元服の書 NO30 羅漢(ラカン)とは、どんな人?

Q:羅漢と真珠(題名)の由来について教えてください 

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

タイトルとした意は・・「羅漢」は、阿羅漢(独り坐禅をして悟道に達した禅者の意)と、中国、実在の禅者=羅漢桂琛(らかんけいちん867~928)にもとずきます。

彼は座下の求道者に垂示している時、戒律は行儀(集団作法)を規定する意味のものにすぎず、解脱(悟り)を導くものではない。自分が望んでいることは、如何なる言葉や概念でもってしても達せられるものではない・・と、戒律を捨てて禅 行脚(修行の旅)に出た。

ここからは、鈴木大拙著「禅ニヨル生活」Living by Zen 禅選集3(株)春秋社を引用します・・

禅は、ソノモノ自体に成りきって行くという立場であるから したがって単なる形式・崇拝を嫌悪する。形式・主義は人を束縛するのみであり、精神的自由に寄与するところはない。(中略)禅は 人為的な修行の規定や論理の束縛からの解脱を目的とする。換言すれば 禅は概念から自由になろうと欲する。人間は 概念を創り出し、それによって実在を左右しようとする唯一の存在である。しかし概念では実在は汲みつくせぬ。(中略)・・人間を真に自由にし、解脱させ 自身の主人公たらしめる禅の方法は、あらゆる概念、主義を容赦なく拭い去る徹底した否定・・もはや否定すべき一物もない 絶対否定に達する・・これが大いなる涅槃である。

一人の仏教哲学者が尋ねた「涅槃とは何ですか」

大珠が答えた「それは生死の業(ごう)に身を委ねないことだ」

「生死の業とは何ですか」

「涅槃を求めること・・汚濁を捨て清浄に執着すること・・獲得と到達のあるところに生死の業はある。また相反する観念を取り除こうともせぬ、これもまた生死の業である」(一切の知的努力、分析検証を捨てなさいの意・・臨済(?~867)は「造作することなかれ」盤珪(1622~1693)は「不生」で片付く・・と述べている)

「では如何にしたら解脱は得られますか」

「最初から人は束縛されてはいない。だから解脱を求める必要はない。ただ「這箇」(しゃこ・・ソレの意)を用いよ。ソレを行なえ・・それこそが比類なきものだ」・・

禅に関心のある方は、参考に、仏教学者・禅者である故・鈴木大拙著の禅集を読まれることをお奨めします。

真珠は・・満月の深海で宿った真珠を、今 この手に載せてみよ・・の公案です。真珠は、もともと、貝の中に異物が入り込んで、それをくるんだものが真珠だとか。

これは坐禅にピッタリの例えでしょう。

禅(坐禅)は、無功徳・・宇宙でただ一つ、何の役にも立たない行いです。価値も付加価値もない、ゴリヤクなしの行為です。

ですから、独りポッチのイス坐禅で、深く、自分の内なる声を探索なさることです。ただし、焦らず、リラックスして、まずは3分間ほど・・!

とりわけ絶版の素玄居士の意訳・無門関や、他、碧巌録の、心に刺さる一語を座下に置かれると、想いや欲気の消失が自然です。

有(会)難とうございました。