坐禅の数息観って何ですか?

元服の書 ㉟

坐禅の数息観って、なんのことですか・・

なぜ「役立たずの坐禅」を薦めるのですか・・

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の求道の問いに答えて書いています

昔から、禅者の坐禅の時の呼吸法を云います。

普通、1呼吸(約10秒程度)の吐く息を「ヒトーツ・・フターツ・・」と数えて「ココノツ・・トウ!」と数え、またヒトーツに戻って繰り返すのですが、私は、「ムゥ-ツ」まで数えて、また最初に戻ることにしています。

これを3回=計18回すれば約3分間です。自然、6分とか10分とか・・寝る前など、もう目が半眼にならずに閉じてしまい、寝入ってしまうことも多くあります。

役立たずにしても、グッスリと眠ります。

中国では、千回・・1万回、呼吸を数えたそうですが、逆に、数えることにコダワッテしまい、夜坐して、朝まで呼吸を数えて過ごしてしまう・・肝心の坐禅をしていない人まで出現しています。

寺僧の教導による坐禅の仕方は、集団修行方式ですから、規律や形式が決められており、私はお奨めしません。例えば、調身・調息・調心の順に、まず体がスワル・・結跏趺坐(けっかふざ)半跏趺坐(はんかふざ)を教えますが、「足が死んだ」と悲鳴を上げる外国人もおり、こんな痛い思いまでして、リラックス出来る訳が無いのです。

せいぜい、つらい痛みに苦しんで、疲れ果てて止めてしまう人が多いのも納得です。イス禅は、ただ・・イスに姿勢よく坐り、眼を半眼にするだけでよいのです。手の組み方(印相)も、法界定印(ほっかいじょういん)とか、降魔坐ではドウとか、約束事や型(タイプ)がありすぎて、うんざり。イス坐禅は、自分の身体が楽になるよう、坐り方も、時間も、好きなだけを、自分で決めればよいとしておきます。

体操ではありませんので、深呼吸や、肩や胸で呼吸をしてはなりません。自然な、寝ている時の腹式呼吸ができれば最高です。

朝、起きる前、寝た時・・寝姿のままで、10秒程度の呼吸を18回やれば、数息観、独り3分間ポッチのイス坐禅ができます。

ところが・・喧騒の社会は、例え3分間といえど、なかなかヒタスラな坐禅などさせてはくれません。

やってごらんなさい。

周囲の雑音の酷いこと。テレビやスマホがガナリ立てている・・犬・猫、自動車の騒音がヒッキリナシ・・ウルササ(五月蠅)と、妄想(思い患う)に、たちまちトリコになり、何のために坐禅がしたくなったのか・・

目的が解らなくなってしまうのです。

何か坐禅をすることで、悟りが開けたり、心が落ち着き、集中力ができ、呼吸が調うことで長息(生)出来る・・そんな期待をしてはなりません。

禅は、この宇宙(神羅万象)が、自分にとって何の役にも立たず、価値も無価値もない「空=無」であることを実体験することにあります。そのキッカケが、自分の心のどこから湧いてきたのかワカリマセンが「坐禅・瞑想でもしてみようか」の思いであり、「禅」とは何だろうか?・・の疑問?であり、好奇心?です。これをタネとし、太陽の光と雨水のような坐禅で、大樹に育ってくれれば・・「心配するな・・ナルヨウニナル」一休宗純の禅境(地)に迫れる禅者となりましょう。

坐禅の仕方や、寺僧の教導、文字(言葉)、哲学、心理学、脳科学に頼るのではありません。

それでは、とうてい解決、安心できない・・宇宙でただ一つの?・・それが「ZEN」です。

浅はかに、教えを乞うたり、欣求(祈り)したり、解説本を読んだりすれば、悟り(真理)が理解できる・・などと誤解してはなりません。

妄想にとらわれず、すみやかに坐禅三昧になる・・とは、よく言ったもので、ソンナ簡単なものではありません。まったくの嘘っぱちです・・

犬に大覚(悟り)はあるか?の求道者の問いに、唇から光を放ったと伝えられる禅者、趙州従稔は「無」と答えています。

(無門関 第1則 趙州狗子)

彼は120歳まで長生きして、禅を広めた方ですが、その語録の内に、ほとんどの欲望、妄想は雲の如く消え失せたけれども、ナカナカ大変だったのは「食欲」だった・・と述べています。

本能が思考や感性(愛憎、宗教・芸術)の原点であるのは間違いないにしても、私の場合・・数息「イツーツ」・・たったの50秒ほど経過しただけで、はや、欲望や想いが湧き上がってくるのです。そう簡単に「無心」になんかナレマセン。

そこで「ム―ッ」と数える時・・「無—ッ」と、趙州無字に置き換えて、想いに囚われぬようにしています。いつの間にか・・坐禅公案の拈弄(コネクリ)になるようにしています。

有(会)難うございました。