「禅とは?・・シリーズ」やさしい坐禅の仕方⑵ 元服の書NO㊳
*中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています*
◆坐禅で一番大事なことは息の仕方ですか?
それとも坐り方ですか?
公案を拈弄(ねんろう)することですか?
◇何が大事・・と問われれば、呼吸です。
ただ独り(イス)に坐って、ただ息をすることです。
これを役立たず(無功徳の達磨)坐禅といいます。
お寺の坊さんになる修行なら ともかくも、現代の青少年に、坐禅の坐り方・・結跏趺坐(けっかふざ)とか半跏趺坐(はんかふざ)とか・・をさせて、イヤになって止めてしまう例があります。アメリカの青年が禅寺にきて坐禅した。
それが・・わずか数分で「足が死んだ」と叫んで道場を飛び出し、戻って来ませんでした。
まったく愚かな教導です。
足の組み方が間違っていたにしても、イス禅や寝禅したりしても、全部・・坐禅の内です。
むしろ問題なのは、坐禅や瞑想は本などを参考にして、自分一人でできるのに、わざわざ知人・友人を誘ったり、何か資格や免許のあるかのような仕組みの・・教導を求めたり、指導料をとったり、取られたりすることを、当然とする習慣が良くないと思います。
坐禅や瞑想で、迷いや不安感がなくなり、集中できて時間を忘れた・・と言われるかもしれませんが、三昧(ざんまい)の境地など、別段、誰から教えられなくとも、面白い(楽しい)事や、何か役に立つ事をしている時は、誰でもソンナ心境になることができます。
職人の仕事や茶華道などの芸事に限らず、アスリートや、幼児のママゴト遊び・・パチンコ、賭博だって三昧の境地に入って出来るのです。
坐禅や瞑想は、もともと三千年前から、インドが発祥の地です。
要は「独りで呼吸を整える」事が大事です。
また、息という字は「自(おの)ずから」の「心」と書きます。おのずから・・とは、貴方自身が、計らいや造作しない、妄想のない状況です。終日働いていようが、遊ぼうが、坐禅・瞑想しようが、寝ていようが、自然(じねんと呼びます)のままに「数息(呼吸を数える)」が生(な)されれば・・道を求める者、まず初め、形を忘(わ)する・・の境地でしょう。
ありていに言えば、心臓や呼吸が、頼みもしないのに勝手に動いている・・このことに、誰かの教導がナンデ要(い)るのでしょうか?
まるで「青信号!皆で渡れば怖くない?」
心的自己免疫過敏症と言うべき出来事です。
私は、眼を閉じる「瞑想」をすると、かえって妄想したり、眠くなるので、眼を半眼にしての独りポッチのイス坐禅をお奨めしています。息は1呼吸10秒程度「ひト~ツ・ふタ~ツ・・むぅ~ツ」・・と数え、計3回繰り返す。合計18回、約3分間ポッチの数息(スウソク観)でOKです。これを寝る時、起きる時、トイレの時、電車や信号待ちの時、働く前の時、授業の前や、スポーツの前、休憩時間ETC・・おりおり気づいた時にやってごらんなさい。
3分間独りポッチのイス坐禅は、やらねばならぬ・・とやっては長く続きません。
フト・・「あ、そうだ」と気づいた時に無理せず行うので充分です。
貴方の心が「あ、そうだ」と気づく・・
これが大事な「禅」への入り口(玄関)です。
玄関・・禅語・・初めの関所の意。他、普請、作務、造作・・など禅語。
何べんも何べんも、何の効果効能がなくとも、気づいたら、すぐにしてみることです。
3分間・独りの場・数息坐禅のTPOを弁(わきま)えましょう。
【附記】熱帯のインドで発生した坐禅(瞑想)は、涼しい木陰の大地、石上に、独り坐って「静慮」しました。
釈尊は六年にわたる入山。苦行してやせ細り・・ヨウヨウに下山。スジャータの山羊乳(施こし)を受けました。そして菩提樹下、体調を整えなおして、安らかに坐禅され・・明星の輝きをご覧になって大覚(見性・悟り)したのです。
心体ともども(コンデション)が、ベストでないと、正観できないとされたのです。また、赤道直下、日夜ともに暖かかければこそ、大地に直に独りが坐す・・坐禅が出来た訳です。
日本のように雪が降る国で「足が死ぬ」ような・・我慢大会の修行は、坊さん養成道場に任せて、関わらぬようにしましよう。
坐禅は文字通り・・人が土の上に、バラバラ(独り)に坐る姿です。屋根のある土間に座る「座禅」・・新聞や本で紹介される「座」の字は、本来の坐禅にふさわしくありませんので、私は採用しません。
もともと・・坐禅も瞑想も、三千年ぐらい前(仏教以前)に、数字「ゼロ」を発明した熱帯のインドで行われた整体静心の方法でした。
釈尊は、大悟の後、仏教(悟者/覚者の教え)を行脚、布教されましたが、禅については教外別伝(不立文字)として、独り・・迦葉尊者に付託されたのです。文字でも言葉でも表現、解説できない「ZEN」は、海路、ダルマによって中国にもたらされました。
(一説に彼は仏教宗団の誰かに毒殺されたといいます)
中国の禅者たちは、はじめ剃髪もせず、道者と呼ばれて、世の為、人の為、働いておりました。禅には「作務(さむ)」・・住む寺を普請(土木工事)したり、農耕、牧畜したり、生活手段(生業ナリワイ)として働いた・・ことが特筆されます。共産主義の「働かざる者、食うべからず」ではなく「一日、作(な)さざれば、一日食らわず」百丈懐海(720~814)の如く、自主的に、働かないのなら食べないおこう・・とする労働の尊さを大事としたのです。
その後、日本に伝播した禅宗は、すっかり宗教、教団に取り込まれて、今は観光禅に落ちぶれてしまいました。釈尊、迦葉~達磨~以来、一休、良寛など、ひとり独りの坐禅をもって発露したZENが、寺僧の生業と化してしまったのです。
現代は、商いや仕事をしながら、宗教に関与しない禅を求めること・・独り坐禅をすること。
これからのAI・・電磁的社会では、働く独り一人がバランスのとれた心体ともに免疫力を持つことが大事でしょう。体の免疫のことは学者の先生にお任せすることにして、心の免疫は「無功徳(役立たない)達磨禅」・・独り坐禅が担当することになる・・と思います。
有(会)難とうございました。