◆元服の書⑲
Out of the mouth comes evil・・(口は災い、誤解の根)
*昔(11歳~15歳頃)の成人式にちなみ、中学・高校生の問いに答えて書いています*
Q:どうして「禅」は・・言葉や文字で表現できないんですか?
禅の本や解説は、昔から山ほどあるのに、どうして言い表せない「不立文字(ふりゅうもじ)というんですか?
A:私の信条は・・心コロコロ「人生、裸(心)で生きるべし」です。漢字では「浄裸々(じょうらら)」と言います。この私の75年の人生の見解(けんげと読みます)・・たったこれだけで、どこまで理解いただけるしょうか?
それは無理ですよね。私の生活の集大成の一語ですから、私自身ですら、言葉や文字では書き尽くすことはできません。
禅、必携の書と云われる碧巌録、無門関の1則ごと、釈尊や達磨や・・一休さんや良寛さんや、ミンナ皆、達道の禅者、独り一人、その来歴、禅境は、その人、独り一人にしか・・会得されず、ワカラナイのです。
(千年たって語録に数行、表記されるだけです)
禅は・・アナタにも・・私にも・・それぞれ一人ずつに「禅」があり、つまり、教わらなくとも、独り一人に、チャントとあることに気づくのが「悟り」であり、その方法が坐禅なのです。
禅は「本来の面目」ともいい「仏性・無心・空則是色・般若」など、その意味する表現は一杯ありますが、要はアナタの不安な心が・・突然、安心な心に、コロンとヒックリ返る・・それだけの話です。
どこかに青い鳥をさがす旅に出る・・わけではありません。
寺僧の教導を受けたり、本を読んで思考したりは、かえって迷いの元。考えるというのは、頭の中に文字・言葉が、父母や学校で教えられて入っていて、それで判断(分別・比較・優劣・対比・分析・・)するのですから、論理的にも、哲学的にも、倫理的にも、宗教的にも、物理的(参考になるのは量子の働きぐらい)にも、説明しうる言葉や文字はありませんし、考えることを考えるのは無理というもの・・考えは役立ちません。かえって、次々に思考や妄想が湧いて、正邪の比較判断ができません。
これは実際の地形が天変地異で変化しているのにかかわらず、旧式の地図で、おかしいなァ・・と首をひねるようなものです。
アナタが、この【禅者の一語・禅のパスポート】などご覧になって、フト・・関心をもたれた言葉・文字・禅者の行い・・があれば・・何だろう・・どうして?と、首をひねった(ソノコト)が、アナタだけの「禅」の入り口であり、実は出口なのです。
釈尊や達磨や、達道の禅者が、説明も講釈も出来ない、黙非している姿こそ「禅」なのです。どうぞ、独りポッチの、役立たずのイス禅だけが、迷わぬ者に悟りなし・・純粋に、独り「大擬」(尽きつめずには置かない疑いの塊)できる手段なのです。
容易ではありませんがあせることなく自己発見をして下さい。
何か坐禅することで、価値(悟り)があると期待したら、もうそこで考え(計らい)が働きます。
禅から一番、遠ざかる執着(造作)のトリコになるのです。
役立たず・・独りだけでの坐禅をなさいますように・・!
(とりわけ 見る・・を「看る」と書けない、手と目で看ると書く・・意味が分からない外国の方は、自他の分別(ふんべつ/ぶんべつ)意識が強く、成否に執着・拘泥する傾向がありますから、鈴木大拙著「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう推奨します(後の講釈一切、信じないことが大事です)
誰か教導の指導者を求めて、日本にやってきても・・「禅」は宗教ではない・・寺僧はナリワイ(生活手段)の、観光営業にすぎないことを理解ください。
アナタの中にいる青い鳥=自己大発見は、アナタ独りでしかできず、教えることも学ぶことも出来ないのです)
さて、独りポッチ坐禅・・と、子供言葉で書きましたが、誰にも言わず、言えず、禅は、例え 大覚自知し得たにしても、黙する以外、手立てはアリマセン。
しかし、役立たずの独り坐禅を続けると、一つだけ、ハッキリした境涯が、気づかぬ内に、アナタを包み込むことでしょう。
それは「寂寥(じゃくりょう)」です。
別名「無常観」少し仏教臭のする言葉ですから、ピチピチ生命の溢れる禅境の底にある、どんなことにも揺るがない「寂寥心」が適名でしょう。
この寂寥(大慈)の内に包み込まれたら、役立たずとか、価値とか、三昧境地とか・・言葉や文字に拘(こだわ)ることがなくなるでしょう。そこから百尺竿頭 歩を進める・・飛躍(ジャンプ)が始まります。
Say as men say but think to yourseif.
(口に出すのは世間の噺。心で想うは寂寥感)
有(会)難うございました。