どうしてコンナに禅の解説本があるのですか?

元服の書 NO44  

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

数息観と公案・提唱について教えて下さい

坐禅の仕方は、どうすればよいのか・・その時の呼吸法は?・・公案の意味は・・よく寺門(般若林や道場)の看板に「提唱」と書いてありますが、どんなことをするのか教えてください・・など、いろんな方の質問に、まとめてお答えします。

◆ある日ある時、釈尊(ゴーダマ・シッダルダ)は、仏陀ブッダ・大覚者・悟者の意)の教え(仏教)を説かれておられた。

そして野辺の花一輪を手にしてクルクルと回された。

傍らの求道者たちは、その行為に意味を見出せず、ただ見守るだけだった。その中で迦葉(かしょう)という者だけが、独り顔をほころばせ微笑した。釈尊は・・文字にも言葉にもできない、覚者の教説(仏教)以外の・・このこと(拈華微笑)を、お前さん(迦葉尊者)に預け託します・・と云われた。

釈尊が、菩提樹下、明星を看て大覚された・・ZEN(禅)の幕開け・・世尊拈華(せそんねんげ・拈華微笑・無門関第六則)・・悟りソノモノを示された行為です。

禅は一人独りに備わっている「拈華」を、独り一人が「微笑」する自覚と、その生活行動です。ですから、沢山の人々の、それぞれの煩悩に応じて、菩提が発生するのです。どうせ他人が文字言葉で説明することは、あてにはできません。マア、自分の一大事だけ、坐禅・集中されるのが良いでしょう。難しい文言や哲学的表現(効能書き)に引っかかってはなりません。自分の心の底から湧いてくる【?】だけに、本当の答えがあります。

提唱とは・・後の禅者達が体得した独り一人の禅境(地)をまとめた・・坐禅(悟り)の道筋を示す(禅)語録を、ナントカ羅針盤らしんばん)に見立てる説明(解説)をすることです。

大事なのは、北を示すコンパスそのものを、ZEN(禅)だと思い込む・・思考の愚かしさに迷ってはなりません。北極・南極・・極点に向かう方角さえわかれば、あとは、独りポッチで極点に向かって歩くだけです。道案内の道具立て(提唱)や教導者など役立ちませんので要りません。人は・・一人で生まれ、ひとりで生き、独りで死ぬだけなのです。

私の母が2日前、103才で亡くなりました。積年・・妹が、老々看護で看とりました。宗教的に云えば・・タブン・・彼岸の中日、亡父が家まで迎えに来てくれたのでしょう・・眠るが如くというより、眠るままに大往生しました。南無阿弥陀仏

いろいろな方のお蔭で、生かされている自分(人間)ではありますが、つまるところ「独りポッチ」です。この寂寥に満ちた「禅による生活」・・が極点である・・と見極めがつけば、私に東西南北を示す地図やコンパスは、もう必要がありません。

その究極の目的地「禅ニヨル生活」を目指して、歩む「行為」が「坐(行)禅」です。

 禅についての沢山の解説本は、集約すれば、釈尊のたった1本の花クリクリで済む話です。

ですから・・禅は、宗教ではありません。

「仏教と無関係に流傳すべきとものと思う」と、素玄居士(提唱無門関・・はてなブログ 禅のパスポート 絶版復刻中)で、断言されておられます。

その心の整え方(数息観)について・・

私は、独りポッチ3分間イス坐禅をお奨めしています。

たったの3分間、周囲に、知り合い(近親者や友人、知人)のいない時・・椅子に坐って、姿勢を正し、眼を半眼にして、一呼吸、約10秒程度、静かな腹式呼吸で6回、ヒトーツ・・フターツ~イツーツ・・ムーツ」と数息して6数息×3度=18回(180秒ほどで)約3分間です。

