元服の書⑥ 這えば起て・・立てば歩めの・・独り一人!

元服の書⑥ 

*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*

      禅・・とは? 悟り・・とは?

それは独り一人に、チャント備わっている「自心」の認証です!

インドから海路、中国へ達磨さんが「禅」を伝えました。

紀元520年、中国、梁の武帝と面談(問答)したことが、碧巌録(1128初版)第一則「聖諦第一義」に記載されています。

「禅」とは何か?武帝の問いに、達磨は「廓然無聖」(カクネンムショウ・・ただ青空のごとく)・・と答え、さらに武帝から仏教を広めたことの貢献を問われて「無功徳」(何の有難みもなし)と断じています。

以来、禅は、政治や社会的な軋轢(あつれき)をきらい、達道の人を訪ねての旅(行脚)と問答を行う、求道者の独歩独行・・「禅による生活」の中で育まれてきました。

禅は「宗教」ではありません。

また、哲学や心理学や論理学ではありません。

中国から、日本に伝えられた禅は、おおむね仏陀の教え、仏教の寺僧たちの揺籃(ゆりかご)で育ち現代にいたっています。

でも、禅は、代々の寺僧たちの、学習や修行で、伝承されたり、欣求・祈願したりできるものではなかったのです。

般若心経はご存知でしょう。色即是空の法を説きます。

この冒頭・・行深般若波羅蜜多時(ぎょうじん はんにゃはらみたじ)と前置きの文言があります。般若波羅蜜多(禅)を深く行ずる時・・坐禅をする行為・・禅境(地)の深まりを前提条件にして、照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)・・見聞する総ての事象は、尽(ことごとく)く「空」=「無」であると照らし見て、一切の苦厄から度(ど・解放)する・・度一切苦厄・・と述べています。

つまり、独り一人、坐禅(禅=悟り体験)しないとわからない世界だ・・ということなのです。

そして、悟りに至った禅者や求道者が「禅による生活」を、独り寂寥の内になしてこそ純禅なのです。

禅に関する、沢山の解説書や教導する団体組織がありますが、教えてもらい学んで解かる「ZEN」なら、それは禅でも悟りでもありません。

自我(価値とか付加価値、意識、無意識)のコピペ(造作)を全部、剥ぎ取って想念の真っ暗な卵の殻を自分で割ってのみ、自由(おのずからよしと自覚して青空)に飛翔できるのです。

宗教で言う三昧(ざんまい)とか、念(今のこころ)とか、断捨離なども一切、無用です。平常心など、禅語の切り売りは、造作、誤解はなはだしく、純禅の最も嫌うことです。

どうしても・・と坐禅で参考にできるのは、まず・・

①「無門関」=禅のパスポート、素玄居士提唱=意訳中、

②求道者たちの行脚・問答集「碧巌録」禅者の一語=意訳中、

③「般若心経」274言・・ぐらいですか・・

これも現代版の貢献あらたかな意訳ではなく、ウジ虫のわく味噌汁をすすった清貧の禅者、白隠の「毒語注心経」・・般若心経を毒舌、悪口で注釈したものが一番です。

私は大森曹玄著 春秋社刊・・昔、神田の古本屋で1300円で買って大事にしています。もう1冊、お勧めは「盤珪禅師法語集」藤本槌重編著 春秋社刊 同じく古本屋で3000円しました。

本は二~三百年以上、経過しないと真贋、ハッキリとしません。

何度も言う通り、独り一人ポッチ坐禅するところに禅はあり、先生、師匠、万巻の指導書などは参考となるにすぎません。

むしろ独りポッチ坐禅に邪魔です。

禅は「空」とか「無」とか、何の役にも立たない無価値、無功徳なものを、ストレスの特効薬のように売りつけ、宣伝しません。

絵にかいた餅(大悟・見性)を求めてみたところで、すいたお腹はふくれません。

役立たずのポッチ坐禅だけが真に満腹する手立てです。

心の安らぎは、自分の中に発見する以外、どこにもありません。

貴方もまた、赤ん坊の頃、独りで「這えば起て・・立てば歩め」と成長したでしょう。

何につけても、あまり頼りなさるな。甘えなさるな・・と言いたいです。

有(会)難うございました。