◆元服の書 (看脚下)・・下を向いて歩こう!

元服の書 NO46  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

上を向いて歩こう」・・の歌は ともかくも、今こそ人生=人の生活は蹴躓(けつまづ)かぬように、シッカリと下を向いて歩く事だ・・と思います

1961年、世界的に「スキヤキ」と題してヒットした、坂本九さんの作詞 永六輔・作曲 中村八大「上を向いて歩こう」は、独りポッチの夜・・涙がこぼれないように、泣きながら(上を向いて)歩く名曲です。

私は、この歌が大好きですが・・たったの3分間で良い。イスの坐禅をして数息や公案を拈弄する・・何の効用効果も求めない(認めない)役立たずの「独りポッチ坐禅」を提唱してきました。

禅語録(碧巌録・無門関)の意訳を志す内に、千年昔の禅者達は、政治や戦争など社会の利権騒動に関りを持つことを嫌い、独り山奥に禅庵を結んで暮らし・・去る者は追わず、我が道を行く達磨無功徳=「純禅」=「禅ニヨル生活」があることを確信したからです。

現代、コロナ騒ぎを機として、テレ・ワークや、スマホ社会が主流となりましょう。いわば総ての人が登録され、統制・管理された政治経済、教育により、国家の仕組み(体制)に揺籃されるのです。逆に、街中であつても、独りポッチが容認される時代が到来した・・ともいえる訳です。

この大変革の時、いたずらに、涙がこぼれない様に、上を向いて嘆いていても埒(ラチ)があきません。下手をすれば、蹴躓(けつまづ)いて怪我をするだけです。利権に右往左往する政治や企業、御用教育者・評論家やマスコミに惑わされることがないよう・・蹴躓かないよう用心して・・シッカリ下を向いて歩かなければなりません。禅語「照顧脚下」常に自分の足元を確かめる・・「看脚下」独り、大地に立脚して自分の生活の歩みを続ける・・ことが大事でしょう。

悟り(見性)とは何ですか? 

僧堂の出入り口に吊るしてある・・まるで将棋盤か、碁盤ほどの大きさと厚み(10CM位)のある木板の真ん中を、木槌で叩く合図だけで、お互いの会話など無駄口の一切ない禅の修行生活があります。

その修行僧の寝食の決まり事や暮らしぶりを見て、まるで刑務所の囚人生活みたいだ・・といった人がいました。でも、刑務所との根本的な違いは、禅寺の僧堂(専門道場)は、自主的(個人的)な求道の修行に集まる団体生活の場であることです。

(余談ですが、この木版には、4文字4行の詩・・生死事大 無常迅速 光陰如矢 時不待人・・と書かれていて、その木版の真ん中が、日ごと夜ごとに木槌で叩かれて穴が開きそうになっているのを昔、見たことがあります。これは叩き続けて数十、数百年も経過して、近い内にスッポリ抜けた穴があくのだ・・と云われて、禅を修行する人たちの時間感覚に、ひどく敬意を覚えました)

しかし、現代は、わずか数年の修行をもって、禅寺の跡継ぎ資格を取る人ばかりになりました。叢林(専門道場)が、自動車学校のようになってしまったのです。

厳しい禅修行が、いわば接ぎ木、温室栽培の養成所に成り下がってしまいました。

・・その悟りの「答え?」とやらの「虎の巻」いわゆるカンニングペーパーが、秘かに伝承されているとも言われます

「悟り」の為の坐禅とか、坐禅することが悟りソノモノ・・とか、まるで病気と薬の後先、効能を云うように、禅と坐禅を解説する・・観光拝観禅の時代です。こんな組織的修行の中に、純禅(悟り)があろうはずがありません。

他に比較、評価の基準を求めない、自分だけの・・独りイス坐禅をお奨めします。たったの3分間の、習慣化です。この寂寥の坐禅だけが、安心(アンジン)大覚への道程です。

誰にも言わず月謝は要りません。参考にするのは、この奉魯愚だけ。これも頼りにせず忘れてください。

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心、禅の話

ココニ、求道者の悟り(見性)が、本物?・・かどうか、根掘り葉掘り、師家の点検する様子が描かれている「無字の歌」を全文 紹介しておきます。解読不能でもいいですから、昔の師家・禅者のド迫力に接してみられるとよいでしょう

「無字」の歌  今北洪川鈴木大拙 続禅選集 (株)春秋社刊

箇事 見性開悟の一大事 子細にすべし、ざっとやるまい 踏みすべるぞよ。

法理妙義も会得をせずに、世知にまかせて推察 見解、

老婆(にすい・・鈍感な師家)知識の涎を舐り、これで了悟と重荷をおろし、

無量劫来、生死の種子を、爰ぞ家山(本具の仏心)と真実とめりゃ、

高慢 邪見は それから起こる、恐ろしいぞや 最初の一歩。

 

真箇(まっとうな)修行の学者たち、いっそ やるなら本当に、

台座毫光ぶちぬくほどに、大悟徹底たのみます。

生鉄のうち、炉鞴の数を、千度万度の其上に、

「無字」の調べ(無門関第一則)でよく磨ぎすまし、日用見解 相応に、

実地を踏んで活脱に、見ても玉散る吹毛剣、言詮難透すらすら切れる。

末頼母敷ご修行ぞ。

 

まづ その「無字」の一字関、古人先徳も讃嘆す。

そも趙州は十八歳に破家散宅を会してのち、八十歳まで行脚して、

鍛えに煉ふ手もとから、只「無」と唱え出された、甚深微妙の一言ぞ。

 

死句を知る人多けれど、活句を会する人ぞなき、不伝の妙は活句にござる。

鋳型を知るは みな死句じゃ。いがたを知りて まぎらかす、

人は抜舌犁句(ばつぜつりく)の罪おかし、今に果報が見るうちぞ。

嫡てき相承の妙訣は、容易な看たてでゆきませぬ。

「無字」の透過が一番大事。邪正のちまた分け石ぞ。ここは悪手の宗師に還えす。

 

