◆カクレンボ・・ご飯ですよ!・・の声かかり。

2019年12月9日 追記補足

12月1日から8日までの1週間は、釈尊が悟りを開かれた日として、これを1日間とみなし、臨済僧堂では「雲水の命取り」といわれる、ぶっ続け坐禅と師家独参の修行「蠟八大接心」がある。

釈尊が6年苦行の後、菩提樹下で端坐、夜明けの明星を看て、正覚を成じた由来を機しての接心会だが、食事と用便を除いて、坐禅三昧。眠るのは午前3時までの、僅か3時間の坐睡のみ。雲水が、これほど激しく公案と向き合い自分と戦う姿は、まず、修行中、無いといえよう。されば、本日の鶏鳴を迎え、熱い梅干し茶をいただく心持ちは、年老いても忘れ難いと云う。

禅は宗教の元という意味で禅宗といいます。宗派のことではありません。例え僧堂で何十人の雲水が、悪戦苦闘して正覚を求めても、坐禅、独参しての結果、得られるものではありません。坐禅釈尊、達磨、先達の禅者のとおり、たった独りで行うことが大事です。無理なく自然体で(現代人は)イス坐禅たったの3分間ぐらいの・・悟りなどの功徳や見返りを求めることなく・・役立たずの坐禅を、おりおりに繰り返すだけです。

時に、この・・はてなブログ 禅者の一語(碧巌録・意訳)や、禅のパスポート(無門関・素玄居士提唱、復刻意訳)、あるいは 羅漢と真珠(禅の心、禅の話)などから、ご自分の禅境(地)を確かめられる道標になさって、あせらず、たゆまず、独り坐禅を・・のんびり・・お続けになってください。

ただ、注意は、決して仲間づくりはなさらないこと。独りポッチ、寂寥の坐禅であることです。

座禅と書かず、坐禅と書いてください。

        雑感31 ◆時覚の自覚(Ⅱ)

かくれんぼ・・ごはんですよ・・の声かかり・・

「時間」というのは、武田邦彦先生のブログによれば、エントロピーの増大で、その変化である・・といわれる。社会の歴史は、過去・現在・未来へと、1方向に流れる時間経過の、人の群れとしての変化であるから、群団を統率した人の名は不要であろう・・と云われる。

科学的時間論や物理的分析、あるいは「君の名は」のような、出会いのすれ違い文学論はさておき、自心の時間について書いてみます。昔から、禅者の時間意識は、お腹がすけば食べ、日が暮れれば眠り、晨陽(しんよう)を視れば、野良に出て働く・・ことであった。時間感覚はあってない・・至極 独り感覚的な実際生活に基づいている。

例えば、西洋で時計や羅針盤が発明され、科学的文化的生活が発展したが、真の禅者は(現代といえども)「時計やスマホ」を持ちたくない上に、TVも見たくない人達と云えましょう。

せいぜい時事に関しては、新聞、ラジオを聴く程度。これで現代社会に、うまく適応できているか・・どうかは自身の自(時)覚次第なのです。当たり前のことですが、禅者の社会生活は、チャント、ルールとマナーを守っているし、社会の為に働いていく・・その姿は、世間からは「木偶の棒(雨ニモマケズ)」と呼ばれたり、木鶏とか閑古椎(カンコツイ)とか言われたりする・・時代の人物評価の範疇に入らない者なのだ。

禅者は、まるで、常に極点に境地立脚しているようだ。

東西南北の地図が要らない生活をしているのである。

昔、一休宗純の「無」の一字の大書を見たことがあるが、あまりの迫力に近寄れなかった。いわば、禅境(地のアマリの)深さを感じたのです。「ナルヨウニナル。心配スルナ」との、禅者の一語(遺言)の深きもケ・セ・ラ・セ・ラの歌の文句ていどの受け止め方では、悟境万里であろう。

だから、時間は人間が勝手に設定したものだ・・と思います。

つまり、人が「気になる出来事を気(嫌擇・造作)する時だけ、時間が生まれる」ので、気にしなくなると時間は消失してしまう・・と思います。

時間とは・・強力な利権の欲望・好嫌に拘泥する者にとって、また、自責の念にかられて苦悩する者や、自己犠牲の者など・・あるいは楽しく、面白く思う時や、他人の為に、何か役立つことを為している時は、長短、増幅のいずれを感じるのであろうか・・。

夕暮れ時・・カクレンボ・・「ご飯ですよ」・・の声かかり・・遠くで母の呼ぶ声を耳にした鬼役や、隠れている子供たちの、それぞれの遊ぶ時間は、統一されてはいないだろう。

