を書いて、その片隅に・・今でも「金石麗生」の朱印を押すことにしています。

その真意は・・純金であろうと、路傍の石コロであろうと、すべて独尊に麗しく生じている(露堂々・麗赤々)との意からです。

2020年は、臨済義玄臨済宗開祖)の「無事是貴人」(ぶじ これきじん)とするか・・

洪 自誠の菜根譚からの一節「花看半開」(はなは はんかいをみる)とするか・・

いずれにしても、計らい、造作のない(無価値・無功徳)の禅者の一語を採用する予定です。

くどいようですが、私の提唱する「役立たずの独りポッチ・イス坐禅」は、価値・無価値を勘案せず、河原にころがる石のように坐禅することにあります。どこかの誰かが、漬物の重石(おもし)にと持ち帰られるのも勝手ですが・・。

*タクワン石となる・・これは、京都 南禅寺師家 故・勝平宗徹老師の言葉です。

有(会)難とうございました。

 

◆カクレンボ・・ご飯ですよ!・・の声かかり。

2019年12月9日 追記補足

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて、坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず、修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅たったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)などから、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して仲間づくりはなさらないこと。独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず、坐禅と書いてください。

        雑感31 ◆時覚の自覚(Ⅱ)

かくれんぼ・・ごはんですよ・・の声かかり・・

「時間」というのは、武田邦彦先生のブログによれば、エントロピーの増大で、その変化である・・といわれる。社会の歴史は、過去・現在・未来へと、1方向に流れる時間経過の、人の群れとしての変化であるから、群団を統率した人の名は不要であろう・・と云われる。

科学的時間論や物理的分析、あるいは「君の名は」のような、出会いのすれ違い文学論はさておき、自心の時間について書いてみます。昔から、禅者の時間意識は、お腹がすけば食べ、日が暮れれば眠り、晨陽(しんよう)を視れば、野良に出て働く・・ことであった。時間感覚はあってない・・至極 独り感覚的な実際生活に基づいている。

例えば、西洋で時計や羅針盤が発明され、科学的文化的生活が発展したが、真の禅者は(現代といえども)「時計やスマホ」を持ちたくない上に、TVも見たくない人達と云えましょう。

せいぜい時事に関しては、新聞、ラジオを聴く程度。これで現代社会に、うまく適応できているか・・どうかは自身の自(時)覚次第なのです。当たり前のことですが、禅者の社会生活は、チャント、ルールとマナーを守っているし、社会の為に働いていく・・その姿は、世間からは「木偶の棒(雨ニモマケズ)」と呼ばれたり、木鶏とか閑古椎(カンコツイ)とか言われたりする・・時代の人物評価の範疇に入らない者なのだ。

禅者は、まるで、常に極点に境地立脚しているようだ。

東西南北の地図が要らない生活をしているのである。

昔、一休宗純の「無」の一字の大書を見たことがあるが、あまりの迫力に近寄れなかった。いわば、禅境(地のアマリの)深さを感じたのです。「ナルヨウニナル。心配スルナ」との、禅者の一語(遺言)の深きもケ・セ・ラ・セ・ラの歌の文句ていどの受け止め方では、悟境万里であろう。

だから、時間は人間が勝手に設定したものだ・・と思います。

つまり、人が「気になる出来事を気(嫌擇・造作)する時だけ、時間が生まれる」ので、気にしなくなると時間は消失してしまう・・と思います。

時間とは・・強力な利権の欲望・好嫌に拘泥する者にとって、また、自責の念にかられて苦悩する者や、自己犠牲の者など・・あるいは楽しく、面白く思う時や、他人の為に、何か役立つことを為している時は、長短、増幅のいずれを感じるのであろうか・・。

夕暮れ時・・カクレンボ・・「ご飯ですよ」・・の声かかり・・遠くで母の呼ぶ声を耳にした鬼役や、隠れている子供たちの、それぞれの遊ぶ時間は、統一されてはいないだろう。

そこに子供たちと「カクレンボ」に興じていた 五合庵の禅者、良寛はどうしたのであろう。

彼は、真っ暗になった道の端の草陰で隠れ続けていたが、村人に怪しまれて「シーッ・・静かに!鬼に見つかるではないか」と、独りしゃがんで「隠れんぼ」をつづけていたという。