「無字」を見たなら証拠を見せよ。生死脱得の一句を言え。

僧 佛性を問わざる以前、趙州「無字」を答えぬさきに、おのが見處は如何ぞや。

死んで荼毘した後も見よ。又 頼みます、その無字をちょっとつまんで見せ玉へ。

「無字」の姿も見にゃならん。「無字」の根本根源 見せよ。

「無字」を脱酒(たっしゃ)に使ってみやれ。手軽う自由に使ってみやれ。

「無字」を微細に分けてもみやれ。

又 面白き拶処がござる。「無」と云わずに、何と言う。

無門和尚の二十字も、歴れき分明 読み玉へ。

五祖の偈 初二はやや浅し、三四は深かし、ここでまた、中與禅師の臓腑(ぞうふ)を徹骨徹髄 見て取れよ。

また 有るときは「有」と答ふ。これも大事ぞ、きょろつくな。

業識性の挨拶も、粘着縛着(かかり かっぽ)のないように、知而犯(ちにほん)の答話までも、徹底つくしたそののちに「無字」業識の分かちを見せよ。

遠き隔だても見にゃならん。まだ そのうえに四通りを言い分けて見よ。

これなどは、よほど向上の調らべじゃほどに、易すうは透(い)けぬ胸腹病ぞ。

これら逐一 透過せよ。

 

とかく定裏(坐禅している時と坐禅していない時)の工夫が大事。

定より慧をば選び出し「無字」の真の境涯を我が物にして見せ給え。

「無字」業識の語もすんだ、その のちのちに煉(ね)りたたて「無字」の真の境界の語も十成に置いて見よ。「無字」から業識・「有」字・知犯(ちぼん)、この四通りの真意をも、後語に目出度く置き給へ。

「無字」の調べに枝葉は多い。そのあらましを書きしるす。

まづ これつらの調べがすめば「無字」を見たとも些子(すこし)は云えよ。

慎むべきは最初の一歩、恐るべきは容易の透過。

かかりかっぽの有るうちは「無字」が済んだと決して言うな。

難透 難解(なんげ)過ぎて後、なお重々の嶮処がござる。

残ることなく 皆 透過せよ。これらを「無字」の殿後(しんがり)と名付く。

 

身をば碁石に血の涙。兎門三級の嶮難を苦辛、辛苦で透過した。

焦尾の魚は竜と化す、げにこの事は並々の、人の透過はおぼつかな。

たやすく証明する師家は、手元もさぞかし思ひやる。

末代 澆季(ぎょうき)の世につれて、看板だましもあるものよ。

是が一番 行脚の眼(まなこ)、多衆閙熱(にょうねつ)にきょろつくな。

紫衣や黄衣にだまされな。

真の丈夫の気概を立てて 枯淡、澹泊、孤危、険嶮、古人行脚の模様を守り、油断めさるな諸大徳。仏祖の恩も、師親の恩も一時に報ふ時節が来るぞ。

面白いぞや 同学同士。言わぬが秘密、語(と)かぬが妙道。

以上。

 

◆はたして・・暁の明星を看て大覚された釈尊や、古の禅者たちが梅の香りで大悟したり、掃除中の箒の小石が竹に当って悟りを開いたりした・・天地同根が、コンナ禅室の老師、師家とのやり取りにまで成り下がった修行のあり方に疑問符?を呈します。

ただしハッキリ注意します。日頃・・坐禅をしない者が、ZENを云々できません。10年~20年・・多少、坐禅して何かを得たと自惚れる禅境は、野狐禅ソノモノです。化かされてはなりません。

独りポッチの役立たずな3分間イス禅をしてください。

有(会)難とうございました。

 

◆人は5百年後に評価されてチョウド良い!

元服の書 NO45    

頭脳・優秀な判断より前に、まず「風流」な人間でありたい!(コロナ騒ぎの自宅待機が坐禅のチャンスです)

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

趣味をもつのは大事ですか?

   ・・勉強するのが先ですか?

趣味を持つことは、私の人生において・・仕事を持つとか、結婚するとか、学問をするとか・・より、以前に一番大事な事だと思います。

もし死ぬ時が来たら、棺桶の中に何を入れておきたいか・・損得、利害抜きに、出来るだけ独りで行う・・あの世にまで持っていきたいもの・・を「趣味」だと定義しておきます。

千年前に書かれた禅語録(1冊の本)であれ、チヌ釣り(落とし込みの)竿であれ・・これは私の場合ですが・・あの世でもやりたい(やり続けたい)ことです。

最近、腰が痛くて、机に座って語録を読み解く楽しみが出来なくて もっぱら寝読・・ソノママ寝禅・・ソノママ睡眠に、たちまち移行することが多くなりました。釣り竿はホコリをかぶっています。もともとフナ釣りの方と同じく、釣り(の行為)が楽しく、魚とゲームしてもらっての・・釣果(リリース)ZEROでも「チヌ(黒鯛)サン・・有(会)難とうございました」なのです。

昔、直木賞作家の義一ツァンに、何が趣味か聞いたところ「書くことだ」と簡単に云われて、作家のド根性が解りました。お昼ごろから夕方まで、数時間、ネジリ鉢巻きの空手(柔道?)🥋姿で、唸りながら原稿用紙に向かい書いている姿を見かけました。夕方から夜は、11PM(TV)関西版の出演。終わればZOOと名付けたBARで明け方まで仲間と語らい・・帰ってホンの数時間の眠りです。呆れたり驚いたり。その頃、私は広告代理店のコピーライターでした。

動植物には、自分の身を守り、将来、同族同種の繁栄を担保するための「保護本能」があります。この神経回路が発達して人類の頭脳にまで進化したと思いますが、その判断の元に「好奇心」があるのでしょう。

これを「趣味」と言い換えても間違いではないと思います。

自分とは何か?神とは何か?

