独り坐禅で自覚する「行い」の大事さ!

元服の書 NO60              

中学・高校生と~第2の人生を歩む方に答えて書いています 

現代・・禅は寺僧の介在する宗教ではアリマセン。

独り坐禅により自覚する【禅ニヨル生活】行いです。

釈尊仏陀(覚者)の教えを民衆に説かれたのは、独り菩提樹下の坐禅のあと、暁の明星をご覧になって、文字にも言葉にも表現できない・・大覚(見性)をなさり、この「衆生、本来、佛(菩提、覚者)なり」の真実を、できるだけ解かりやすく説かれたのです。

佛(陀の)教とは 悟りたる者の教えの意であり、そのモト・・原点(宗・玄・元・素)の教え・・宗と教の意味でした。菩提達磨により紀元520年頃、海路、中国南海(広東・南京)に渡来以降(先にヒマラヤ越えで伝来した佛教教団や国政・戦争の迫害を受けながら)それが日本に伝来し、欣求宗教として今日に至っているのです。

確かに、千五百年以上の今日に至る、寺僧、禅集団の組織、長い揺籃期がなければ、臨済(宗)曹洞(宗)黄檗(宗)など、個性的な祖師禅(宗のモト)は、日本で三本の太い枝を持つ大樹として根を張ることは出来なかったことでしょう。

しかし・・二十一世紀、もう、そうした伝教の時代は終わりました。飛行機や自動車・人工衛星。無線、PCなどの電子機器の革命、原爆などの大量絶滅兵器の保持、開発。地球気候変動、環境破壊など、それぞれ主義主張する国々では制御不能なIT文明の社会が乱立、誕生し、それに追い打ちをかけて、経済・産業・生活の格差社会と混乱が「個」としての対応をそれぞれの人に迫っています。

禅は「独り・瞑想」する「行い」の原語です。

坐禅は座(家の中)ではなく、独り・一人が、直に土の上にドッシリと坐っている形です。

私は、この行禅こそ「独りイス禅」で、何の功徳(無価値、利権・損得)もない、役立たずの「行い」でなければ、悟り(見性)に至ることはありえず、その坐(禅の)境(地)は 寝起きから、朝食・仕事・就寝まで、朝な夕な、オリオリに少しの時間を割いて フト・3分間程度のイス坐禅を積み重ねるところに、より深い、向上の境地(自覚)が開けると確信しています。

ただ普通の10秒1呼吸を、18回程度。それで3分間になります。目は半眼で、背筋を伸ばし、複式呼吸(寝ている時の呼吸)で、目覚める時、寝る時、通勤電車の車中、吊革に手をやって・・休憩時間の3分間・・頭で比較・分析、効果検証、因果効能を追うことなく(そんな妄想は3分間ホッタラカシ)坐禅してください。思いや効能、造作を意識しない・・捕らわれない、独りポッチの3分間を生きてください。いずれは、18回の呼吸(数息観)も忘れ、野球のボールが止まって見えるとか、道に落ちていたタバコのフィルターが、白い土管に見えたとか・・湧く雲の如く見聞する誇大妄想が、いつの間にか消え失せる事でしょう。

そして役立たず(無功徳)の禅とか・・ご飯を食べたら、お茶碗を洗えとか、般若心経の色即是空とか、禅者の一語の公案、解説抜きで「なあんだ・・コンナKOTOだったnダ」と、チャント禅が「わが身について」あることを自覚されるでしょう。

まわり中、スマホをかざして歩く人が、足のない幽霊に見える時がくるでしょう。

遠く将来の私の夢は、火星とか土星とかを目指して、孤独に宇宙を旅するアストロノートが、無重力のロケットの中でクルクル回りながら坐禅している姿です。無線映像ですら、何時間、何日間のかかる「過去同士のやり取り」に耐えられるのは 独り1人に備わっている「無功徳の坐禅」のチカラしかアリマセン。そうした時代まで、世界中の誰かが・・独り3分間イス坐禅を、つないでいってほしいと願っています。

最近、出版の準備(校正、編集)が遅れています。               まだまだコロナ騒ぎが続きましょう。くれぐれもお大事に。                    

     有(会)難とうございました。

はてなブログ 禅者の一語・・禅ニヨル生活/碧巌録 意訳                                                  

はてなブログ 禅のパスポート・・禅機禅境/無門関 素玄居士復刻意訳                                  

はてなブログ 羅漢と真珠・・独り3分間イス禅/禅の心 禅の話