年に1回、たった1日の1440分の1だけ黙祷できた人・・手を挙げて!

元服の書⑬ 

8/15⇒1日のタッタ1440分の1だけ・・生かされてある社会に黙祷・感謝できた人・・を挙げて!

昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています

 

あり得がたい出来事を「有り難う」という・・

現代において「ZEN」に出会うことは、あり得難い低い確率です。確かに、本やPCで「禅」を検索、調べれば、イヤというほど案内は出てくるし、禅寺や茶華道、柔剣道、弓道など関連した項目は出てくる・・ケレドモ・・それではソノ内、坐禅の経験の有無はどうだろうか。

紅葉や桜の名所は・・とか、精進料理や、湯豆腐の、閑静なところは何処ですか・・とか「3分間独りポッチのイス禅」を提唱している私に問いかけてくる人がいた。

「役立たずの坐禅」をやれる人に教えましょう・・と言うたびに、こうしたガイド役はなくなってきたが、とにかく、子育ての母親がなっちゃいない。ここから字を小さくして、私の一般論です。

まず生涯の趣味がない・・新聞を読まない。料理と云えば食べに行くだけ・・夏休みの子供ずれに回転寿司は大流行である。

モチロン男の場合も同様で、TPOをわきまえないで女を追いかけまわすのも情けない。

便利になったスマホ(デジタル)社会・・ここ50年ぐらいの転換期の、ドサクサ時代の現象でしょうが、誠実な人付き合いをする方たちは、都会から脱出して田舎暮らしをされたがよかろう・・(と思えるような)時代です。

 

8月15日、天皇と共に、戦没者慰霊の黙祷の時間・・タッタ1分間。目を閉じて祈念できた人が・・この日本に・・何人いたことだろう?

タッタの1分間・・365日の内で、この日=1日の内の1440分の1の間・・自分が生まれた、この奇跡の出来事・・あり得がたい社会の人々のオカゲで、米粒一つ作れない自分が、生かされてある不思議に、感謝する黙祷、瞑想、坐禅・・何でもいい・・心から誰かに「有り難う」と言えた者が、どれほどいただろうか?

また、「禅」との出会い・・その出逢いがたき事のご縁をさぐって、有難うの言葉にWらせ、会い難きことを・・この奉魯愚の終りに「有(会)難うございました」と書いているが・・。

有(会)難うございました。PCで「あいがとう」と打つと、どことなく忠告めいたヒトコト・・「愛が問う?」と出てきます。

PS・・今回、何が言いたかったと言えば、難しく禅と文化、哲学、宗教を結び付け、ことさらに有難みを訴求することはやめて、今は、タッタの三分間程度の「坐禅」を、生活習慣に取り入れることを推奨したい。

一日1440分の3の時間を、何事にも役立たない、貢献しない、ご利益もない「坐禅」に費やしてほしいと思います。1分の黙想も出来ない人に、3分の坐禅が出来るのか・・と言われれば、ソレまでです。が・・感謝や冥福を祈ることが出来ない人でも、役立たずのままに坐禅はできましょう。