何のために生き、そして死ぬのか?・・

引いては「禅」とは何か?

坐禅をしたらどうなるのか?

「悟り」とは何か?

いろいろな疑問や、簡単に解決しない悩み事も、私は・・その根源の出どこは「好奇心」であると考えます。この「好奇心」だけは、自利・他利の欲得を区別できない、極論すれば、全知全能の神が、アダムとイヴにリンゴを与えた「ココロ=好奇心」でないか・・と思っています。

私が棺桶に入れて、あの世に持っていきたい「趣味」は、キット他の人が何だと呆れ果てる価値なき釣り竿です。そして、漢文の達磨「無功徳」の禅語録です。

役立たずの3分間 独りイス坐禅も、風流な「趣味」として・・ソノママあと片付けしてもよいでしょう。

アナタにお薦めします。

自分とは何か?の問いが、ココロに湧いたら誰かの教導を受けたり、学問をする前に、価値なき「独りイス禅」を3分間だけ「趣味」として(出来るものなら)やってごらんなさい。

たったの3分間すら「好奇心」を持続できない自分に気づかれるはずです。

「頭脳」(思考判断)より前に「人間」であってください。

                  有(会)難とうございました。

◆追記・・現在のコロナ・ウイルス騒ぎ・・マスコミに迎合する評論家や報道機関、御用学者と医学者の発言は、一応、疑うことが大事でしょう。

私は、今ですら、マスクひとつ普及できる体制にない安倍政権や、NHKの報道が、決して庶民の苦しみを代表するものではなく、公務員や議員や大手企業を優先する行政のなせる行為であると思っています。

事由;安倍首相は、懸案の拉致問題・ロシア4島返還・韓国竹島、中国尖閣諸島問題、モリカケからサクラ、アベノミクスまで、何一つ、解決のキザシすら為せず、加えてリーマンショック以上の不況下にあって、消費税UPを差し戻しできないうえに、オリンピックまでグズグズして延期の決断を遅らせた・・何もできない何もやらない、口先だけの政権だからです(都知事も同罪)。令和の天皇交代は、誰が政権でも出来ることです。次の選挙では、一人独り、慎重に勘案、吟味して、政治(議員)を変えてゆきましょう。

人の為したことの評価は、5百年後にされて、チョウド良いと思います。

私は、今、ここで自分が出来ることを、コツコツやっていくこと・・それが大切だと思います。

【注】コロナウイルスに関しては・・科学者、武田邦彦先生のブログをご覧になることをお奨めします。大変、公正な、バランスの取れたご意見を述べておられます。http://takedanet.com/

 

 

どうしてコンナに禅の解説本があるのですか?

元服の書 NO44  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

数息観と公案・提唱について教えて下さい

坐禅の仕方は、どうすればよいのか・・その時の呼吸法は?・・公案の意味は・・よく寺門(般若林や道場)の看板に「提唱」と書いてありますが、どんなことをするのか教えてください・・など、いろんな方の質問に、まとめてお答えします。

◆ある日ある時、釈尊(ゴーダマ・シッダルダ)は、仏陀ブッダ・大覚者・悟者の意)の教え(仏教)を説かれておられた。

そして野辺の花一輪を手にしてクルクルと回された。

傍らの求道者たちは、その行為に意味を見出せず、ただ見守るだけだった。その中で迦葉(かしょう)という者だけが、独り顔をほころばせ微笑した。釈尊は・・文字にも言葉にもできない、覚者の教説(仏教)以外の・・このこと(拈華微笑)を、お前さん(迦葉尊者)に預け託します・・と云われた。

釈尊が、菩提樹下、明星を看て大覚された・・ZEN(禅)の幕開け・・世尊拈華(せそんねんげ・拈華微笑・無門関第六則)・・悟りソノモノを示された行為です。

禅は一人独りに備わっている「拈華」を、独り一人が「微笑」する自覚と、その生活行動です。ですから、沢山の人々の、それぞれの煩悩に応じて、菩提が発生するのです。どうせ他人が文字言葉で説明することは、あてにはできません。マア、自分の一大事だけ、坐禅・集中されるのが良いでしょう。難しい文言や哲学的表現(効能書き)に引っかかってはなりません。自分の心の底から湧いてくる【?】だけに、本当の答えがあります。

提唱とは・・後の禅者達が体得した独り一人の禅境(地)をまとめた・・坐禅(悟り)の道筋を示す(禅)語録を、ナントカ羅針盤らしんばん)に見立てる説明(解説)をすることです。

大事なのは、北を示すコンパスそのものを、ZEN(禅)だと思い込む・・思考の愚かしさに迷ってはなりません。北極・南極・・極点に向かう方角さえわかれば、あとは、独りポッチで極点に向かって歩くだけです。道案内の道具立て(提唱)や教導者など役立ちませんので要りません。人は・・一人で生まれ、ひとりで生き、独りで死ぬだけなのです。

私の母が2日前、103才で亡くなりました。積年・・妹が、老々看護で看とりました。宗教的に云えば・・タブン・・彼岸の中日、亡父が家まで迎えに来てくれたのでしょう・・眠るが如くというより、眠るままに大往生しました。南無阿弥陀仏

いろいろな方のお蔭で、生かされている自分(人間)ではありますが、つまるところ「独りポッチ」です。この寂寥に満ちた「禅による生活」・・が極点である・・と見極めがつけば、私に東西南北を示す地図やコンパスは、もう必要がありません。

