至道の禅語⑺ 放下着(ほうげちゃく)

至道の禅語⑺ 

放下着(ほうげじゃく)とは・・?

 「断・捨・離」のことですか? 

             ・・違います

中学・高校生の・・求道の問い(禅語碌の至言の意味)に答えて書いています

昔、この禅語を「下着を放って素っ裸で生きること」と解釈した人がいたそうですが、あながち、ひどく間違っているとは言えません。

*この禅語 出典は、禅語録「従容碌」五十七則に出ている公案です。

厳陽(げんよう)尊者、趙州に問う。

「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、如何(いかん)」

・・何ものも持ち込まない(禅境地)なら、どうでしょうか・・

趙州云く「放下着」

・・肩の荷を下ろしなさい・・

厳問う「一物不将来、この何をか放下せん」

・・無いのにおろしようがありませんが・・

趙州云く「恁麼(いんも)ならば、担取(たんしゅ)し去れ」

・・それなら(無いのに捨てようがないのを)担(かつ)いで行きなさい・・

 

いらないガラクタが部屋イッパイにあって、「断捨離」しなさいとアドバイスされて、きれいサッパリした・・けれど、また、しばらくしたら、ゴミ屋敷になってしまった。

中国の悪口に「飯袋子(はんたいす)・・食べるだけが能な、愚かなメシブクロめ」とあります。

これは、生きると云うことは、ゴミを出すこと・・人間、悪臭無限の宿業(カルマ)を言い表していますが、なんとか、そうしたゴミの山から抜け出したいと思う気持ちが「断捨離」になったのでしょう。

自分の執着心と行為の結果を反省して、ナントか断捨離したいという願望になった訳です(つまり・・執着心や願望を断捨離しない限り、再び、ココロがゴミ箱になり、次いで部屋がゴミだらけになる繰り返しになりましょう)

自分の意識や心掛けを戒める「断捨離」と、自我意識(執着心)そのものを坐禅(禅)によって解き放ってしまえ・・と言うのとは、根本から違います。

禅語「放下」は(着、語助で意味なし)・・放ち、肩の荷を降ろすこと・・の意です。

何もないココロから、何を捨てるのですか?・・の厳陽の問いに趙州は、にべもなく「それじゃ(その思い・・妄想を)担いで行きなさい」と突き放しました。

厳陽尊者が、趙州の意を解して、煩悩(思い)を放下できたかどうか・・この語録・公案には書いてありません。

執着(欲望)心を放下することは、坐禅をもってしても、そう簡単にできることではありません。

人間の「思い(妄想)はアタマの分泌物」として、そう簡単に、アタマ手放しは出来ません。この言葉は、曹洞宗の師家の方が書かれた本にありました。

【放下着】人生 ハダカ(心・・浄裸裸)で生きるべし・・の意。

どうやら、下着まで脱ぎ捨てよ・・素っ裸(のこころ)で生きよ・・と解しても、さほどに違いがありません。

人間は言葉や文字で自分の心を飾り立て、言い訳し、正当化し、ナカナカ正直にはなれません。

この覚悟の生き方は、どうしても、(3分間)独りポッチのイス「坐禅」でなければ、得られる禅境ではないのです。