至道の禅語⑵平常心・・誤解誤訳だらけの偽造禅語・・その代表例

至道の禅語⑵平常心是道(へいじょうしん これみち)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

Q:平常 是道(へいじょう ぜどう)とは?

試合前のスポーツ選手や試験日の学生が、インタビューで「平常心」で頑張ります・・などと言っている「平常心是道」の禅語は、紀元八百年頃、揚子江の南(安微省池州)の南泉(山)普願(なんせん ふがん748~834)に相見。参禅師事した趙州従稔(じょうしゅう じゅうねん778~897)の問答が起源です。

当時は玄宗皇帝、楊貴妃の時代・・爛熟腐敗の政治社会で、禅者と求道者は人里離れた深山幽谷の禅庵に遁れ、枯淡に暮らしていました。

南泉老師は、趙州従稔の禅機(見性のキザシ)が熟してきたとはいえ、公案ヒョウタン・鯰(ナマズ)」の、まるで、ナマズの尻尾の先が瓢箪に入らず、外に残っているような・・つまり瓢箪の口にナマズの尻尾が揺れているような不安定な状態を看て、ココゾとばかり、禅者の「平常心」の禅境地を語ります。

(見性は、釈尊以来、独りで覚真するものですが、求道者には師の生活言動そのものがヒントになっています。例えば臨済碌などは、師の黄檗とのやり取りや、他の禅院の達道の禅者との問答を通して、禅機禅境(地・・悟後の長養、修行)を鍛錬した行碌です。禅は、悟って安心・・それで済むような自己執着丸出しの幼稚な事ではありません)

趙州・・人の歩む道とは、どのようなものなのでしょうか?

南泉・・平常心がアリノママに道である。

趙州・・何か確固たる心得がいるのでしょうか?

南泉・・平常心は、これを保持(意識、造作)しようとスレバ離れていくぞ。

趙州・・でも保持できなければ道に添っているか・・離れているか覚(確)信が持てないのではありませんか。

南泉・・平常心は、知的(論理的)体験でもなければ感性(本能的)行動でもない。また不知は木石の如く死物にすぎず言句は仮の名であるし、それを造作する態度は平常心を失うことになる。

(疑いようのない)悟境。この道に達したら、お前さん自体がカラリとした青空の広がりである。いや、それすら透化して釈迦、達磨が来ても、ウもスも言えるものか(これ・・をお前さんが冷暖自知するのみだ)

趙州・・言下において頓悟(ヒラメキ・廓然洞豁かくねんどうかつの世界を体覚)した。

  無門曰く・・悟ったという趙州、まだ禅の臭みが抜けきれないぞ。

  瓢箪(ナマズ)の酒がうまくなるには、あと三十年位はかかるなぁ!

【平常心 これ道】・・平常、非常ともに忘れて体得した「禅による生活」を行う・・の意。

 

   出典・・無門関 第十九則 平常 是道 【本則】

   南泉 チナミニ趙州 問う「如何なるか これ道」

   泉云く「平常心 是れ道」

   州云く「かえって趣向(しゅこう)すべきや いなや」

   泉云く「向かわんと擬(ぎ)すれば すなわち そむく」

   州云く「擬せずんば いかでか これ 道なることを知らん」

   泉云く「道は知にも属せず、知はこれ妄覚。不知はこれ無記。

   もし真に不擬の道に達せば なお太虚(たいきょ)の廓然(かくねん)として

   洞豁(どうかつ)なるがごとし。あに、しいて是非すべけんや」

   州 言下において頓悟す。

無門曰く 趙州たとえ悟り去るも、さらに参ずること三十年にして始めて得るべし。

 

【附記】心でもない 形でもない 色でもない 光でもない 声でもない ハタマタ あるでもない 無いでもない 般若心経のナイナイづくし・・が納得できないと、禅者の平常心はわかりません。それには造作のない素直な3分間の「坐禅」(澄心・・澄み切った心)が大事です。この独りポッチの坐禅が、無造作に出来たら・・キット平常心が身に付きましょう。

はてなブログ 禅のパスポート 無門関 十九則 素玄居士提唱・・に、「無事有事の如く、有事無事の如し」の真意・・詳しく意訳しました。

平常心を持ちたい方は、是非 ご覧ください。 

禅語を紹介する諸先生、マスコミの方々へ・・

ヒタスラ/一所懸命/集中努力が「平常心」だと解説、理解するのは大間違いです。・・そういう誤解の意味内容で新語をつくるのは・・意味ないヨ~!