その究極の目的地「禅ニヨル生活」を目指して、歩む「行為」が「坐(行)禅」です。

 禅についての沢山の解説本は、集約すれば、釈尊のたった1本の花クリクリで済む話です。

ですから・・禅は、宗教ではありません。

「仏教と無関係に流傳すべきとものと思う」と、素玄居士(提唱無門関・・はてなブログ 禅のパスポート 絶版復刻中)で、断言されておられます。

その心の整え方(数息観)について・・

私は、独りポッチ3分間イス坐禅をお奨めしています。

たったの3分間、周囲に、知り合い(近親者や友人、知人)のいない時・・椅子に坐って、姿勢を正し、眼を半眼にして、一呼吸、約10秒程度、静かな腹式呼吸で6回、ヒトーツ・・フターツ~イツーツ・・ムーツ」と数息して6数息×3度=18回(180秒ほどで)約3分間です。

独りポッチで、この呼吸を数える坐禅の仕方が、一番、妄想とか、雑念が発生しない方法です。出入息観とか出息観、隋息観とか、坐禅の結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)、歩行禅とか公案禅とか、寺僧の跡継ぎ(養成所)のような専門道場の伝統的形式、作法など、一般人が学ぶ必要はサラサラないと考えます。寝ていようが(寝禅)電車のつり革につかまっていようが(つり革禅)トイレに座ろうが(トイレ禅)、仕事や勉強の休憩中だろうが(休憩禅)・・折々に気づいて3分坐禅できれば、いずれにせよ、まず初関、見性は必ず自覚できます。

かといって、坐禅の時の手の構え(印)は・・とか、途中、数息を間違ったらどうしようとか・・電話が鳴ったらどうする・・とか、お寺で教導してもらったらいくらかかる・・とか、役立たずの坐禅を行うのに、気を遣う習い性こそ よくありません。坐禅にとって厄介なのは、学問知識、PC、スマホをあやつって、誰か、禅者が云っていた「思考は頭の分泌物」・・鼻先に「クソ」つけて屁元をさがす、知能指数だけが高い人たち・・赤信号、ミンナで渡れば怖くない団体さんの人たちです。

決して仲間を作らず、独りポッチで、たったの3分間・・効用効果を期待しないイス坐禅を、やりたい時、無理をせず、実行してください。

寝禅して本当に寝てしまった・・とか、イス禅で両手をどのようにするとよいか・・ソレこそ寝ている時の手はどうされていますか・・こちらが聞きたいぐらいです。

独り3分間イス坐禅が・・造作なく出来るようになるには、2~30年かかると思います。こんな年月も数えるのは初歩のこと。難しく言いますと、達磨面壁禅・無功徳坐禅・・役立たず坐禅・・数息観坐禅を・・たったの3分間・・造作せずに、無心・気楽にやってごらんなさい。

欧米人はナオサラです。私に「父母がある!」と云いますが・・彼らは「父母を持つ!という・・利己的分別の国語の民簇です。「香を聴く」ことなど、概念としてナカナカ受け入れることが出来ない民族です。般若心経の「色即是空」や「空不異色」など、素直に納得できる頭脳構造ではありません。それだからこそ科学発達(の重力発見や相対性理論)は欧米人が得意なのか・・と思ったりします。

それでも中性子の発見理論は湯川秀樹博士だし、これからの量子世界の振る舞いは、日本人が先進、得意(特異)分野になるのかもしれません。

公案・語録は中国の禅者達の問答、禅機・禅境(地)・・「禅ニヨル生活」の一コマが端的に描かれています・・

求道者の問いは、論理的で哲学的でよくわかりますが、それに応答する禅者の言動は、理論的に説明できません。

言葉や文字で説明できない「禅」を、ギリギリの絞り切ったネクターにした言動が端的に描かれているのです。

もし理解した(悟りに到った)といって・・説明した人がいたら100%、完全に間違いです。野狐禅といいます。

日頃の生活の中に、数息の呼吸法が、何の疑義もなく自然に身について(坐禅が)出来るようになると・・公案(禅語録)の禅者(主人公)の振る舞いが、メガネをかけたように、明確にわかるようになってきます。何かコダワリや禅者の言動に引っかかりがあれば、まだピントの合ったメガネではありません。やがて・・突然・・眼鏡もピントもなくなり、こだわりが融け去ります。

自覚します。これを悟るとか・・見性とか言います。

この見性の境地は、牛に例えた「十牛図」で言えば3番目・・探していた牛を発見した段階にすぎません。

見えなかった牛が見えただけでも大したもんだ・・とは云いません。やはり、見ただけで何の役にもたたないのですから。

しかし、役立たずの数息、独りイス坐禅を長年続けていると、スマホ依存の、チャラチャラした人が幽霊歩きをしている様子や、自分に言い訳ばかりして、正直でない、フワフワした落ち着きのない行動をとる人が沢山いることに気づきます。

「禅」は安心を求める人、総てに備わっている「自己発見」の旅です。坐禅という、役立たず(無価値な)独りだけのテクテク歩きです。

あわてず・・焦らず・・一人旅をなさってください。お大事に。

                   有(会)難とうごさいました。

坐禅は、一人独りに備わっている「心の免疫」である!

禅とは?・・シリーズ     

  元服の書 NO40   やさしい坐禅の仕方⑷

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

息(呼吸・坐禅)は・・心の免疫づくり

赤チャンが誕生する時、力の限り泣きます。誰から教わったのでもない、この世に生まれて、初めて息をするのに産声をあげるのです。 

赤ちゃんが生きる第一の働きは、息(呼吸)をしたこと・・息(イキ)は「生きる」という「自(おの)ずから心を」生(しょう)ずる・・と書きます。誰もが、当たり前にやっている息が、坐禅の一番、大事な出来事なのです。

坐禅は、まず・・息を数え、息と姿勢を整え、眠らぬよう目を半眼にして行います。昔は、数息(息を数える/呼吸)を何万回と数えたり、南無阿弥陀仏と口の中で祈念したり、ヨガの姿勢にしたり、滝に打たれたり、いわゆる集中する修行を集団でしたのですが、無心とか三昧とか、・・ナカナカ人工的な難行苦行は成功しません。

現代でも寺僧の跡継ぎを養成する専門道場が、トマトや苺の温室栽培もどきに、形式重視の坐禅研修をして住職の資格を与えています。

佛教を生業にする僧籍でない一般人は、自宅や仕事・職場、学校の合間に独りで行う・・リラックスした正当な坐禅をなさってください。

「禅」を建物とすれば、チャント「玄関」=数息・・呼吸から入るのです。

*玄関・・禅語・・最初の関所・・入口の意。

知識や迷いや欲望など、身に着けた思惑、造作を忘れ、捨て去る時・・最後に残るのは「呼吸」と「心臓」の働きです。

思考を思考することの出来ない人間が「天地同根」を大覚できるのは・・?