良寛は、この不思議な時間の網から、自由に解き放たれていたのだろうか?。  

どうやら現代社会は、組織(システム)化され、電磁化され、自動化され・・時間(出来事)を気にする人の関りが、エントロピーの2乗で増大していくかのような・・スマホ依存症の増幅社会だなぁと思います。また、逆に、独り一人、同じ時間(概念)がない、電磁波社会ともいうべき現代であればこそ「役立たずの独りイス坐禅」の環境が整ってきた・・と思います。

もし、欧米の方が「ZEN」や「坐禅」に関心を持たれて、日本に来られたなら・・

「ZEN」を紹介された鈴木大拙先生の著作「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう、お奨めください。

面倒だとばかりに、京都や鎌倉の拝観料をとる有名な寺僧を紹介するような、無責任なことをなさらないように願います。

多少、瞑想やヨガなど、実践された方でも、純禅は、知識や集団の修行では得難い事・・独りイス禅(そのまま居眠りできる位の気楽で勝手な坐禅)で、腕時計が外せるようになり、TVやスマホやゲームやマンガから執着しない生活が出来るようになれば・・無門関(禅のパスポート/素玄居士提唱 意訳)ぐらい・・貴方の語学力で話してあげてください。

48則ある語録の内の、ただ1則・・自分が【?!?!】と思い、興味・関心を持った・・タッタ1則のZEN MONDOU【?】によって、疑心暗鬼の時間の網の目が氷解してくれればいいのです。

ご自分一人でなさる折々のイス坐禅で、本や他人の教導を受けず、矛盾を突き詰めていってください。何年か・・そうした孤独の坐禅をなされる内に、禅境が深まっていかれたことに気づかれることになるでしょう。

時に、独りイス禅にウンザリして、途中放棄してもかまいません。無理やり、自分が自分に押し付ける、強制的な坐禅はしないことです。いつかまた・・何かのキッカケで、必ず何処かから、独りイス坐禅の「呼ぶ声」が聞こえてきます。

注意すべきは、決して仲間を作ったり、禅の解説本を読んだりして、助けを呼ばない事です。

外国の方は、分析や検証する科学的な能力に優れています。神ですら契約に基づく信仰の、長い歴史をもつ民族です。無価値で評価しようのない「空・無・般若」は「光あれ」と天地創造された神の以前・・の自分とは何か・・を知りたい根源の好奇心の「呼び声」です。

論理では理解できないものですが・・といっても、頭脳は分析し比較し論理的心理学的にナントカ納得しようとします。

欧米にZENを紹介された、鈴木大拙先生といえど、禅への入門の方法を問われれると、「コツン!」とテーブルをノックされて「ここから どうぞ」と言われたそうです。

入門は「無門関」です。どこからでもノックして入れます。

見性(悟り)は、公案タッタの一則透過すればOK・・、俱胝(ぐてい)和尚は「指1本」を生涯、あやつって使い切れず・・雲門さんは「クソカキベラ」とケナシ付け・・趙州さんは「ご飯を食べたら茶碗を洗いなさい」と叱りつけた・・ZEN。本を読むと、少しは解かった気になりますが、実は思考作用だけで、迷うだけ・・独りイス禅が、禅ニヨル生活の基本です。

中国の禅者、大慧宗杲(だいえ しゅうこう1091~1163)は、禅が文字、説話の学習に堕して、実参実修であるべきはずを憂いて、碧巌録を焼き捨てたと云います。

私は、こうした社会にあって、間違いなく「時間」を気にかけない・・それでいて「時間・出来事」の只中にありながら、それを「面白い(楽しい)か、役立つ」かして、不惜身命に社会や人々に貢献している方・・それを「役立たず」まで掘り下げた方・・「禅ニヨル生活」をなしている禅者とします。

あえて一人、禅者をイメージすれば大愚良寛でしょうか。

私は、禅の原点である達磨(面壁)禅から、真っ新(さら)にリセットしなおさないと純禅は絶滅すると考えています。

遠い将来に・・国別、年齢、能力を問わない・・無功徳な「禅による生活」者が誕生することを・・ソレこそ夢見ています。

カクレンボしている・・次世代の禅者に呼びかけたい・・

カクレンボご飯ですよ!』の声かかり。

有(会)難とうございました。