父(白鷗居士)の話

禅・羅漢と真珠   

Q坐禅する・・日頃の生活は、どうしていますか。

Q;禅者の食事は和食ですか?

肉や寿司、魚は食べますか?それとも菜食主義ですか?

Q:独りポッチ禅は、目を半眼にすること・・だそうですが、

なぜ瞑想を薦めないのですか?

Aお答えする前に、「禅者」とはどんな人を指すのか・・書いておきます。

まず、坐禅をする暮らしの中で・・自分とは何か・・人生とは何か・・禅(本来の面目)とは何か・・大覚(悟り)見性して「禅による生活」を行う人を言います。

仏陀(悟りたる者・・釈尊)の教え・・今から約二千五百年前、ゴーダマ・シッダルダという釈迦族の王子が、ガンジス河畔の菩提樹下、体調を整えられて、独り、坐禅を組まれ、暁の明星を見て大悟。以後・・坐禅して大覚(見性、透化)する人のことを「禅者」といいます。

釈尊は、後に、悩み多い大衆の為に、縁起・無常を説かれ全国を行脚して布教されたのが、「仏教」の始まりです。

*経典、教団は、釈尊が亡くなられて500年後位に、組織化され,編纂されました。

「禅」は、初め・・仏教のもと(宗・元・玄・素・源)という意味で禅宗といわれました。現代の欣求宗教的な団体、寺僧組織の事ではありません。また、寺僧以外の、一般大衆が求道、坐禅して悟りに到った人を「居士(こじ)・禅子(ぜんす)」と言い、総じて「禅者」と称します。

この寺僧以外の民間人で達道の禅者の身近な事例をあげましょう

私の父、加納白鷗(1914~2007)は、おそらく居士として、日本で最後の人であつた・・と思っています。

書や作陶、禅境画を芸業・ナリワイにした、富山、氷見の魚問屋の出身です。

この日頃の生活を書いて質問に答えます。

なんでも、小さい頃から病弱で、仕事の跡継ぎには向かぬ。

寺の坊さん向きだと親から言われていたそうです。ですが、祖父が18才の頃亡くなって、寒ブリの商いをすることになり、殺生仕事に悩んで、近くの臨済宗本山、国泰寺の江南軒、勝平大喜に師事、参禅をしました。戦前、老師より「大魯」の居士号と、老師より紹介された鈴木大拙博士(仏教学者・欧米にZENを紹介した禅者)に鞭撻され「白鷗」の居士号をうけ、戦後は魚問屋を弟(加納 勝)に譲り、京都で芸業の生活(文人)として生涯を過ごしました。昔から肉、魚は一切飲み食いせず、生涯、采食でした(酒は招待の酒席で、遠慮なく杯を受けたようですが、姿勢正しく、酔った姿は見たことがない・・と母が言っていました)

いつも温顔で、目はスガスガシク、行住坐臥、すべてに誠実叮嚀で・・禅は「行い」が総てであることを、生活の中で静かに見せてくれていました。

どうして、くだくだしく書くのか・・と思われるでしょうが、私の名、泰次は、この父の師、勝平大喜老師につけてもらった・・昭和17年の手紙があります。

泰次郎と言うより、これからは短く「泰次」とするがよいでしょう・・と書いてあります。

この父に面と向かって怒られた事・・生涯一度もありません。

思い出しました・・学生時代、鎌倉の円覚寺、続燈庵(故・須原耕雲老師)に寄宿して、お茶の水に通学している初年、60年安保で、東大の樺さんがなくなる大騒動の時でした。多分、道向うの松が丘東慶寺鈴木大拙翁を訪ねた用事の帰り、続燈(後に焔魔堂の弓和尚といわれた)に立ち寄って、私のいる三畳の間を覗いたのでしょう。

机上の便せんに・・「このドブネズミめが・・騒動の東京~鎌倉(通学)行ったり来たりして何の役に立つ」・・と、激しく罵られた手紙で奮起したのを覚えています。

もっとも、毎日の如くデモには出席?し、東京の道に迷って大学の演劇クラブ(実験劇場)室に寝泊まりして、1年先輩の大鶴(唐 十郎)さん等から、高邁な?演劇論を聞くのが日課でした。青春とは失敗するに恐れないことだと思います。社会人になってから、何事につけても役立っています。

父の関係で、南禅寺の柴山全慶老師のお写真を撮影させてもらったり・・お礼に書をいただいたり、次の管長さんが、勝平宗徹老師(国泰寺大喜老師のお弟子さん)であったりして、書・画の展覧会など、何かにつけて優れた禅者の方がたにお目にかかれたことが、禅の鞭撻に力を預かれたことでした。

坐禅で思い出すことは・・正月の挨拶に尋ねて、二階の書斎のフスマを開けたところ、父のドーンと坐禅している姿があり、思わず見とれてしまいました。

床の間には一休宗純の「無」一字、大書の掛け軸があり、獨坐大雄峰がソノママ体感された次第でした。

(後年「大慈」と書いた扇子と、臨済録にある投機の書「孤輪獨照(こりんひとりてらして)江山(こうざん)静(しずかなり) 自笑一聲 天地驚(おのずからわらうこと いっせい てんちおどろく)」をくれました)

九三歳で亡くなりましたが、以前、山で拾ってきた柴犬(雑種、名・梵子)が、哀しくキユーキュー鼻で哭いて、同夜、父の傍の座布団で(殉死?)亡くなりました。近くの西教寺の和尚さんが、奇特なこともあるかな・・と枕経をあげてくれました(火葬は法律により一緒にできず、ペット火葬で別にしました)

既に、逆葬(生前葬)をしており葬式はしませんでした。

号は野風山人。いつも寂寥の風に長髪をなびかせている、鈴木大拙翁と同じ長いマツゲ(5CM位の)瞳大きく、鼻の高い風貌の・・禅者でした。

父は禅語で言う「木鶏(もっけい)」であり「閑古椎(かんこつい)」でありました。

   母は(2017年11月現在)満百歳の長寿で、妹の老々看護のもと

   滋賀、琵琶湖を見下ろす山麓で静養しております。

  *百丈獨坐大雄峰・・碧巌録 第二十六則 

   僧問う「如何なるか奇特のこと」

   百丈云く「獨坐大雄峰」・・百丈懐海(唐・720~814)

   1日作(な)さざれば1日食せず・・稀有の勤労実践の禅者。

A: 禅者の生活は、まったく普段の生活風景です。どこのどなたとも変わりない、行住坐臥の毎日です。

A: 禅者の食事は・・ゴマ油で炒めた野菜、卵、大豆(豆腐・納豆・高野豆腐・豆乳)など。あと果物好きです。炭水化物(ごはん類と魚・肉は少なめ)ですね。

姿勢は正しく、物事はテキパキとします。

総じて、認知症は少なく長寿の方が多いようです。

A:瞑想では・・とりわけ目を閉じると妄想が湧きます。また眠くなりますので薦めません。背筋を伸ばし(姿勢を正し)椅子に坐り、1呼吸10秒程度の静かな数息で18回=180秒3分間、何の価値なき独りポッチ禅をするだけ・・を推奨します。