頭脳(思考・感性)は、本能から発達した「言葉や文字」によって思考しています。つまり、産まれた時からの、母親や兄弟や学校などの教育と社会環境で学んだことを、比較し分別して、わが身の利害、損得に利用、判断している訳です。

では、自分と他者を区別する「免疫」のメカニズムはどうなっているのでしょうか。自他を分別するには、自他共通の土台がないと区分できないはずですが、何を自己とし、何を異物として認識するのでしょうか。それにアトピー性皮膚炎とか花粉症は、自己免疫の過剰反応だといわれますが、どうしてソンナ間違いが起こるのでしょうか。

不思議です。

*この免疫の考察は、医学者や生物学などの学者、先生にお任せします。

私は、身体と同様、精神(心)にも「免疫作用」があると思っています。

これを、心(霊性)の免疫と呼びますが、それぞれの人が、一人独り、自己参究する・・坐禅の数息(呼吸)から始まり、分析、区分できない矛盾の公案から・・突然、頓悟(飛躍)・・見性/自己同一/透徹・・の自覚(境地)にいたる・・それでいて、ハッキリ、普段の生活を大慈にしながら・・禅ニヨル生活を、淡々と営んでゆく・・そんな境地を、悟りと言い、この心の免疫を体験(体得)した悟者を禅者というのである・・と思うのです。

つまり頭脳の神経回路が、普段の思考回路とは別に、公案を拈弄するうちに直観(霊性)的な共感回路として創られ、結成するのでないか・・文字を書けなかった米つき恵能が、突如 頌(悟りの詩)の代筆を頼んだり、梅の香りで大覚したり、竹に石の当るカチンと云う音で見性したりする禅者の・・大悟する状態は釈尊以来、独りごとに さまざまで不思議な魅力を持っています。

禅を海外に紹介された、故・鈴木大拙先生(仏教学者・禅者)は、白隠慧鶴の「毒語注心経」・・般若心経の毒舌的解説の書・・の不生不滅の項の一節・・手臂不向外曲(手臂 外に向かって曲がらず)の一語で悟られた・・と、大森曹玄著(株)春秋社発行にあります。

手首やヒジは、内に曲がっても、海のタコではあるまいし、外側には曲がりません。この当たり前の、誰でもわかっている「不自由な自由」の事実に、どうして禅機(悟り)がヒラメキ・・一瞬の内に「天地同根・真空妙用」が体観できたのでしょうか。

後年・・アメリカで「ZEN」に入門するには、どうしたらよいのか・・の問いに、哲学的仏教的解説を加えられることなく、サラリと・・机をコツンと叩かれて「ココからどうぞ」と答えられたそうです。どうして、コンナ音一つでZENにわが身が投入され、公案が透化されるのでしょうか。

不思議です。この悟りの実態を、もっと脳内革命として研究する禅学者が出てきてほしいものです。

禅を「心の免疫」というのは、身体の免疫(細胞)が、他と自己とを、どんな仕組みで判断、区別してしまうのか・・極めて単純、自由闊達な答えがあると思うのです。それには・・理屈や造作抜きに、無功徳の達磨禅・・役立たずの数息イス坐禅を、独り行なうこと・・分別・意識・好嫌・感情や自利他利の損得が及ばない・・ココロのTPO状態でのみ、禅機・発見・悟りといわれる「心の免疫作用」が機能機作する・・と今のところ思っています。

心の免疫は、体の自己免疫同様、独り一人に備わる無功徳な働きですから、頭脳(の認識)に関与しない・・数息坐禅の実行で体得してください。

よくわからない免疫のことを、禅の場合に当てはめてみました。

有(会)難うございました。 

坐禅の仕方(3)◆この話・・独りイス坐禅に最適な公案です!

元服の書 NO㊴

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

      禅のパスポート 素玄居士提唱 無門関NO29 復刻・意訳    

    非風非幡(ひふう ひはん)第二十九則 

     【本則】六祖 ちなみに・・風、刹幡(せつぱん)を颺(あ)ぐ、

         二僧あり、対論す。一(ひと)りは云く「幡(はた) 動く」と。 

         一りは云く「風 動く」と。往復して かって理に契(かな)わず。

         祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、

         仁者(じんしゃ)が心 動くと。

         二僧 悚然(しょうぜん)たり。

【本則】素玄居士 提唱

幡(はた)の動くのは、お前さんたちの心が動くのだ・・とは頗(すこぶ)る禅的だ。遉(さすが)に六祖じゃ。

大庾嶺(だいゆれい)の大将が、世の難を避けていたが、禅、興隆の時に臨(のぞ)み、山から下りた際の話である。

禪ではモノに即することなく、心は又その大敵じゃ。

風幡(ふうはん)に即せざるも、心が残っているから心で風も幡も動かしている、心に眼をつけて眼の敵(かたき)にするのじゃ。

肚(はら)がドッシリと坐っていると心奴(め)動き出ぬ。

心がヒッ込んでいると禅機、活発じゃ。撃石火(げきせきか)閃電光(せんでんこう)の活作略(かつさりゃく)をする。

ここが禅の生々たる流露(りゅうろ)じゃ。

素玄云く 帝銀事件で予審判事と検事とが互いに不事実を強調している。言の長き事六尺、語軽きこと三斤。

【無門曰く】(この・・無門曰くと、頌に曰く・・は意訳です)

