至道の言語⑸ 私は「随所に主となる」を、このように読み解きます!

至道の禅語⑸  

随所作主 立處皆眞(ずいしょに しゅとなれば・・)とは?

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

スマホやTVなどの発達と同時に、日常の言葉や文字は、希薄な対人関係の中で、すぐに抹消される電報文のようになりました。

ほとんどの禅語(に限らず)の意味・解釈が、間違いだらけ、誤解だらけになり、まるで猫を犬と呼ぶような・・どうせ同じ愛玩動物だから良いではないか・・の想いがあるのでしょうが、無責任な会話に加え、米語・カタカナが会話の半分以上を占めてKYの如き、世代ごとにしか通じない、断線して繋がらない・・しかも激流のような情報過多にあって、自分にとって、面白いか(楽しいか)、役立つか・・だけの2者選択する状況です。

現代、街中の若者の会話は、仲間だけの、全く好き嫌いだけの感情的な短文であり、日本語の原風景は、根元から腐り果てた、再構築できないような打撃を受けています。新聞や本など読まなくなれば。活字で思考する頭脳が劣化するのは当然です。

これから、一層に、手間(労力・時間)のかかる、温かい人間関係はなくなると思います・・例えば「看る」/「診る」⇒「データ」/「検査」にとって代わる時代であるとして、心ある青少年に警告しておきます。

【言葉や文字が、信用できない時は どうするのか・・】

もともと、私は・・(禅の)始めっから、言葉・文字を、黒ゴマを並べた(小さい文字の例え)共通の意思の処方箋に過ぎないとの観点です。その人の「行い」だけが、真の薬である・・との立場です。しかも千年後の「行い」の評価だけを、ホントに信じてもイイことにする・・との覚悟で書いています。

では・・千年後に残る、人間の価値とはどんなものでしょうか・・多分、芸術(文学、絵画、音楽など)位しか評価の対象にされないでしょう。

では・・いま、自分や、周囲の生活に関係する「行い」を基準にした場合、どれだけ本当のことがあるのでしょうか・・?

愚痴を言ったり、言い訳したり、釈明したり、争って自己主張したり・・これは、大事な行いが、自分であれ、相手であれ、不十分な、信用できない状態(出来事)です。

いま、ここで自分がしている勉強や遊びや、掃除や買い物の手伝いや・・一つひとつの「行い」のツナガリに、自分が自分を信じられる「生き方」であってください。

それが「独りポッチ」で生まれ「独りポッチ」で生き「独りポッチ」で死ぬ・・宇宙でただ一つの遺伝子を持っているアナタの元服(自覚)であると思います。

以下、私は、このように、誤解だらけになってしまった「禅者の至言」を読み解きました。

Q随所作主 立處皆眞(ずいしょに しゅとなれば りつしょ みなしんなり)とは?

この禅語 出典は、臨済碌(行録)にあります。

(参考:平常無事 第11講 提唱 足利紫山著、出版 大宝輪閣)

    師 衆に示して云く、道流(どうる/皆の衆)・・

    仏法(禅)は功を用(もち)ゆる處なし。

    ただ これ平等(びょうじょう)無事なり。

    屙屎送尿(あしそうにょう/大小便)、着衣喫飯、困んじ来れば すなわち臥す。

    愚人は我を笑う。智はすなわち これを知る。

    古人云く 外に向かって工夫をなす。総にこれ癡頑(ちがん)の漢。

    なんじ しばらく随所に主と作(な)れば、立處皆眞(りっしょ みなしん)なり。

    境きたれども回換(えかん)することを得ず。

    たとえ従来の習気(じっけ)、五無間(ごむけん)の業あるも、  

    自ずから解脱(げだつ)の大海となる。

意訳します・・ある時、臨済老師(禅・臨済宗開祖)が示衆(じしゅう)した。

わが(臨済の)禅は、世の中に貢献したり、修行努力して有徳の人に成ったり、造作、計らいで悟道に至るような、そんな工作物ではないぞ。

ただ・・ただ・・毎日、日ごとの行事、仕事や生活ごとに、イキイキ、ピチピチ、やれているかどうかが百点満点の目安になるだけだ。

馬鹿正直になって、誠実に、暮らしが出来れば、その人の真の価値は自ずから、よく自覚できよう。世間体ばかりを気にする愚者には解かるまいが、禅者なら、その行い(禅による生活)が認知されよう。

心外(他)に向かって、何事であれ、忖度(そんたく)、造作をする者は、南半球で、北斗星をさがすような愚かな遭難者だ。

見る時は、造作なく(無心)に看る。聞けば、ソノママ聴く。花の香りも、至る所、すべて、大過なく、チャントちゃんと・・グズグズせずに対応できる。そうゆう主体性を自己の柱に据え付ければ、まずまず一安心の禅者であるといえよう。

ナカナカ出来ることじゃないが・・。

マア・・スマホを手にすれば、スマホに心を奪われ、著名人がオナラをしても有難がる・・私は、そのタグイの人を独立していない(足のない)幽霊ビトと云っている。生まれてからの「知ッタコト」・・人間五感から得た情報はソノママだと五欲となる。これを禅では「業」というが、坐禅でクリーニングせなアカン。

その努力の禅境(地)が・・至る所、なすこと、やること・・全部がピチピチ、イノチが輝くことになるように・・。              

【随所作主 立處皆眞】独立して、立ち居振る舞いをしっかりと行え・・周りは口先ばかりの愚痴・言い訳の幽霊ビトばかり・・ソノヨウニなるな・・の意。

臨済義玄(?~867 黄檗希運の弟子 禅・臨済宗開祖)

*この同義に「脚下照顧・看脚下」/「門より入る、これ家珍にあらず」などあり。