禅・羅漢と真珠
元服の書・・瓦(カワラ)を磨けば、鏡になるか?「磨塼作鏡」マセンサキョウ・・禅の問答。
中国(支那)唐代、馬祖道一が師の南嶽懐譲とした・・坐禅は瓦をみがいて鏡にするようなものだ・・との話。
*中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています*
◆無功徳(役立たず)の「独りイス禅」長年やって悟りを得られますか?
この問いを発した方は、随分の間 禅寺で坐禅をなされたであろう・・と思います。坐禅は安楽の法門であるとか・・精神を静めるためにとか・・空(観・無念無想)になり切ろうとか・・公案を思考して、より評価の高い答えを得ようとか・・社会の干渉をきらって静かな余生でありたいとか・・四弘誓願の「煩悩無尽誓願断」(ぼんのうむじんせいがんだん)を、坐禅(悟り)による境地で、断ち切りたい執念の人であると言えましょう。
しかし坐禅する心構えが、最初のスタート時点から間違っています。瓦を鏡にする無駄な努力と申し上げておきます。
悟りは見性とか大覚とか・・無我の正覚ともいわれますが、その状況が最も近い言葉は「解脱」ゲダツです。蝉が地上に出て、その抜け殻を脱して鳴き始めるのを蝉脱(ぜいだつ)といいます。
それを禅になおして書けば「禅脱」です。
しかし、この禅脱は・・たとえ自分が必死に努力したり、希望したり欣求したり、集中(三昧・ザンマイ)したりしたからといって、セミが抜け殻を脱する(蝉脱・ゼイダツ)の如く、悟れる訳はないのです。
かえって(坐)禅を、我執我見で生殺しにし、坐禅する思いを増長させておいて、唯我独尊デアルことを決めこむ・・それが一番、禁じ手です。
・・してはならないことなのです。
禅は「煩悩即菩提」(ぼんのうソノママが悟り)です。
注・・共に 両忘しなければならない言葉です。煩悩が菩提になる訳ではありません。
決して、誓願して断じて切り捨てられるシロモノではアリマセン。
唐代の禅者 馬祖道一(ばそどういつ)と、その師 南嶽懐譲(なんがくえじょう)との禅話に「磨塼(ません)問答」があります。
若い弟子、馬祖道一が、ヒタスラ坐禅に打ち込む姿を見て、師の南嶽懐譲が瓦を磨き始めます。不思議に思った道一が「何をしているのか」・・と師に尋ねますと「鏡にしようと磨いているのだ」
馬祖「瓦が鏡になる訳がありません」と否定すると・・「坐禅して悟れる者になれるわけがない」と無礙(むげ)にいわれて、省悟(ハット気づく)する(後年の馬祖山)道一。
禅寺の専門道場では、昔、告報といって、禅堂の先輩が警策(けいさく)をもって、ぐるぐる回りながら、坐禅中の者を励ますために、集中心を養う事例など話して聞かせる風習があったと聞きますが、この「カワラをみがいて、カガミ」とする話(磨塼作鏡)など、僧堂の坐禅中に聞かせてやる老婆(親切)心がアレバナア・・と思います。
*四弘誓願・・衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道(禅への道)無上誓願上・・
*馬祖道一(709~788)この当時から、坐禅すれば悟りを得ることができる・・といった修行上の話が出回っていたと見えます。寺僧の専門道場での集団修行や接心など集中修行では、魔境など心理学上のノイローゼになったりすることがあり、そこまで無理しても、悟れることはありません。釈尊ですら、難行苦行の修行では悟り得ないことを知って、身心ともに、ベストコンデションで、独り坐を組まれたのです。しかも、悟られたのは、菩提樹下、坐禅をとかれて、フト・・暁の明星をご覧になられてのこと・・坐禅中にではありません。
(坐禅したから悟りが開けるものでは決してありません)