風や幡や心に絡みつかれては、祖師(禅)は見えてこない。

では恵能の真意をどこでみるか。もしも、その真意を、はっきりと見るならば、二人の求道者は「鉄」を買って、それが「純金」だったことで、大儲けしたことになる。

六祖恵能は大変 苦労なさった方なので、ツイツイ本音を漏らして禅の大事を安売りしてしまった。

   【無門曰く】是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くに非ず、是れ心の動くに非ず。

         何のところにか祖師を見ん。

         もし、この者裏(しゃり)に向かって見得して親切ならば、

         まさに知る、二僧、鉄を買うて金を得たり。

         祖師は忍俊不禁(にんしゅんふきん)、

         一場(いちじょう)の漏逗(ろうとう)なることを。

【頌に曰く】風も幡も心も、全部、たった一つの判決文で、決済をすましてしまう。言葉や文字を追っかけていては、総てが虚妄で災いのもとになる。心が動くと言えば落語のオチとなるぞ。

  【頌に曰く】風幡心動(ふうぱんしんどう)一状に領過(りょうか)す。

        ただ口を開くことを知って、話堕(わだ)することを覚えず。

【附記】帝銀事件・・1948年1月、東京都豊島区の帝国銀行、椎名町支店に顕われた男が、伝染病予防のためと言って青酸カリ溶液を飲ませ12名を毒殺。現金を奪った事件。犯人とされた平沢貞道は犯行を否認、1955年死刑確定。再審請求がなされて刑の執行がなされないまま1987年、95才獄死した。

坐禅で数息が出来てくると、素玄居士の提唱が少し見えてきます。提唱と云うのは、自分なりの見解(けんげ)がシッカリあって、生き方に迷いがない禅者の語りです。坐禅は息(呼吸)が大事で、数息することが一番、禅にふさわしいと思います。

数息の坐禅が身につくと、次第にどんな生活行動でも、自然と数息(呼吸)をしている自分が、自覚できるようになってきます。姿勢正しく、静かに物事に対応できるのです。

ただ、これは坐禅ではないし、当然、禅(ニヨル生活)でもありません。

自分の、どこから湧いてくるのか・・解かりませんが「坐禅」や「禅」によって不安な気持ちを解消したい・・とか、禅語録に登場する禅者の言動が、どこか生死を超えた、超然としたものを感じて、ナントカ理解、納得したいとか・・

こうした思いが募ってくるのが、人であると思います。その時の気持ちは、本や知識や、教導されることの煩わしさ・・誰にも相談したくない「孤独」や「寂寥」に包まれているのです。

さて・・ココから、禅語録の「公案」・・の、どの則の話題か・・数息坐禅をする人、それぞれを、ニッチもサッチもいかないようにしてしまう、不思議な搦め取られる「禅者の一語」が誕生してきます。

寺僧の専門道場では、老師・師家に相見して、公案・・例えば「隻手音声」とか・・「趙州無字」とか・・禅語の一節を、厳そかに与えられました。

私は、この僧堂の修行、密室の参事のあり方こそ、禅を衰退させた元凶であると確信しているので賛成できません。

ある程度、独りイス坐禅で、数息できるようになったら、次に、自分の関心がある禅語の一語を、独り坐禅で拈弄(ねんろう)なさるよう・・拈弄とは、理解不明な「禅者の一語」を、数息のように・・数息の代わりにして、溶(解・説)けない飴玉を、口の中でグルグル溶かし切るまで、嘗め回す状態をいいます。

公案は、どの則であれ解読不能です。哲学者であれ、宗教家であれ、神様、佛様、ノーベル受賞者・・誰であれ・・論理や分析、思考、意識、造作、判断、因果、結果・・経典・文字、説明・・一切キリ・・ソレこそ、なんの役にも立たない価値なき・・

「ZEN」が、禅者の行動で簡潔に書かれています。

いわゆる「悟り・見性・透化・大覚」とかは、坐禅公案を拈弄する・・それぞれの人が、霊性というか、直観というか・・それぞれの禅機(ヒョッとしたTPO)で、決して心理学的なものではなく、突然、体験(頓悟)するものです。

悟りを青い鳥のように追及したり、銀河帝国のフォース、ヨーダのように思いこんだりしてはなりません。

この則に登場する恵能は、山猿と蔑(さげす)まれる土地の出身であり、文字をかけない米つき行者でした。求道者として寺に入っても、長い間、米つき・・手作業の脱穀ばかり・・人に悟境の詩(頌)を書いてもらわないと、自分の気持ちを訴求することすらできない有り様でした。それでも、独り一人に禅がある。独り、ヒタスラの米つきが彼の「坐禅」だったのです。

昔は、中国や日本でも、求道者は達道の禅者を求めて行脚しました。師とするに足る禅者かどうか・・禅語録をひも解いて、問答して師の見識を査定したのです。そして、的確に求道者を見抜いて、垂示してくれる禅者に就いて、その「禅ニヨル生活」を学んだのです。(先生が生徒に試験されていた)

師も弟子も、それぞれ自給自足。アバラ小屋(禅庵)の周辺に、てんでバラバラに野宿して、師の挙動から禅を体得しようと努力したのです。原の白隠など、腐った味噌を農家から貰ってきて、具のない味噌汁に仕立てたところ、碗の中から、ゾロゾロ、ウジ虫が湧いて来るので、それを箸で一匹づつとって逃がしてやってから汁を飲んだ・・という逸話があります。また、ある求道者は、托鉢に出た時、悪ガキに鉢の中に馬糞を入れられ、これとて有難き施こしであるとして食して死んだといいます。

