◆元服の書 ㉛ 生きるべき道と風に舞う無性のホコリ

庭掃除をしている禅者に、求道者は云った「大悟されたアナタが、今さら掃除をする必要はないでしょう」

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

そしたら、すかざず「ホラ・・また(迷いの)塵が飛んできた」と、厳しい一語がお返しされた。

   これは、たしか趙州の言葉として、趙州録か・・で見た禅語だが、  

   今 確認するヒマがないので関心のある方は調べてください。

 「人の生きるべき道とは何か・・」

貴方にウッテツケの禅話・・中国唐代120才まで、禅を教導した趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん778~897)の禅語録から、その答えを紹介します。

師の南泉に「如何なるか是れ道」と尋ねた趙州に「平常(心)是道」びょうじょう(しん)ぜどう・・と一語されて、ソノママ大悟した有名な逸話は・・(はてなブログ/禅のパスポート)素玄居士提唱、無門関十九則で意訳中、近日 掲載します。

今回は 小さな禅院を構えた、老熟した趙州に問答する求道者(趙州録)の一節です。

   問う「如何なるか 是れ道」

   師云く「墻外底」(しょうげてい・アンタの歩いてきた小道は垣根の外だ)

   「者箇(しゃこ)を問わず」(ソンナ小径じゃありません)

   「什麼(いんも)の道をか問う」(いったい、どんな道だい?)

   云く「大道」(大きく沢山の人が歩む道のことです)

   師云く「大道透長安」(ナンダ・・大道は長安の都に通じているよ)

 何か・・問う求道者と趙州(禅者)との間でチグハグです。

上から見れば重なって見える会話でも、横から見れば隙間のある チャントした対話になっていない空回りの問答です。

「ドウシテカナ・・?」と感じた、ソノママで、あとは独りポッチの坐禅をして、食い違い・行き違いの発見は、アナタだけでしてください。柔道とか茶道とか、ゴルフ道とか・・ナンでもカンでも「道」をつけたがる日本人ですが、ゼッタイ「禅道」とは云いません。「座禅」とも書きません。

「平常心」とは、スポーツなんかでいう日頃の「非常/平常」の比較から言っているのではありませんし、大道とか小径とか・・対比、大小、分別、差別して趙州は語りません。

趙州には「道は足下」にあり。風に舞い上がるゴミや落ち葉を掃除しているだけなのです。この生々溌剌(はつらつ)な禅境(地)に到るには、大悟して、なおも三十年の修行が必要だと無門は云っています。

 無門曰く 

 趙州たとい悟り去るも さらに参ずること(坐禅)三十年にして始めて得(う)べし。

禅は、仏教の一部として寺僧の教導がありましたが、育ててもらっただけで、本来、仏教(宗教)ではありません。

また、哲学や道徳/倫理・論理的検証の学問でもありません。

ただ・・無功徳(むくどく、ゴリヤクなし)の独り坐禅で、自己発見・発明(悟り/見性)して「禅ニヨル生活」を行っていくだけ・・のことなのです。

私は、坐禅の初歩・・はじめっから終りまで、何かゴリヤクのある「坐禅」と考えず、何も役立たない、効果効用のない坐禅をすることが、純禅の在り方であり、釈尊や達磨、禅語録に登場する禅者の「禅ニヨル生活」であると思います。

貴方が「人の生きるべき道とは?」・・と、内側から湧いてきた「?」を大事にして、この奉魯愚で記述した・・サモサモの解説で納得しないことを祈ります。またテレビや本やスマホ情報、お仲間、団体・組織などあらゆる 社会の干渉から離れて、先入観念に影響されることの無いように。

但し社会生活は、誠実に協力していくことは当然のことです!

 あると思うな親と金!

   ナイトオモウナ運ト災難・・

欣求宗教・組織的教導や知識・薬物による依存は、最も悟りを妨げる出来事です。読み捨てにして、一日1回でも、たったの3分間・独りポッチのイス坐禅を為されますように。一番厄介なゴミは、捨てても捨てても増殖して湧いてくる・・言葉・文字による(頭の中の想い)妄想です。わずかに、3分間ほどの独りポッチの坐禅だけが・・空気清浄機のように毎日のゴミを吸い取って、無性(無聖・無償)で霧消してくれるのです。

有(会)難とうございました。