*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*
菩提樹下、暁の明星を看て、禅・大覚(悟り)を開かれた仏陀(釈尊)は、その教え(仏教)の多くを例え話で説教されました。
ただし、言葉でもない、文字にも書けない・・「世尊拈花 せそん ねんげ」に代表される「禅」については、中国に伝わる碧巌録や無門関などの禅語録に、わずかに記載されているだけです。
釈尊は、あちこち行脚しながら、縁起による「諸行無常、会者定離」の理(コトワリ)を、庶民にわかりやすく説かれた・・だけ・・なのです。
それが後の時代になって、仏陀の教えとして、仏教になりました。我れ かくのごとく これを聞きたり・・如是我聞(にょぜがもん)で始まる、壮大なお経は、その仏陀の例え話です。
長い説法の旅の間、釈尊は、独り一人が持っている「禅=煩悩即菩提」・・そのことを 身をもって示されただけで、教導することはなさいませんでした。
無門関 第6則 世尊拈花の公案は、ある説法の場で、花を一輪、クルクルと回して見せた出来事を、独り迦葉(かしょう)尊者のみ、その意味を大覚して微笑された・・逸話です。
釈尊は「正法眼蔵、涅槃妙心・・あるべきようにの禅の境地そのまま」を、迦葉に預ける・頼むぞ・・とイワレタのです。
「禅」は、インドの菩提達磨(ぼだいだるま)が、独り、海路、中国 広東にわたり梁の武帝と面談(520年?)。のち、嵩山少林寺で面壁坐禅して、わずかの弟子のひとり、慧可(エカ)に付嘱(ふしょく/頼むの意)されました。
赤道直下、涼しい樹下、哲学(瞑想)を尊ぶ暑いインドの地から、寒暑春秋の地、実用実際を重視する中国に根付いた「禅」は、圧政、戦乱、宗教集団の利権から逃れ、新たに日本に移った「純禅」の求道者たちの手で育ちました。
例えば、原の白隠さん・・毒語注心経(大森曹玄著 春秋社版)・・意訳文
【経】如是我聞一時佛在・・コレガ オ経ト イウモノカ
咄、誰か舒巻(じょけん)す・・馬鹿メ 誰ガコノ経 巻キ閉ジスルゾ
黄巻赤軸(こうかんしゃくじく)を求む・・反古ヤ紙屑 オ経トオモウ
また百合一片(いっぺん)・・アニ計ランヤ 百合一ペン
白隠は紙に記載された経文を有難がる者を叱りつける。
いったい、生きた経を誰が開いたり閉じたりしているのか・・?
ユリの根の・・実(じつ・み)を看よ。実は中にあるか・・?
その切れ端の一片イッペンが、ことごとく花の実ではないのか・・と。
私は・・この「ユリの花」にチナンデ、聖書、マタイによる福音書6章「ソロモンの栄華もユリの花に如かず」の言葉が・・
(自己解釈ですが)釈尊の拈花微笑=般若心経の経意(こころ)と同義に想えてならないのです。
歴史書を読み漁ることをしなかった私は、浅学で、達磨以来の「純禅・独りポッチ禅」が、日本で・・大愚良寛、一休宗純、盤珪永琢、仙厓義梵、正受老人、白隠慧鶴、鈴木正三、素玄居士(順不同)など、十指程度の、先達の禅者によって大樹となったと知るにすぎません。他、仏教学者(禅者)鈴木大拙。松が丘文庫の古田紹欽先生、柳田聖山氏。あるいは、惜しくも神戸で爆撃の戦火でなくなられた井上秀天氏・・いや、まだ他にも野風行雲の禅境(地)に住した禅者が沢山いたと確信しています。
また、無門関提唱 素玄居士が(意訳中)禅は仏教・・宗教ではない・・とする意見を克明に述べたのが、この第六則でした。
詳しい意訳は「禅のパスポート」を見てください(後日、追加補足をします)
◆まとめます。
釈尊以来・・達道の禅者は、すべて役立たずの「独りポッチ坐禅」で、独り一人に備わっている「禅」を発見発明しています。
「禅」の・・効能効果の在るものは、所詮、この世のご利益(リヤク)ごとにすぎず、自己本来の面目ではありません。
どうぞ、仏陀や経文、学問・教導に縛られず、もっと気楽に、何時でも誰でも自分独りで出来る「坐禅」をなさるように・・