この公案の拈弄にいたる方は、少なくとも、私の意訳しつつある「禅者の一語・碧巌録」や「禅のパスポート・無門関」など、おりに読みこなされていると思います。

禅者の効能書きは、あまり語りたくありません。

数息が出来るようになられたら、お気に入りの公案、気がかりな公案のどれかを、ご自由に「拈弄」してください。

坐禅は、一人独りが行うものです。

禅は(昔は寺僧の揺籃を得ましたが)宗教・哲学・心理学ではありません。

はてなブログ「禅のパスポート」無門関・・ご覧ください。

はてなブログ「禅者の一語」碧巌録は・・この素玄居士提唱「無門関」復刻・意訳より、初心の方には取り付きやすいと思います。数息坐禅から、公案拈弄に入って・・坐禅する時、自己の禅境(地)をかえりみる一助となさってください。

(注)この素玄居士提唱「無門関」は、不許転載です。禅は宗教に非ず・・と喝破された方ですから、とりわけ寺僧の教導・教材になさらないでください。 

 

坐禅で大事なことは何ですか?

禅とは?・・シリーズ」やさしい坐禅の仕方⑵ 元服の書NO㊳

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

坐禅で一番大事なことは息の仕方ですか?

それとも坐り方ですか?

公案を拈弄(ねんろう)することですか?

何が大事・・と問われれば、呼吸です。

     ただ独り(イス)に坐って、ただ息をすることです。

        これを役立たず(無功徳の達磨)坐禅といいます。

お寺の坊さんになる修行なら ともかくも、現代の青少年に、坐禅の坐り方・・結跏趺坐(けっかふざ)とか半跏趺坐(はんかふざ)とか・・をさせて、イヤになって止めてしまう例があります。アメリカの青年が禅寺にきて坐禅した。

それが・・わずか数分で「足が死んだ」と叫んで道場を飛び出し、戻って来ませんでした。

まったく愚かな教導です。

足の組み方が間違っていたにしても、イス禅や寝禅したりしても、全部・・坐禅の内です。

むしろ問題なのは、坐禅や瞑想は本などを参考にして、自分一人でできるのに、わざわざ知人・友人を誘ったり、何か資格や免許のあるかのような仕組みの・・教導を求めたり、指導料をとったり、取られたりすることを、当然とする習慣が良くないと思います。

坐禅や瞑想で、迷いや不安感がなくなり、集中できて時間を忘れた・・と言われるかもしれませんが、三昧(ざんまい)の境地など、別段、誰から教えられなくとも、面白い(楽しい)事や、何か役に立つ事をしている時は、誰でもソンナ心境になることができます。

職人の仕事や茶華道などの芸事に限らず、アスリートや、幼児のママゴト遊び・・パチンコ、賭博だって三昧の境地に入って出来るのです。

 

坐禅や瞑想は、もともと三千年前から、インドが発祥の地です。

要は「独りで呼吸を整える」事が大事です。

また、息という字は「自(おの)ずから」の「心」と書きます。おのずから・・とは、貴方自身が、計らいや造作しない、妄想のない状況です。終日働いていようが、遊ぼうが、坐禅・瞑想しようが、寝ていようが、自然(じねんと呼びます)のままに「数息(呼吸を数える)」が生(な)されれば・・道を求める者、まず初め、形を忘(わ)する・・の境地でしょう。

ありていに言えば、心臓や呼吸が、頼みもしないのに勝手に動いている・・このことに、誰かの教導がナンデ要(い)るのでしょうか?

まるで「青信号!皆で渡れば怖くない?」

心的自己免疫過敏症と言うべき出来事です。

 

私は、眼を閉じる「瞑想」をすると、かえって妄想したり、眠くなるので、眼を半眼にしての独りポッチのイス坐禅をお奨めしています。息は1呼吸10秒程度「ひト~ツ・ふタ~ツ・・むぅ~ツ」・・と数え、計3回繰り返す。合計18回、約3分間ポッチの数息(スウソク観)でOKです。これを寝る時、起きる時、トイレの時、電車や信号待ちの時、働く前の時、授業の前や、スポーツの前、休憩時間ETC・・おりおり気づいた時にやってごらんなさい。

3分間独りポッチのイス坐禅は、やらねばならぬ・・とやっては長く続きません。

フト・・「あ、そうだ」と気づいた時に無理せず行うので充分です。

貴方の心が「あ、そうだ」と気づく・・

これが大事な「禅」への入り口(玄関)です。

玄関・・禅語・・初めの関所の意。他、普請、作務、造作・・など禅語。

何べんも何べんも、何の効果効能がなくとも、気づいたら、すぐにしてみることです。

3分間・独りの場・数息坐禅のTPOを弁(わきま)えましょう。

【附記】熱帯のインドで発生した坐禅(瞑想)は、涼しい木陰の大地、石上に、独り坐って「静慮」しました。

釈尊は六年にわたる入山。苦行してやせ細り・・ヨウヨウに下山。スジャータの山羊乳(施こし)を受けました。そして菩提樹下、体調を整えなおして、安らかに坐禅され・・明星の輝きをご覧になって大覚(見性・悟り)したのです。

心体ともども(コンデション)が、ベストでないと、正観できないとされたのです。また、赤道直下、日夜ともに暖かかければこそ、大地に直に独りが坐す・・坐禅が出来た訳です。

日本のように雪が降る国で「足が死ぬ」ような・・我慢大会の修行は、坊さん養成道場に任せて、関わらぬようにしましよう。

坐禅は文字通り・・人が土の上に、バラバラ(独り)に坐る姿です。屋根のある土間に座る「座禅」・・新聞や本で紹介される「座」の字は、本来の坐禅にふさわしくありませんので、私は採用しません。

