「役立たずの坐禅」と言われますが、役立たずと云う「役」に立っているじゃないですか・・

役立たずの「独りポッチ禅」は「執着する心」のアカ落し!   

提唱する「三分間独りポッチのイス禅」は、自分が「面白いか(楽しいか)」または、自分に「得か、役立つか」・・の観点で、行なうよにしたら、これは、まったく的外れ。一切、役立つものではありません。

自分にとって「役立たず」の、箸にも棒にもかからない、そんな三分間・・イス禅であればこそ、いずれは必ず、禅語でいう「無所得=無尽蔵」の世界が開けてくることになるのです。

(イヤ、こんな功徳のありそうな言葉は必要ありません)

また、釈尊が言ったとか・・〇○宗のえらい?坊さんが言ったとか、経典や哲学書に書いてあるとか、尊敬する指導者が導いてくれた・・とか・・著作や漫画、スマホに救われた・・など、対外的な情報による価値観・・これは、自分が創ったものではありません。他の人の経験、知識ですから、参考にするだけで、後はこだわることなくズバリ捨ててしまいましょう。

通販で「私は●◆でこんなに痩せた」と、経験CMに釣られるような、坐禅や瞑想はおやめなさい。

効能書きを読んでも、病気はなおりません。そして薬で病気がなおったら、薬も効能書きも、もう必要ありません。何にも役立たない坐禅であればこそ、釈尊は悟りを得られ、坐禅や瞑想が現代まで続いているのです。

生活の生業、手段や、利権欲望の中に入った瞬間、真の禅・坐禅は消滅します。

だから、独りポッチのイス禅をすすめます。

 

碧巌録の時代から、さらに千年分・・すさまじい知識・文化・・情報が私たち、一人一人に押し寄せています。二十四時間、すきまなく情報の見えない電波にとりかこまれています。もし電波が筋になって見えたら、網目のような、あまりの多さに、どうにかしてくれと言いたくなることでしょう。

こんな過剰な情報は頭脳にとって整理しきれず、一度仕込んだ情報も捨てきれず、千年昔・・臨済のいった・・君の体(面前)から「一(いち)無位(むい・依)の真人(しんじん)」=何事もコピペしていない本当の私(真人)が、四六時中、出入りしているぞ・・それがワカラナイない者は、今すぐに看よ」と迫る言葉が響いてきます。

社会的情報、CM、知識が上書きされ、分別判断のペンキで塗装された頭脳には、自分の悩みまでが他人事のように思える始末です。

この想いやこびり付いた執着のアカをそぎ落として、コピペでない真人(シンジン)を発見する行為・・こそがポッチ禅です。

注意すべきことは、もうこれ以上、誰にも、団体や本にも、スマホにも教導されたり頼ったり、金を払ったりしないことです。

組織的な社会生活は、必ず利権の温床となる宿命にあります。

チョット何かの教えを乞うと、もう、落とし難い「執着」のアカが付きます。

チョット他に頼ると、まるで(情報・知識)の全面降伏の有様。まるで中毒患者の症状になってしまいます。

この私の奉魯愚も・・流し読みして、あとは自分だけで「三分間ひとりイス禅」・・密かに、そっと続けてください。

毎日の悩みや想いの「垢おとし」・・それが坐禅です。

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