至道の禅語10「雨滴声(うてきせい)」・・雨は「寂寥」を感じさせる♪♬・・だ!

〇⊡。・□⊡。様 

静かに雨音を聴かれる貴方に禅語「雨滴声」(うてきせい)を贈ります。          

拝復。大好きな雨音を聞かれているのですね。

以前、チョット「独りイス禅」の仕方をお話ししましたが、

その「公案」(坐禅時に自分に問うこと)・・ウッテツケの坐禅テーマを紹介します。

中国、浙江省にある鏡清(寺)に住持した道怤(きょうせい どうふ 868~937 雪峰義存の弟子)が、ある夜ふけ傍らにいる求道者にたずねた。

鏡清「あの窓の外の声(音)はナンダだ」

求道者「ハイ・・あれは雨がパラパラ降っているのです」。

鏡清「ああ、やっぱりお前さんも、己に迷って物(音」を逐(お)うか・・」

求道者「誰が聞こうと雨は雨の音です。ご老師はいったいどのように聞かれたんですか?」

鏡清「近頃 どうにか そうした思いに振り回されずに済むようになったよ」

求道者「どうゆうことですか」

鏡清「そのままを説明することは難しくないが、アリノママはナカナカ表現できないことだ」

             碧巌録 第四十六則 鏡清雨滴声

       【本則】挙す。鏡清 僧に問う「門外は これ何の声ぞ」

        僧云く「雨滴声なり」

        清云く「衆生は顛倒(てんどう)して己に迷い物を逐(お)う」

        僧云く「和尚 そもさん(どうなんですか?の意)」

        清云く「ほとんど己に迷わず」

        僧云く「ホトンド己に迷わずとの意旨(いし)如何(いかん)」

        清云く「出身はヤヤやすきも、脱體(だったい・具体的に)に云う

        のは難い(真実に即してはナカナカ答えられない・・の意)」

これは「雨音」から禅の世界に入りなさい・・との問答です。

禅は仏教ではありませんから、欣求・祈願はありません。

悟り(自覚)を得る坐禅をしているのに・・雨音から入れは異なことです。鏡清に問われて、雨の音を素直に「雨の音」と答えたのに「雨の音に騙(だま)された・・(雨の音を追いかけまわして)捉われてしまったオノレがいるだけだ」と云われたのです。鏡清老師が、雨の音を知らないで「何の音か?」と問うた訳ではないことに注意!

せめて坐禅の最中は・・耳(聴覚や眼・視覚など五感)で見聞するのでなく・・つまり、雨音に憑いて回ってしまうのでなく・・まるで、眼で聴き 耳で看るように坐禅で感じてみなさい・・と云う訳で・・イヨイヨ独り坐禅のスタートです。

 

独りポッチで坐禅するのは、生まれてくる時も、いま息をして生きている時も、そして死ぬ時も、独り(ポッチ)だからです。父母や、誰かが傍にいようと、誰もが、実は「独り(ポッチ)」です。坐禅は、仲間と一緒にするのは止めましょう。チョットした一人の時間・・大事な「寂寥」を知る時間を、ザワザワ(心が気を取られてしまい)お勧めできません。

坐禅は、難しくはありません。姿勢を正しく、まっすぐに伸ばし、椅子に坐り、眼は半眼に2メートル先の床を見るようにします(半眼にするのは、眠らないためと、妄想(思惟)が起こりにくくするためです)一呼吸が約10秒程度。「ヒトーツ・・フターツ~」と数えて「ムーツッ」で、もとの「ヒトーツ」に戻る・・繰り返し3回。計18回の数息観で3分間ポッチ、独りポッチの立派なイス禅の・・難しい効能書きで言えば「入流亡所 所入既寂 静動二相 了然不生」の姿です。

こんな難しいこと、知らないで結構です。

このことは 不生禅(盤珪永琢 ばんけい ようたく1622~1693)が述べられているように・・「坐禅は仏(覚)心の異名なれば、外に相を求めず借らず、万事につけ貧著(とんじゃく)のなきを坐禅といいまする。もしまた坐禅とて坐を求めて坐したらば、坐して悟りを開かんと思い、あるいは見聞の主を見つけんと思うは大きな誤りでござる(盤珪禅師説法 下=九 不徹庵本)

それだけに、雨音の好きな人にこそ「雨滴声」の坐禅をお奨めします。初めの内は、3分間といえど坐禅の呼吸ひとつ・・ままならないでしょう。

 気が散ったらおやめなさい。

また次の雨降る日、耳を澄ませて・・その「雨」を「雨の音」ではなく、呼吸にシンクロさせて坐禅するようにしてください。

3分できれば、もう3分・・時間など長くても、短くても、どうでもよいのです。先の「坐禅の心要」の壺中日月長・・が、「雨中日月長」に感じられるかも知れません。

ソレトモ・・頌にある「南山北山 転(うたた)霶霈(ほうはい)」・・どこの山の景色も いや増して土砂降りの雨もよう・・になるやも知れません。

 

一休さんは雨に感じて・・「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)にかえる一休み。雨降らば降れ、風吹かば吹け」と雨滴声されました。

山頭火は「しぐるるや道は一すぢ」また「春雨の夜あけの水音が鳴りだした」と。

良寛さんは・・「五月雨(さみだれ)の晴れ間に出でて眺むれば、青田涼しく風わたるなり」と云う日もあれば、夜更けに道元の禅語録を読んで、共感のあまり本を涙で濡らし、明朝、訪ねてくる人が、どうして本が濡れているのか・・と聞かれたら、屋根から雨がもって濡れたんだと言い訳しよう・・と漢詩で書かれたこともあります。

・・良きかな愚の如く 道うたた寛(ひろし)・・詞の頭と尾の文字を取って大愚良寛と名乗った、私の最も尊敬する禅者です。

この他・・「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・みんなに木偶の棒と呼ばれ・・」宮沢賢治

童謡「♪アメアメふれふれ母さんが、蛇の目で出迎え うれしいな・・ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪」北原白秋作詞 中山晋平作曲・・

雨は、禅で一番大事な「寂寥・・独り」を味わう最良の♪♬・・です。

誰にも、誰のモノでもない独り一人の「雨滴声」がありますね。

                                                                          有(会)難うございました。