独りポッチで、この呼吸を数える坐禅の仕方が、一番、妄想とか、雑念が発生しない方法です。出入息観とか出息観、隋息観とか、坐禅の結跏趺坐(けっかふざ)、半跏趺坐(はんかふざ)、歩行禅とか公案禅とか、寺僧の跡継ぎ(養成所)のような専門道場の伝統的形式、作法など、一般人が学ぶ必要はサラサラないと考えます。寝ていようが(寝禅)電車のつり革につかまっていようが(つり革禅)トイレに座ろうが(トイレ禅)、仕事や勉強の休憩中だろうが(休憩禅)・・折々に気づいて3分坐禅できれば、いずれにせよ、まず初関、見性は必ず自覚できます。

かといって、坐禅の時の手の構え(印)は・・とか、途中、数息を間違ったらどうしようとか・・電話が鳴ったらどうする・・とか、お寺で教導してもらったらいくらかかる・・とか、役立たずの坐禅を行うのに、気を遣う習い性こそ よくありません。坐禅にとって厄介なのは、学問知識、PC、スマホをあやつって、誰か、禅者が云っていた「思考は頭の分泌物」・・鼻先に「クソ」つけて屁元をさがす、知能指数だけが高い人たち・・赤信号、ミンナで渡れば怖くない団体さんの人たちです。

決して仲間を作らず、独りポッチで、たったの3分間・・効用効果を期待しないイス坐禅を、やりたい時、無理をせず、実行してください。

寝禅して本当に寝てしまった・・とか、イス禅で両手をどのようにするとよいか・・ソレこそ寝ている時の手はどうされていますか・・こちらが聞きたいぐらいです。

独り3分間イス坐禅が・・造作なく出来るようになるには、2~30年かかると思います。こんな年月も数えるのは初歩のこと。難しく言いますと、達磨面壁禅・無功徳坐禅・・役立たず坐禅・・数息観坐禅を・・たったの3分間・・造作せずに、無心・気楽にやってごらんなさい。

欧米人はナオサラです。私に「父母がある!」と云いますが・・彼らは「父母を持つ!という・・利己的分別の国語の民簇です。「香を聴く」ことなど、概念としてナカナカ受け入れることが出来ない民族です。般若心経の「色即是空」や「空不異色」など、素直に納得できる頭脳構造ではありません。それだからこそ科学発達(の重力発見や相対性理論)は欧米人が得意なのか・・と思ったりします。

それでも中性子の発見理論は湯川秀樹博士だし、これからの量子世界の振る舞いは、日本人が先進、得意(特異)分野になるのかもしれません。

公案・語録は中国の禅者達の問答、禅機・禅境(地)・・「禅ニヨル生活」の一コマが端的に描かれています・・

求道者の問いは、論理的で哲学的でよくわかりますが、それに応答する禅者の言動は、理論的に説明できません。

言葉や文字で説明できない「禅」を、ギリギリの絞り切ったネクターにした言動が端的に描かれているのです。

もし理解した(悟りに到った)といって・・説明した人がいたら100%、完全に間違いです。野狐禅といいます。

日頃の生活の中に、数息の呼吸法が、何の疑義もなく自然に身について(坐禅が)出来るようになると・・公案(禅語録)の禅者(主人公)の振る舞いが、メガネをかけたように、明確にわかるようになってきます。何かコダワリや禅者の言動に引っかかりがあれば、まだピントの合ったメガネではありません。やがて・・突然・・眼鏡もピントもなくなり、こだわりが融け去ります。

自覚します。これを悟るとか・・見性とか言います。

この見性の境地は、牛に例えた「十牛図」で言えば3番目・・探していた牛を発見した段階にすぎません。

見えなかった牛が見えただけでも大したもんだ・・とは云いません。やはり、見ただけで何の役にもたたないのですから。

しかし、役立たずの数息、独りイス坐禅を長年続けていると、スマホ依存の、チャラチャラした人が幽霊歩きをしている様子や、自分に言い訳ばかりして、正直でない、フワフワした落ち着きのない行動をとる人が沢山いることに気づきます。

「禅」は安心を求める人、総てに備わっている「自己発見」の旅です。坐禅という、役立たず(無価値な)独りだけのテクテク歩きです。

あわてず・・焦らず・・一人旅をなさってください。お大事に。

                   有(会)難とうごさいました。