◆元服の書 ① *昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書きました*

         ◆arutoomouna・・親と金 !

                           naitoomouna・・運と災難!

仕事の時や、寝る前など・・3分間独りポッチ禅では、数息や公案を、どのようにして思いやれば、よいのですか・・

 

◆不安な心をなくして、安心な心になりたい・・

受験に失敗したくない・・スポーツで入賞したい・・

それぞれ人は、生きる出来事で、希望や欲望や悩みは、すべて、そ

れぞれ「独り」の行いです。誰でもが同じとか、等しいとか・・そ

んな出来事があるはず・・と思いがちですが、一切ありません。

どだい貴方はアナタを構成する遺伝子からして、この広い宇宙の中

で、ただ一つのかけがえのない「生命」なのです。

(科学的にも、哲学的にも。宗教的にも)

 

◆「赤信号、みんなで渡れば怖くない」・・これが共同体社会や想いの根源!

それを、さもさも共通性をもたせたり、愛憎に度合いも持たせたり、金銭や、偏差値などの数値の比較をして、優劣をつけ、一般化、常識化て・・それで安心したり、悩んだり、いじめたり、社会的な制裁をしたりします。いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」方式です。(教育も画一的になりました。昔の松下村塾や寺小屋などのシステムが、個性を重視していると思います。元服で12歳程度の少年少女が、社会の恥とならないよう「死」の覚悟=切腹の真似事を、親兄弟の前でして巣立ちしました。  

 *お父さん方・・お母さん方・・昔は子供の2人に1人は、ペニシリンや 

  救急車もない、病気や事故で、すぐコロリと死んでしまう暮らしで

  した。今より愛情豊かに子育てしています。子供の教育は、学校の仕

  事ではなく親の責任ですよ(坐禅は親御さんが先に行う必要がありそ

  うです)

それで・・まずアナタに云いたい・・宇宙でただ一つの遺伝子を持つ「天上(てんじょう)天下(てんが)、唯我独尊(ゆいがどくそん)」という・・言葉の意味が(仏教、釈尊だからではなく)涙が出るほどに確信できるまでは、教科書や本、新聞など活字媒体を参考にするだけにして・・(漫画やスマホ、PC検索、親の言うことなど・・など、二の次の意見参考にして)自分の生き方や、思うことどもを、まず独り自分で見返すことです。

アナタが本当に、やりたいことの為に努力する姿は、必ず、認めてくれる人たちがいます。

 

◆不変の社会的な真実とは【あると思うな「親と金」・・ないと思うな「運と災難」だけです!

この昔からの伝承がアナタの「独りポッチ」を支える心の支柱となりましょう。

現在、中学生や高校生の貴方には、青春のワガママ(自分の思うままになるの意)自分中心の疼きの中で生きているので当然ですが、頼りとする親や金は、有るに越したことはないとも言えます。でも、時に、自分(独り)の大切な人生を狂わせたり、足かせになったりする根源なのです。むしろ幸運や不運は、まさか自分にあり得ないと思うこと(ラッキーより不幸な出来事の方)がアナタに襲いかかる方が多くあります。幸いにも、今の日本は、文句を言わなければ、食べて暮らせる条件がそろっています。必ず、苦労や悩みに耐えられるアナタのはずです。

◆アナタが「孤独・・独りポッチ」を感じた・・その時こそ・・アナタだけの遺伝子が、密かにアナタに訴求しているシグナルです。それを、しっかりと受け止める受像装置が大事です・・それが「独りポッチ禅」です。

お昼の時間帯では、仕事や勉強、スポーツや趣味など・・当面していることに一生懸命にやってください(昔は一所懸命と書きました・・今、していることに集中して努力するの意)

途中、イロイロな思いや、イライラする気の散る出来事があるでしょう。無理もありません。独りポッチ禅を提唱している私ですら、仕事でも、夢の中でも「アアだ・・こうだ」と振り回されています。実はそれが当然なのです。それでもいいのです。悟れば、無念無想・・禅者は快川和尚(かいせんおしょう・恵林寺)のように「心頭を滅却(めっきゃく)すれば火 おのずから涼し」と頌(じゅ)して、織田信長に火をかけられた本堂の真ん中で、坐禅を組めるほど人間ができあがっておりません。むしろ、あまりの熱さに、師と殉死しようとした弟子の幾人かが逃げ出したので、この有名な禅語「火もまた自ずから涼しい」の一語が伝えられました。わが師、円覚寺、焔魔堂の弓和尚と言われた、故、須原耕雲老師は、弓を引く三分間、禪心であること・・動中の禅が、ソンナに容易に出来るものでない・・と言われたことがあります。南禅寺の故・柴山全慶老師は「自己を境に投じて、境中に自己なき」を「覚(悟り)」とする・・と「十牛図」の解説で言われています。

