いつまで坐禅すれば解脱・見性が出来るのか・・

坐禅を長い時間、年月(期間)をやったからと言って、悟れるものではアリマセン。現在、紹介している千年前の禅語録「碧巌録」や「無門関」を読めば解ることですが、登場するどの禅者も、坐禅で悟った(安心を獲得した)禅者はヒトリもおりません。釈尊や達磨、臨済宗の開祖、臨済義玄や、日本の一休さん良寛さんも坐禅中、大悟した訳ではないのです。

ある方は暁の明星をみて・・とか、ある人は、どやされてとか、あるいは掃除の箒にカチンと小石のあたる音を聞いて・・とか、さまざまな機縁(ひょっとした禅機)で突如イナビカリ(雷嚇一閃)を見たように覚醒するのです。

・・と云えば、また、雷が鳴れば悟れるのか・・など、愚かな想いに囚われます。悟りを得たいために坐禅をするのは大間違いです。それでは、坐禅を何故しなければならないのか・・

無功徳(役立たない)達磨禅を薦める理由とは・・

生活(仕事)や子育てなどする内には、苦しい事やつらいことが次々に発生します。明日や1年後まで、持ち越さなければならない悩みや焦りもあります。自分独りでは解決できないこと、その思いや出来事に囚われて振り回されて生きているのが人間です。人生の喜びより苦しみの方が10倍も100倍も多いのが、この人間(組織)社会です。生きている限り、この社会から逃れることはできません。自分が思う限り一人ヒトリ、この悩みから抜け出して自分の思うまま生きることはできません。

宗教や哲学や精神・心理療法や瞑想・坐禅や、趣味や娯楽やスマホやスポーツなど、人生の一時期、何かに救われることはあっても、誰もが独り寂寥の「無常観」を持っており、それを取り除いて楽しい事だけに生きれるものではないのです。

何故(WHY)という【想い】を知ること・・坐禅・瞑想

何か・・自分の為に役立つ、利益になる・・そんなことの為に坐禅(瞑想)がある訳ではありません。社会や自分に価値あることなら、他人を押しのけてもドンドンやればよい。犯罪の隙間をねらってとか、新規の発明で巨万の富を得るとかスレバよいのです。しかし・・人間には・・ヒトリ眠る時とか・・子供の寝顔を見ている時とか・・誰でもに・・寂寥(せきりょう)の時があります。「どうして?」とか「何故?」とか、どこからか、ココロの片隅から湧いてくる「WHY?」の想いです。

この価値なき「WHY」の想いを、タッタ3分間・・数息1回10秒程度、6回(60秒)×3回=180秒・・独りイス坐禅で1日1回やってください・・と、お話しています。

でも、これをしたから何かの足しになるのか?利益になるのか?・・答えはハッキリしています。

絶対に「役に立つ」こと・・ではありません。

坐禅は 禅境の、かえって邪魔になることがあります。

これを、1回60秒程度の「南-無-阿-弥-陀-仏」で3回とか・・「神よ・・我を救い給え・・アーメン」で3回とか・・念仏禅とか、祈り禅とか・・祈っても祈っても神仏は、現世で安心(あんじんと言います)を与えてはくれない・・つまり役だタナイ坐禅・瞑想を推奨するのは・・自分のココロの中の「WHY」に、一番近ずきやすい方法であるからです。仏教でいう、集中とか三昧(ザンマイ)の境地です。

ただし注意を要するのは・・三昧の境地ですら、何かしら社会や自分の利権に役立つ出来事であることです。例えば職人さんとか、スポーツ選手とか、スマホとか・・パチンコ、麻雀だって我を忘れる三昧境地が存在します。

私は愚禿親鸞(ぐとく ハゲバカのしんらん)を信じます。あの方は在家仏教(浄土真宗・・寺を持たず妻帯して)弥陀の本願を説かれました。中世、大徳寺一休宗純も帰依したとのことですが、反対に、親鸞さんは立派な禅者であったとも思えます。妙好人という「禅者もどき」の人を輩出しています。

本願寺の信徒ではアリマセン。キリストは日本流に言えば在家神教の素晴らしい神の子と思いますが、バチカンのキビラヤカな法王さまや神父組織は信じません。山奥の修道院の修行者なら少し信じます。

ヒトリ自分の「安心」は 自分でしか体験認知できません

坐禅は「青い鳥」を探しまわるココロのザワツキ=功徳を無功徳(役立たず)に調心するために行います。

◆たったの・・それだけの事が心底わかったなら・・独り坐禅は卒業です。

坐禅をする・・留意・意識は禅の魔境(地)です。高校を卒業したら、逆戻りで二度と高校に入学なされるな・・といいたい。留年して5年も10年も、坐禅に明け暮れる人もいますが、そんな他人は関知せず、有料瞑想、有料坐禅など・・放っておきなさい。

碧巌録から無門関を読み返すことです。三昧がサトリではないことが体験できます。

坐禅離れの話は、これから順次、禅者の一語でも、禅のパスポートでも展開します。

これは下原稿抜きで書いています。

有(会)難とうございました。