価値がある・・価値が無い・・ということ・・

元服の書 NO㊱ 

価値とは何のことですか? 

中学高校生とその親御さんたち~第2の人生を歩む方の・・求道の問いに答えて書いています

価値がある・価値がない・・について、役立たずの坐禅とか、無功徳の禅とか言われますが、いったい価値とは何ですか?

禅では・・ここでは「禅ニヨル生活」・・禅者である私の独語として読んでください。

私は、言葉や文字で表現することに、出来るだけ囚(とら)われないようにしています。考えたり、思ったりすることは、人間の大脳が比較し分別することだからです。社会や科学の進歩は、比較、検証することで成り立っていますから、学校の教育にせよ、社会で働くにせよ、機能機作や効果効能を重視し、社会や自分に貢献する・・価値あるものを大事にします。こうした是非を判断する大脳(本能)の発達は、身を守る・・死から生命を守り、人間という種を増やすことの方法から進化を始め、感性(愛/大慈・芸術・宗教)と理性(知性・科学・哲学)ともに進化して、全宇宙で、ただ一つ・・人間種(約70億人)だけが、最も優れた能力=比較価値(計らいと造作)を知る生物となりました。

閑話休題(それはさておき)・・今、宇宙の彼方に、知的生命体を探査したり、微生物の存在をしらべたりしていますが、私は(科学的な究明は大事ですけれども)残念ながら 他の惑星に、未知の生物を発見することは無いと思っています。

約2500年前、釈尊釈迦牟尼世尊)の「天上天下 唯我独尊」・・宇宙で唯ヒトツの遺伝子を持つ、ひとり独りだから、比較分別すべき価値が無いゆえに「尊い」のだ・・と言われた教えを守ろうと覚悟しています。

どうやら人間種は、100億人ぐらいでピークを迎え、日本に限らず減少すると統計学で言っています。この説が正しい(物理的科学的思考・・光より早いものがない等)とすれば、火星や土星位ならまだしも、数千・数万光年かなたの惑星に、知的生命体による文明があったとしても、いったいどんな価値なり、危険があるものか・・わかりません。浦島太郎や竹取物語のSF版か、あるいは宗教の例え、地獄・極楽の話のように思えてくるだけでしょう。それよりも宇宙的観点からすれば、僅か100億(人)程度の数は、尊重すべき価値ある生命体と思えないのです。

ビフィズス菌ですら、100億といえば、スプーン1杯分、たった1回で口の中にペロリです。

むしろ、人間・大脳の比較価値観を離れて、この天の川銀河の、浜の真砂より多い辺境の星。この太陽系の3番目、水の惑星に・・比較すべきものがない独りの人間として、自覚する生命体がいる・・この寂寥感に満ちた生活をすること・・禅ニヨル生活・・が大事だなぁと思います。

昔、父から「金石麗生」と刻印された石印をもらい、年賀状に押しまくっていました。金銀珊瑚、玉といわれる宝石は、生じた時から、麗しく価値あるものである・・と評価される。この思い込みは大誤解でした。また禅は坐禅によって「悟り」を得る・・とか、坐禅は「悟り」の姿ソノモノ・・であるとか・・思考(試行)錯誤は止めましょう。嘘も方便はもういい加減、捨てないといけません。

 

私は過年、年賀状を廃しています。それでも頂く年賀状には、遅れて2月頃、普通ハガキに禅語録の気に入つた頌や詩文の一節を書いて、その片隅に・・今でも「金石麗生」の朱印を押すことにしています。

その真意は・・純金であろうと、路傍の石コロであろうと、すべて独尊に麗しく生じている(露堂々・麗赤々)との意からです。

2020年は、臨済義玄臨済宗開祖)の「無事是貴人」(ぶじ これきじん)とするか・・

洪 自誠の菜根譚からの一節「花看半開」(はなは はんかいをみる)とするか・・

いずれにしても、計らい、造作のない(無価値・無功徳)の禅者の一語を採用する予定です。

くどいようですが、私の提唱する「役立たずの独りポッチ・イス坐禅」は、価値・無価値を勘案せず、河原にころがる石のように坐禅することにあります。どこかの誰かが、漬物の重石(おもし)にと持ち帰られるのも勝手ですが・・。

*タクワン石となる・・これは、京都 南禅寺師家 故・勝平宗徹老師の言葉です。

有(会)難とうございました。