◆大事なのは、静中の坐禅や動中の工夫で、雑念が起り妄念が起り、連想、増幅するのを「こだわらず・・そのままに放置して」・・放っておくこと・・です。

 

連想して次念を振幅、増幅させないことが、一番、必要なことなのです。迷いと悟りの差は、自分と仕事、勉強。公案と自分などがバラバラになって2元的に相対してしまうことが「迷い」なのです。いたるところ、3分間独りポッチ坐禅が、こうした迷いや悩みを消滅してくれる・・実地訓練です。

水泳でも、本や、畳の上でいくら勉強しても、実際は、水に入って自分が努力しなければ上達できません。先生や指導者がいくら言い聞かせても、何事も「まずアナタ独りの覚悟」ですよ!

要は、うまく出来ないことを、あれこれ言い訳する自分に気づくこと・・それがポッチ禅の「何にも、これっポッチも役立たない坐禅」の押さえどころです。何年何十年も、3分間ですらナカナカ坐禅出来ないでいる・・その自覚が・・般若心経の「顛倒(てんどう)夢想(むそう)、究竟(くきょう)涅槃(ねはん)」・・色即是空(しきそくぜくう)の真意であると思います。

くれぐれもスマホに現(うつつ)をぬかす事のないよう、妄想を振幅させない厄除けとして、碧巌録や無門関、私の奉魯愚「禅者の一語」を活用してください。

*禪、臨済宗 恵林寺・・山形県甲州市 風林火山の甲斐、武田信玄菩提寺・・         

快川紹喜(かいせんじょうき 1502~1582)織田信忠の軍による焼き討ちにあった際の禅者の一語(偈)「心頭を滅却すれば・・」は、中国の、誰かの公案の頌の一部を、この時に引用した、いわゆる中国の禅者の(頌・・禅境を述べた詩)コピペであるが、火定(かじょう)・・火あぶりの最中に、この一語をもってしたのは、さすが快川紹喜である。コピペもこれ位の覚悟があれば本物だ。

年取ると、ソンナ云く因縁の頌、出典を忘れてしまういずれ調べます。

*ついでに思い出話をひとつ・・円覚寺に寄宿して大学に通っていた昔、松竹映画撮影所(大船)で笛吹川(1960年。深沢七郎原作モノクロ)・・木下恵介監督の撮影で、この快川和尚と弟子たちの火定シーンに、修行中の雲水たちの応援出演の依頼がきた。これは修行のチャンスとして、本堂セットの回廊に、ズラリ、本物の禅僧が居並び坐禅三昧になる中、火がかけられ、監督のカット、OKの声で消火される手筈が整えられた・・のだが、イザ本番・・スタートの声がかかり、居並ぶ坐僧の周囲に火がつけられると、あまりの熱さにたまらず、あっという間に本物の坐禅の雲水たち、逃げ出していなくなった。後で寺に帰って、ススで汚れた雲水さんたち、昔の快川和尚以下、弟子達の根性(覚悟)にひどく感心していた。その頃の管長は朝比奈宗源老師。当時の修行僧たち、今まだ存命しているはずだが、どこぞの禅寺で、どんな顔をして、公案心頭滅却」や「洞山無寒暑」を教導、提唱しているのだろうか・・何故か苦笑いしたくなるような・・思い出である。(2018年1月29日追記)

*わかりました。碧巌録 第43則「洞山寒暑回避」評唱にありました・・黄龍の死心悟新和尚、拈提していわく・・「安禪は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」・・出典 詩人、杜荀鶴の転結二句。起承の二句「三伏 門を閉じて一衲を披(ひら)く、兼て松竹の房廊を蔽(おお)うなし」に続く。(加藤咄堂先生 碧巌録大講座 第6巻 昭和14年(株)平凡社刊)

*奉魯愚「禅者の一語・・碧巌録意訳」「禅のパスポート・・無門関(素玄居士提唱 意訳)」おりにご覧いただくと幸甚です。

     有(会)難うございました。(2月1日 タイトル「元服の書」その①としました)