「禅」とはナニか・・?

羅漢と真珠

      禅とは何か?

        坐禅とは何か?  

禅とは、達磨(ダルマ)の無功徳(ムクドク/役立たず)・・を体験・自覚する事です。

  それを「禅ニヨル生活」といいます。

坐禅とは、独り・・(3分間約18回の数息呼吸の間)姿勢を正し、眼を半眼にして椅子に坐っていることです。

 これを寂寥の「独 接心」(ドク セッシン)といいます。

    ・・ただ それだけです。

 道元禅師は「眼横鼻直」と答え、臨済禅師は「乾屎橛」(トイレ紙)と答え、世尊は黙して「拈華」し、微笑した摩訶迦葉に付嘱された「何か?」の・・答えは、問いを発した貴方の・・問いを発した中にこそ、真に貴方の納得できる答えがあります。

何のことは無い・・独り一人にある「禅」は・・自分が自分に問わなければ・・釈尊に祈っても、寺僧に問いかけても、万巻の書を読了しても、絶対に答えは理解できません・・

つまり思考を思考することができない欠陥頭脳の人間が、自分一人で坐禅をする中でしか、自覚・発見できないことなのです。

禅を世界に広めた禅者(仏教学者)鈴木大拙翁は、禅(ZEN)に入門したければ、自分で机の端を、ノック(コンコンと叩いて)そこから入門しなさい!と言われています。

般若心経の初句に行深般若波羅密多時とあります。

何か、エタイの知れない般若ハラミッタを深く行ずる時・・という・・前提条件があるうえで「色即是空」と書かれています。要は、独り坐禅をすることが前提で、釈尊や面壁達磨の・・あるいは、四条大橋の人通りを深山木に見立てて、乞食坊主の独り坐禅があり、不生不滅が・・あるのです。

しかも、この空/無の、自覚・体験を「悟り」(証・覰破・解脱)と云うのですが、煩悩無尽誓願断(四弘誓願)と、何万遍、唱え祈ろうと・・煩悩即菩提の「禅」は、断ち切れるようなものではありません。

せっかく、東洋、日本に禅を尋ねてやってくる求道の人たちに、この電磁的通信手段で、禅の真実をお知らせする次第です。

古に純禅に生きた禅者の面影を追い求めた處で、アナタは、心からの安心は得られないでしょう。

科学的な、対比思考する哲学の西洋文化とスペル文字は、漢字で言う「如・妙」や「無明・心無心」の意味を表記できず、理解できない宿命にあります。まして女性は三界に住することが出来ないとする、仏陀のイマシメ(例え)ですら、今や人権侵害だと糾弾されるアリサマです。本当は・・女性は、母性・慈愛(慈悲)溢れるゆえに、煩悩に執着して消し難たい(捨てがたい)ので・・だからナカナカ悟れない・・の意味なのです

禅は、欣求したり、祈願したりする宗教ではありません。

長い禅の歴史では、寺僧の揺籃を得なければ、伝燈できないことも多々ありました。

しかし、現代・・この日本の禅は寺僧の接ぎ木や温室栽培のおかげで、絶滅危惧種どころか・・天然のアユと同じく絶滅種となりました。

どこの禅寺でも、観光(料)禅と言うべき、寺僧の生活・商売=生業(ナリワイ)に堕落しました。拝観料と称した1カ月の売上げが何百万円とか・・また、例えば、良寛の・・たむし薬や、白紙の紙ほしさに揮毫した禅境書画が、何百万円で取引される、あさましい資本主義の有様です。

いま残された「純禅」の道は、仲間・組織や金銭に絡まない・・本当に「独りポッチ」の無価値な坐禅を、誰か一人でもよい・・続けてくれることです。

悟りや安心を期待しない、無功徳・役立たずの坐禅を、例え3分間でも椅子に坐って行ってくれる人がいればと願っています。それから・・その「独り坐禅」ですら、捨て果てる・・禅境(解脱)となってほしいのです。次回 解説します。

その思いで、無門関・碧巌録の意訳を、電磁的に空中散布しています。

    はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録 意訳中

    ◆はてなブログ 禅のパスポート・・無門関 素玄居士提唱 復刻解訳中

     ◆はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス坐禅の仕方、禅の心禅の話

                              有(会)難うございました。