【お知らせ】全編を当面・・編集(削除・改稿)中・・3/28~

禅・羅漢と真珠

元服の書・・瓦(カワラ)を磨けば、鏡になるか?「磨塼作鏡」マセンサキョウ・・禅の問答。

中国(支那)唐代、馬祖道一が師の南嶽懐譲とした・・坐禅は瓦をみがいて鏡にするようなものだ・・との話。

中学・高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の問いに答えて書いています

無功徳(役立たず)の「独りイス禅」長年やって悟りを得られますか?

この問いを発した方は、随分の間 禅寺で坐禅をなされたであろう・・と思います。坐禅は安楽の法門であるとか・・精神を静めるためにとか・・空(観・無念無想)になり切ろうとか・・公案を思考して、より評価の高い答えを得ようとか・・社会の干渉をきらって静かな余生でありたいとか・・四弘誓願の「煩悩無尽誓願断」(ぼんのうむじんせいがんだん)を、坐禅(悟り)による境地で、断ち切りたい執念の人であると言えましょう。

しかし坐禅する心構えが、最初のスタート時点から間違っています。瓦を鏡にする無駄な努力と申し上げておきます。

悟りは見性とか大覚とか・・無我の正覚ともいわれますが、その状況が最も近い言葉は「解脱」ゲダツです。蝉が地上に出て、その抜け殻を脱して鳴き始めるのを蝉脱(ぜいだつ)といいます。

それを禅になおして書けば「禅脱」です。

しかし、この禅脱は・・たとえ自分が必死に努力したり、希望したり欣求したり、集中(三昧・ザンマイ)したりしたからといって、セミが抜け殻を脱する(蝉脱・ゼイダツ)の如く、悟れる訳はないのです。

かえって(坐)禅を、我執我見で生殺しにし、坐禅する思いを増長させておいて、唯我独尊デアルことを決めこむ・・それが一番、禁じ手です。

・・してはならないことなのです。

禅は「煩悩即菩提」(ぼんのうソノママが悟り)です。

注・・共に 両忘しなければならない言葉です。煩悩が菩提になる訳ではありません。

決して、誓願して断じて切り捨てられるシロモノではアリマセン。

唐代の禅者 馬祖道一(ばそどういつ)と、その師 南嶽懐譲(なんがくえじょう)との禅話に「磨塼(ません)問答」があります。

若い弟子、馬祖道一が、ヒタスラ坐禅に打ち込む姿を見て、師の南嶽懐譲が瓦を磨き始めます。不思議に思った道一が「何をしているのか」・・と師に尋ねますと「鏡にしようと磨いているのだ」

馬祖「瓦が鏡になる訳がありません」と否定すると・・「坐禅して悟れる者になれるわけがない」と無礙(むげ)にいわれて、省悟(ハット気づく)する(後年の馬祖山)道一。

禅寺の専門道場では、昔、告報といって、禅堂の先輩が警策(けいさく)をもって、ぐるぐる回りながら、坐禅中の者を励ますために、集中心を養う事例など話して聞かせる風習があったと聞きますが、この「カワラをみがいて、カガミ」とする話(磨塼作鏡)など、僧堂の坐禅中に聞かせてやる老婆(親切)心がアレバナア・・と思います。

*四弘誓願・・衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道(禅への道)無上誓願上・・

*馬祖道一(709~788)この当時から、坐禅すれば悟りを得ることができる・・といった修行上の話が出回っていたと見えます。寺僧の専門道場での集団修行や接心など集中修行では、魔境など心理学上のノイローゼになったりすることがあり、そこまで無理しても、悟れることはありません。釈尊ですら、難行苦行の修行では悟り得ないことを知って、身心ともに、ベストコンデションで、独り坐を組まれたのです。しかも、悟られたのは、菩提樹下、坐禅をとかれて、フト・・暁の明星をご覧になられてのこと・・坐禅中にではありません。

坐禅したから悟りが開けるものでは決してありません)

よくある話ですが、坐禅や瞑想に魅かれて、道場に通ったり、写経や精進(点心)料理つきの説法・坐禅に、お仲間とホッツキ歩く御婦人方に多く見かけるが、せめて坐禅、瞑想を・・チンするレンジと心得て、牛乳を温めて飲み干す程度に・・独りイス禅を、気楽になされることを推奨します。

悟り(解脱)・・など、目指さなくてよい(坐)禅であればと思います。

*折あれば 無理やりの坐禅修行での「魔境?」話とか・・誰でもスグできる盤珪永琢(ばんけいようたく)の「不生禅」を紹介しましょう・・

有(会)難とうございました。

はてなブログ 禅者の一語・・碧巌録自由訳、編集中!

はてなブログ 禅のパスポート・無門関 素玄居士提唱復刻編集中!

はてなブログ 羅漢と真珠・・独りイス禅、禅の心禅の話 編集中