碧巌録と無門関、同じ意訳でも、内容や言い方にヒドク差がありますが、どうしてですか

碧巌録には、本則中に垂語(すいご)偈頌(げじゅ・・内容解説、短い注意、感想)とか、評唱(ひょうしょう)著語(ちゃくご)下語(あぎょ・・寸鉄の批評)など、後の世代の禅者たちの批評がいっぱい書かれています。学問として「禅」を学ぶ人には、ワイワイと語り合うのに役立つでしょうが、純禅に、誰彼の学説、批評は不要です。

普通の生活の中の坐禅の時に、かえって想いや思考が増幅して迷います。

また禪を誤解する元になりますので、できる限り枝葉は切り捨てました。その結果、随分と見晴らしのよくなった禪(公案)の紹介ができました。また、「無門関」は、昭和初期10年代に活躍された素玄居士(高北四郎)提唱の意訳です。

はてなブログ 禅のパスポート・・紹介中)

戦前・・「禅は宗教ではない」・・と喝破された素玄居士絶版の1冊(狗子堂発行、昭和12年東京市王子区)を、出来るだけ原文のまま、直に、味わってもらいたくて紹介しています。本来、禅を提唱する者は、自身の「見解(けんげ)」=悟りの境地を1則ごと披露するのが本当です。これがいつの間にか、師家と二人きりの密室に参じて確認しあうという秘密の相伝となりました。寺僧組織の運営事情もありましょうが、偽禅の横行する処となり、今や、祖師がたの書画、禅院拝観料で成り立つ観光禅のありさまです。

自分は,なぜ生まれたのか?

自分の価値とは何か?

死ぬということはどうゆうことか・・中学や高校生に解かる「禅」について千年前の求道者、必携の書を意訳しようと思い立って、出来る限り原文の味付けにこだわる次第です。ですから、アナタの好みや、寺僧、師家の解説に重点をおきません。しかも、この「碧巌録」と「無門関」は、読めば人生の悩みが解決する元服の書ではありません。たとえ3分間でも「独りポッチの坐禅」を続ける気付け薬にすぎません。それも、本当は「役立たず=無功徳」であること・・その覚悟さえあれば、坐禅は・・独り・・君のものです。

そんなつもりで、お愛想なく(そっけなく)意訳しています。

有(会)難うございました。