◆至道の禅語⑴
*中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています*
茶道の掛け軸に、達道の禅者が発した一語の書を見かけます。
また、外国の方(わざわざ日本まで訪ねてきて)や若者が、真意を知りたくても、どうすればよいのか・・わからない時代です。
無功徳とか、喫茶去とか・・日々是好日や隻手音声など・・
その解説のほとんどが、出典の語録、禅問答の由来などTPOが紹介されておらず、真意を測りかねる誤訳の多いのが原因です。
現代人が、それだけ漢文や、その漢文あればこそ・・の禅に、関心を持ちながらも、手が伸びないのは・・禅語録を読まない、読めない・・坐禅もしない・・禅が解からない者が、解かったふりの解説や講釈をやっているからです。
禅のパスポート/無門関(素玄居士 提唱)の意訳や、碧巌の歩き/碧巌録の意訳を、この「はてなブログ(奉魯愚)」でしている私宛、タマタマ上記の「無事是貴人」の問合わせがありました。
これを機に、五百年、千年前の禅者たちが、求道し体得し、その生涯のヒトコトを世に残した「至道の禅語」を、順不同で紹介していきましょう。
禅は、宗教やストレス解消の欣求的(求め願う)思考、対策行動ではありません。もともと「独り一人」に、生まれた時から備わっている「イノチ」そのものです。
ただし、坐禅をすることでしか、発芽してくれません。
釈尊ですら六年の坐禅の後、暁の明星を看て、大覚(見性・悟り)されました。悟りを得たい・・とか。悩みを解決したい・・とか。苦しみからのがれたい・・とか・・そうした執着心やゴリヤク、効能を期待するタカラクジではアリマセン。損得を忘れた「役立たずの坐禅」であり、指導者や本や組織、寺僧、教会いらずの「独りポッチの坐禅」に終始します。
姿勢を正し椅子に坐り、眼を半眼にして、1呼吸10秒前後、6回(1分位)数えること計3回=数息(スウソク)すれば・・「3分間の坐禅」です。
簡単ですが、ただし・・容易に出来るものではアリマセン。時に寝る時、起きる時、トイレの時、電車の中、夫婦げんかの中・・やれるものならやってごらんなさい(ただし独りポッチで・・同好会厳禁・・造作ぬきの役立たずデネ)
大事なのは、時折り、意識をよぎって気になる・・意味不明、納得しかねる「禅語」です・・
どうしてかワカリマセンが、発芽する種が、雨季のくることを予知して、うずきだすような出来事です・・
「どうして この禅語が気になるのか」心に引っかかること・・これこそホントの一大事です。
一つの禅語で充分・・3分間の数息坐禅・・にかわって「禅の一語」を公案(問題)として、解釈、勘案してみてください・・
決して正解(答え)を出そうとアガカヌこと。
「あゝでもない」・・「こうでもない」とこねくり回して、ズットこねくりまわす・・
コネクルそれだけ・・です。
時に、5年後か~10年後か~気が付けば・・3分間が30分に・・3時間坐禅に・・
こうした、こねくり回しが、ただの浮かんだ雲のようになることでしょう。
Q:無事是貴人とは・・?
禅(による生活)は、純粋無雑に己の本性、真性を純一に見解することにある。師や教本にたよらず、造作することをやめ、執着・妄想を厭離(おんり)して、天地(萬物)と一体(天地同根)となれ。
己以外に、佛(禅)を求めるな。
心即佛(禅)・・これを無事の人。
造作(心、物事両面で計らう行為)なければ、佛(禅)も不要(貴人)となる。
佛(禅)とは何だ、ただの名句(文言)じゃないか・・
(錯(あや)まり了(おわ)れり。佛はこれ名句なり)
夜空の星と云っても、恒星は、それこそ星の数だけ、それぞれにあり、人といっても、現在七十億ですか・・それぞれ、独り一人が生きている。
これを科学的にと云い、哲学と云い、歴史と云い、文化的に・・と総括して十把ひとからげに評価、分別したところで、己ひとりにしかない遺伝子を、共通平均化してしまう訳にはいかない。
佛(禅)は、この自性をハッキリ自分で手づかみすることです。
何ものが言い張り、何ものが歩き、何ものが怒り、笑い、死んでいくのか・・少し坐禅してごらんなさい・・
怒りながら飯を食い、歩きながらスマホを見る幽霊ビト(依存症になる)など馬鹿らしくなりませんか。
【無事是貴人】
天地同根の禅者こそ 貴人と呼ぶにふさわしい・・の意。
◆この解説の原文(出典)は、臨済録 云何是法(以下略記)に記述してあります。
師、衆に示して云く、切に真正の見解を求取(ぐしゅ)して、この一般の精魅(せいみ)に惑乱(わくらん)せらるることを免れんことを要す。
無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平等なり。
汝、外に向かって求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)をもとめんと擬(ぎ)す。
錯(あや)まり了(おわ)れり。
ただ佛を求めんと擬す。佛は是れ名句なり。
汝 かえって馳求(ちぐ)する底(てい)を知るや。
古今、参学の人も、また ただ法を求めんがためなり。
法を得て始めて了(りょう)ず。
如何なるか是れ法。法とは是れ心法(しんぽう)。
心法は形なくして十方に通貫(つうかん)し、目前に現用(げんゆう)す。
人、信不及(しんふきゅう)にして、すなわち名を認め 句を認め、文字の中に向かって佛法(禅・坐禅)を意度(いたく)せんことを求む。天地ハルカに殊(こと)なり。
*釈迦(シャカ/能忍。大慈大悲の意)
牟尼(ムニ/寂黙。大智円満の意)佛(ブツ/覚者。禅者の意)
*この佛教を行脚して説示されたゴーダマ・シッダルタ尊者を釈迦牟尼仏(釈尊)と呼ぶ。