そこに子供たちと「カクレンボ」に興じていた 五合庵の禅者、良寛はどうしたのであろう。

彼は、真っ暗になった道の端の草陰で隠れ続けていたが、村人に怪しまれて「シーッ・・静かに!鬼に見つかるではないか」と、独りしゃがんで「隠れんぼ」をつづけていたという。

良寛は、この不思議な時間の網から、自由に解き放たれていたのだろうか?。  

どうやら現代社会は、組織(システム)化され、電磁化され、自動化され・・時間(出来事)を気にする人の関りが、エントロピーの2乗で増大していくかのような・・スマホ依存症の増幅社会だなぁと思います。また、逆に、独り一人、同じ時間(概念)がない、電磁波社会ともいうべき現代であればこそ「役立たずの独りイス坐禅」の環境が整ってきた・・と思います。

もし、欧米の方が「ZEN」や「坐禅」に関心を持たれて、日本に来られたなら・・

「ZEN」を紹介された鈴木大拙先生の著作「Living by ZEN」(禅による生活)を読まれるよう、お奨めください。

面倒だとばかりに、京都や鎌倉の拝観料をとる有名な寺僧を紹介するような、無責任なことをなさらないように願います。

多少、瞑想やヨガなど、実践された方でも、純禅は、知識や集団の修行では得難い事・・独りイス禅(そのまま居眠りできる位の気楽で勝手な坐禅)で、腕時計が外せるようになり、TVやスマホやゲームやマンガから執着しない生活が出来るようになれば・・無門関(禅のパスポート/素玄居士提唱 意訳)ぐらい・・貴方の語学力で話してあげてください。

48則ある語録の内の、ただ1則・・自分が【?!?!】と思い、興味・関心を持った・・タッタ1則のZEN MONDOU【?】によって、疑心暗鬼の時間の網の目が氷解してくれればいいのです。

ご自分一人でなさる折々のイス坐禅で、本や他人の教導を受けず、矛盾を突き詰めていってください。何年か・・そうした孤独の坐禅をなされる内に、禅境が深まっていかれたことに気づかれることになるでしょう。

時に、独りイス禅にウンザリして、途中放棄してもかまいません。無理やり、自分が自分に押し付ける、強制的な坐禅はしないことです。いつかまた・・何かのキッカケで、必ず何処かから、独りイス坐禅の「呼ぶ声」が聞こえてきます。

注意すべきは、決して仲間を作ったり、禅の解説本を読んだりして、助けを呼ばない事です。

外国の方は、分析や検証する科学的な能力に優れています。神ですら契約に基づく信仰の、長い歴史をもつ民族です。無価値で評価しようのない「空・無・般若」は「光あれ」と天地創造された神の以前・・の自分とは何か・・を知りたい根源の好奇心の「呼び声」です。

論理では理解できないものですが・・といっても、頭脳は分析し比較し論理的心理学的にナントカ納得しようとします。

欧米にZENを紹介された、鈴木大拙先生といえど、禅への入門の方法を問われれると、「コツン!」とテーブルをノックされて「ここから どうぞ」と言われたそうです。

入門は「無門関」です。どこからでもノックして入れます。

見性(悟り)は、公案タッタの一則透過すればOK・・、俱胝(ぐてい)和尚は「指1本」を生涯、あやつって使い切れず・・雲門さんは「クソカキベラ」とケナシ付け・・趙州さんは「ご飯を食べたら茶碗を洗いなさい」と叱りつけた・・ZEN。本を読むと、少しは解かった気になりますが、実は思考作用だけで、迷うだけ・・独りイス禅が、禅ニヨル生活の基本です。

中国の禅者、大慧宗杲(だいえ しゅうこう1091~1163)は、禅が文字、説話の学習に堕して、実参実修であるべきはずを憂いて、碧巌録を焼き捨てたと云います。

私は、こうした社会にあって、間違いなく「時間」を気にかけない・・それでいて「時間・出来事」の只中にありながら、それを「面白い(楽しい)か、役立つ」かして、不惜身命に社会や人々に貢献している方・・それを「役立たず」まで掘り下げた方・・「禅ニヨル生活」をなしている禅者とします。

あえて一人、禅者をイメージすれば大愚良寛でしょうか。

私は、禅の原点である達磨(面壁)禅から、真っ新(さら)にリセットしなおさないと純禅は絶滅すると考えています。

遠い将来に・・国別、年齢、能力を問わない・・無功徳な「禅による生活」者が誕生することを・・ソレこそ夢見ています。

カクレンボしている・・次世代の禅者に呼びかけたい・・

カクレンボご飯ですよ!』の声かかり。

有(会)難とうございました。