もともと・・坐禅も瞑想も、三千年ぐらい前(仏教以前)に、数字「ゼロ」を発明した熱帯のインドで行われた整体静心の方法でした。

釈尊は、大悟の後、仏教(悟者/覚者の教え)を行脚、布教されましたが、禅については教外別伝(不立文字)として、独り・・迦葉尊者に付託されたのです。文字でも言葉でも表現、解説できない「ZEN」は、海路、ダルマによって中国にもたらされました。

(一説に彼は仏教宗団の誰かに毒殺されたといいます)

中国の禅者たちは、はじめ剃髪もせず、道者と呼ばれて、世の為、人の為、働いておりました。禅には「作務(さむ)」・・住む寺を普請(土木工事)したり、農耕、牧畜したり、生活手段(生業ナリワイ)として働いた・・ことが特筆されます。共産主義の「働かざる者、食うべからず」ではなく「一日、作(な)さざれば、一日食らわず」百丈懐海(720~814)の如く、自主的に、働かないのなら食べないおこう・・とする労働の尊さを大事としたのです。

その後、日本に伝播した禅宗は、すっかり宗教、教団に取り込まれて、今は観光禅に落ちぶれてしまいました。釈尊、迦葉~達磨~以来、一休、良寛など、ひとり独りの坐禅をもって発露したZENが、寺僧の生業と化してしまったのです。

現代は、商いや仕事をしながら、宗教に関与しない禅を求めること・・独り坐禅をすること。

これからのAI・・電磁的社会では、働く独り一人がバランスのとれた心体ともに免疫力を持つことが大事でしょう。体の免疫のことは学者の先生にお任せすることにして、心の免疫は「無功徳(役立たない)達磨禅」・・独り坐禅が担当することになる・・と思います。

               有(会)難とうございました。

 

元服の書㊲ 子供に坐禅を教えたいのですが・・

小学の子に「坐禅」をさせたいのですが・・ 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・問いに答えて書いています

まず、お母さんに対して厳しく言いますが・・無理です。

母親のワガママな願いを、子供に押し付けてはなりません。

お子さんが、おいくつなのか・・ワカリマセンが・・スマホやTV、ゲーム、PCではなく・・面白く関心を持つ遊びやスポーツなどさせて、一心に打ち込む姿を見守ってあげてください。

坐禅にせよ、瞑想にせよ・・基本は眼を半眼にしているか、閉じているか・・の違いですけれど・・私の友人知人100人の内、僅か3分間ポッチの独り坐禅を、10年間・・続けることができた人は・・1人か2人・・いるかどうか疑問です。ナカナカ簡単なようで難しいのです(息するのは どなたも気にしてませんが、意識すると、トタンに苦しくなります)

とりわけ欣求宗教ではない禅・・無功徳(役立たずの達磨)禅は、寂寥(せきりょう・孤独)を感じる人でなければ続けられません。

貴女が瞑想(坐禅)を、どれだけの深まり(禪境)で体験されているか知りません。けれども母親だからといって、どんな出来事でも、我が子まで道ずれにしてはなりません。

時に・・子に学び、教えられることが多くなった今は電磁的競争社会です。

例えば、幼児のママゴト遊び・・夢中で遊びます。夫役の男の子は、妻役の女の子ほど、アドリブの効いたセリフと仕草はできません(社会に出て働く男のイメ―ジが湧きにくいのです)。

妻役は、日頃の実際の家庭での生活を真似て、ママゴトと同じような生活を演じているか、または、かくありたい・・とする想いがそのままに、自由にイキイキと表情されている様子です。

 

映画やCM制作者や出演者の間で「子供(ジャリ)と犬猫には勝てない」とよく言われます。動物や子供たちの演技は、素直でアリノママ・・表現ではなく、心(情)が自然と表にでてくるものだから【表情】に引き付けられ、注目されるのです。

この純真な生活行動・・こそ、現代の大人たちが「表現・造作」ばかり作為的にすることで見失ってしまった【人間らしさ】でしょう。

 

最近 見かけなくなった・・公園のカクレンボで・・「ご飯ですよ」・・と母親が呼びかける風景・・ご飯を犠牲にしてまで遊びたい・・そんな遊び心を・・私たちは、何時、何処で消滅させてしまったのでしょうか。

 

今年は、2度目の日本でのオリンピックの開催です。

若い・・といっても、まだ少年少女としか言えないような子供が天才的な特訓、教導を受けて、脚光を浴びる時代です。

ソンナ優勝とか・・金メダルとか・・勝て!負けてはならぬ!の大人の競争、比較検証の社会を、進歩とか未来社会とか言ってソソノカスのは いったい誰なのか・・教えてほしいと思います。               

 

いや・・それよりも・・価値がありますとか、金や権力が得られますとか・・アナタは「何のために生きるのですか」とか・・お為ごかしに宣伝利用されるのはゴメンです。

 

千年前の白拍子の歌謡に・・【遊びをせんとや生まれけむ・・戯(たわ)ぶれせんとや生まれけん。遊ぶ子供の声聞けば、わが身さえこそ、動(ゆ)るがるれ】

梁塵秘抄」リョウジンヒショウ(1180年頃、平安末期の今様)

「人は遊びたいから生まれてきたのだ」とする興趣の湧く處・・千年前・・夢であった「遊び社会・・他の人が楽しく・・役立つように働ける社会」の実現こそ 行政に限らず、私達(独り一人)が 努力していくことだと思います。

しつけは大事ですが、親子もろとも、モットもっと、おおらかに暮らせる社会でありたいと願っています。

話が横道にそれました。(大事なことですから次回に繋ぎます)

独りイス坐禅は、余分なことを思わず、いつの間にか、数息(観)を忘れて(スウソクの)呼吸をしている・・仕事や勉強中とか、通勤中とか・・生活の中で、そんな【息する・・字は・・自然に心が・・落ち着くと書きます・・そんな呼吸の】状況に進化(シンクロ)なされるように・・。

有(会)難とうございました。