◆元服の書・・口にワダのくつわをはめられ、泣けど声も出せない人買いの船・・

元服の書⑳ 2018-11/10・・改稿しました。  

これは謡(室町期)の一節ですが、独裁の国の拉致やISの人質など、現代社会で行われている悲劇でもあります。一休さんの生きていた時代は、こんな世相を地獄と呼びました。

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

深秋の夜長、風狂の禅者一休「狂雲集」(中世禅家の思想・市川白弦/岩波書店)を看ていたら「この時代の生活の中に一休がいる・・ここが地獄だ」・・(禅で言う)わが心の内に地獄があるとの意ではない・・の文句に遭遇した(解説566~567頁)

衆生本来 佛なり」というのは空ごとにすぎない。

あきらかに偽りである。偽りでないというなら、その証拠を見せるがよい。

このように一休は問うであろう。

室町時代は「おあし」の言葉が普及する貨幣経済と租税の、悪政の支配は農民にまで及びました。加えて、洛中飢饉、乞食数万、悪疫流行、人々相食(あいは)み、骸骨路上に満つ・・この娑婆(しゃば 現世)の辛酸苦渋の生活・・そのものが地獄であり、禅(悟り)の実践道場だ・・と一休は喝破して、狂雲の暮らしにドップリと漬かりながら生きていたのです。

寛正二年 餓死三首(の一つ)・・

極苦飢寒迫一身   飢えと寒さは身イッパイに

目前餓鬼目前人   今、目の前に餓鬼を看る

三界火宅五尺躰   この火宅から逃れれようもない

是百億須弥辛苦   この世は地獄、辛苦そのものだ。

一休は、禅僧であるが、1461(寛正2)年、餓死三首の漢詩を作った年(68才)6月16日、大燈国師の頂相(肖像画)を大徳寺に返して、親鸞浄土真宗の信者となった。

   前年、大燈国師の頂相を 賜うこと辱(かたじ)けのうし、

   予、今、衣を更(あら)ためて浄土宗に入る

   故に ここに栖雲(せいうん)老和尚に還(かえ)し奉る。

  離却禅門最上乗  禅という最も優れた法を離れて

  更衣浄土一宗僧   これからは、浄土真宗の信者です。

  妄成如意霊山衆    わが分際も図らずに、徹翁の宗徒となり

  嘆息多年晦大燈  永年 大燈をくらましたるを嘆(なげ)きます。

   

宗教で祀り上げられた禅僧ではなく、本音のただの禅者(信心は親鸞浄土真宗)一休になったわけだ。

風狂の自由人、一休の遺偈(死に際の一語)は「須弥南畔(しゅみなんばん)誰か我が禅を会す。虚堂(きどう)来たるも、半銭に直(あたい)せず」と、尊敬してやまない中国の禅者、虚堂智愚(きどうちぐ)に「今の我が生き様(境地)は解かるまい」と断言している。

しかし、死ぬ間際であっても、大道を独歩して、梵天に糞を捧げて感謝しようする気概(ド根性)のある禅者でした。

このように、禅を宗教・宗派(寺僧)に拘泥しない、禅による生活の自由人・・禅者・道人は、鈴木正三や乞食の雲溪桃水、大愚良寛、仙厓義梵などなど・・中国や日本に相当な数の人がおります。順次、禅語録や至言に出くわし次第、紹介していきます。

別奉魯愚「禅のパスポート」素玄居士、提唱で紹介の通り、禅は、釈尊、達磨の時代から、寺僧の集団で教導できる「宗教(教え)」ではなく、独り一人、坐禅して悟るものとされています。

禅は独り一人に備わっており、求道の深浅はあれど、それぞれが坐禅を通じて悟り体験するものだ・・との原点に返る時が、遅きに失したかも知れませんが来たのです。

 

現代、テレビ・アニメや、頓智一休さんのイメージが随分、誤って形成されてきました。室町時代そのものが狂雲の生活であり地獄であり、歴史でした(五山文化こそ虚構でありバーチャル社会と同義です)

そんな環境の中での真の自由人(因果応報に騙されない)不昧(ふまい)の一休さんは、森女との同棲、禅者であり、かつ、親鸞に魅かれて浄土真宗の信者となられたのです。

今時の観光拝観禅や、一休、良寛の書を有難がり高額で取引し、マスコミがもてはやすZENブーム・CM-ISM、瞑想による心落ち着くヨガ・ゲームから解放して、自由奔放の禅者にしてあげたいものだと思います。

 

現代は・・飢饉や疫病、悪政に苦しむ六百年前と違うとは言え、スマホやTV、IT依存症に、テロや亡命、不法移民の大移動。国民を餓死させても核開発やミサイルに現(ウツツ)をぬかす・・ごく一部の高額所得者や独裁的強者が、経済や国境を仕切る電磁的社会です。

一見、平和を装っていても、過年、北朝鮮の国家テロ、韓国機爆破の犯人として韓国の飛行場で、猿ぐつわをされて連行された・・アノ女性の姿・・さらに北朝鮮に40年あまり、拉致されて帰ってこれない横田めぐみさんをはじめとした何百の人たち・・口にワダの轡をはめられ泣けども声も出せず・・の姿こそ、規模・形態こそ国際的であるとしても、観阿弥の謡と相対して、アマリ変わらない風景ではあるまいか・・と思うのです。

純禅の一休宗純を語るには、漢詩の読みづらさはありますが狂雲集が必携です。真実とは、何はともあれ、五百年か千年か・・以上の時間が必要です。仏教でいう「業」です。有(会)難とうございました。

【附記】

一休宗純(1394~1481)・・南北朝統一1392年

*寛正の飢饉・・1459~1461年 長雨・異常低温・台風などによる北陸、関西、山陰地方で中世最大の飢饉。京都では10万有余中、餓死者8万人以上。土一揆発生。加茂川の河原を屍が覆いつくしたという。(一休65才~67才)

応仁の乱1467年~1477(一休73才~83才)

閑吟集・・1518年成立、悪政、戦乱災害の室町期、庶民に流行した編者不詳の狂歌謡集「何せうぞ くすんで一期は夢よ ただ狂え(我を忘れて、のめりこめ)」の小唄1節・・「人買い船は沖をこぐ、とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ 船頭どの・・」

観阿弥(室町期)謡曲「自然(じねん)居士」・・人買いの手に落ちた幼子を自然居士が助ける能・・「口には わだの轡(綿で作った猿ぐつわ)をはめ、泣けども声が出でばこそ・・」遊女虐待の風景を描く。

*愚禿親鸞(坊主頭の庶民しんらんの意)は、妻子あり、弟子一人も持たず、ただ1回、南無阿弥陀仏と唱えれば、浄土に行ける・・と庶民に説いた方でした。

私(加納泰次)は、役立たずの「独りポッチ坐禅」を提唱する禅者ですが、親鸞浄土真宗)を信じます。