盤珪の不生禅と白隠の看話禅の違いは何ですか・・

禅・羅漢と真珠    

盤珪(ばんけい)の「不生(ふしょう)そのまま禅」について、教えてください

私の禅、貴方の禅・・独り一人・・

アナタや悩む人それぞれ・・だけに、何の価値もない「禅」がある。

天地いっぱいの「悟」境地がある・・そんな話をするには、禅が日本の鎌倉五山京都五山に、寺僧の教導のもと根を張って大樹となった歴史を知らねばなりません。

・・と言うのは一般論。そんな事は観光、写経の禅寺やPCで検索して、写真なり記事なり見ればよろしかろう・・と思います。

大事なのは、不生「そのまま」の一真実をみれば、それで事足りる・・と喝破した盤珪永琢(ばんけい ようたく 1622~1693)明眼の禅、その一語(悟)を知れば、私の提唱する「独りポッチ禅=3分間ひとりイス禅」の、屋台骨=玄関先が解かってもらえるでしょう。

盤珪には語録文献がありません。

弟子やが聞き書きした出来事が文字に残っているだけです。

これは、釈尊の「仏教=悟りの教え」経典が、すべて「如是我聞(にょぜがもん)」=われ、かくのごとく、これを聞きたり・・の弟子たちによる聞き書きをまとめたもの・・と類似しています。

盤珪の不生禅は、言葉や文字で表現できない、佛教経典とは別の教え・・庶民(人と人)個の人生問題である・・との立場で、ただ一語「不生そのままで済みますわいの」と、悩み素材を料理して、食べやすい食事にしてみせました。

例えば、短気持ちですぐ「カッ」となる人には、ヒョットして起こる短気は、生まれつきの短気持ちではない(原因と結果の出来事にすぎない)

まるで、悩みが雲の如く湧き出ることになっても、「不生」の心持であれば、すぐにスガスガシイ青空が見えてくると「不生そのまま=禅による生活」を説いています。

公案を師家のもと僧堂の坐禅で透過しようとする「看話禅(かんわぜん)」・・を、まるで古本を読みあさるような、役立たずなことをする暇があれば、ただちに「不生そのまま」を獲得すればよい・・」として、温室栽培か接ぎ木のような看話禅を否定して説明、指導しています。

当時、盤珪ほど、生死、妄想、欲気、徳行について悩み抜き、禅達の師を訪ねて行脚し、念仏禅や、欣求禅など、いろんな体験学習した人はおりません。

死ぬ一歩手前まで坐禅に苦しんだ最中「ひょっと」して悩む一切のことは「不生」でかたづくと気づいたと語っています。

 

私の提唱する「独りポッチ禅」では、碧巌録と無門関は、古本ではなくて、関心のある1則を、数息の代わりに粘弄(ネンロウ=おしゃぶり)する、飴玉がわりです。

盤珪永琢の生涯は、岩波書店鈴木大拙「禅思想史研究」四巻中、第一巻全編に「盤珪の不生禅」としてとりあげてあり、約三十年前、読んだ時は、これを破いて食べてしまえば身に着かないかと真剣に思ったほどでした。

*佛教学者であり、禅者でもある鈴木大拙が、達磨から慧能にいたる第二巻・・臨済の基本思想 第三巻・・白隠公案論、禅と念仏の心理学的基礎 計、第四巻にいたる、その初刊に、盤珪一冊、まるごと紹介する所以(ゆえん)・・その深い思い入れに、どうにか馬翁(馬齢)をかさねて、しみじみとした感慨を覚えます。

赤線を引いたり、折ったり、シールしたり・・書き込みしたり・・ひどく乱雑に読了しましたが、私の骨になっている禅者が・・この盤珪さんです。

●もう一人、中世の禅者で独りポッチ禅の先達に、尊敬する抜隊得勝がいます。

彼は「塩山和泥合水集(えんざんわでいがっすいしゅう)」の、求道者との問答「如何なるか禅家の道」の問いに「東廊西廊(とうろうさいろう)」である・・と、無心な(禅による)活き様を描き出し・・続く「いかなるか和尚の道徳」「昨日の雨、今日の風」と答えて、こだわりのない、あるがまま(自然)の禅境地を述べています。後日、白隠(隻手音聲)公案とともに紹介する予定。

(注)抜隊得勝(ばったいとくしょう 1327~1387)臨済宗向嶽寺開山

*和泥合水=泥まみれ汚水まみれのぶざまな恰好を気にせず説話する意。

過年、武田邦彦先生(中部大学教授)の講演をお聞きした時、その著書に「昨日は雨、今日も朝」と座右銘を書いていただいたことがあります。抜隊の禅語と同じような・・禅境地であろう・・と思いました。私は先生のことを、かってに「現代の禅者」である・・と思っています。大変にバランス感覚のある有意義で面白い提言をなされておられます。ブログの発言をお聞きになることを推奨いたします。http://takedanet.com/

 

はてなブログ「禅者の一語(碧巌の散歩道)」/「禅のパスポート(無門関 素玄居士 野晒し評語)」ご覧いただき、有(会)難うございました。