「よきかな、道を求める者は、まず始め、形を忘れる」

 【求道者との対話②】 

Q 欧米の人たちが、「ZEN」に関心を持つのは、どうしてですか?それでいて、ナカナカ「悟り」を理解できないのは、どうしてですか?

A 「禅」が「ZEN」(英語/対比文字)でないから、理解できないのです。そして、独り、自分を省(かえり)みる時間を持たないこと・・が原因です。

戦前から欧米で禅を紹介されている、故・鈴木大拙翁(仏教学者・禅者)は、科学的思考と文化の進展にたけた西洋に欠けていて、東洋にだけある霊性的文化・・「禅」のもつ真実=安心を教導するべく、沢山の英語本を著作されました。

しかし、残念なことに、あれだけ禅に精通なさった禅者であり、アメリカのご婦人とご結婚され、大学での哲学、宗教の研究生活が長期にわたった方であっても、科学的(分別的)考え方の欧米民族には、難儀な「禅」であったと思います。いかに東洋の・・とりわけ中国から日本に伝燈された禅を、「ZEN」として西洋に伝えようとしても、禅⇒ZEN・・にならない、深い生活・文化の溝=違いがあったのだ・・と解釈しています。

西洋哲学を含めて、科学的文化の土壌は、麦と米の主食の違いだけでなく、根源的な言葉=文字=思考の違いがあるからです。

まして、西洋の科学的な生活・文化は、日本に、明治のザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする・・楽しく(面白く)て、役立つものであり、進歩と繁栄をもたらしてくれました(同時に退廃と怠惰が比例してありますが・・)

私は、かって・・ギリシャクレタ島のミノス王、クノッソス宮殿を観光して驚きました。

何千年も昔・・縄文人の頃、地中海では、すでにオリーブの木陰の石畳の広場で、ディオニソスバッカス・酒神)を祝い、謳い、パントミーモス(パントマイム・演劇)を観賞して、人間としての生活を享受する文化・・トイレは水洗です・・があるとは!

以来、欧米の生活の底辺には、すべてに、科学的思考=相対的哲学と、論理性とも言うべき、分析、分別、検証、反省、革新の比較精神が脈々と、現代まで継続しています。

ここにインドから中国、そして日本(西欧から見れば・・極東)の、般若、空観、無の・・「禅」による生活を、たかたか100年ほど、仏教にミックスして、ごく限られた関心のある人に紹介しても、大海に一滴のインク壺です。どれほどの効果効用、機能機作が期待できましょう。

故・鈴木大拙先生は、禅(による生活・悟り)の教導は、無辺(むへん)誓願度(せいがんど)=これから千年ほどの時間をかけて、限りなく行うべし・・と言われています。

現代、欧米にかぎらず、日本人も、この科学的で相対的な文化に適応して先進国の仲間入りをしています。けれども、悪い状況で言えば、若者にスマホ依存症の伝染病患者が増えています。

また、今までの宗教的「禅」は、寺僧の継承、修行に組織的な教育体制を採用してきた結果、「悟り」を温室栽培の接ぎ木方式や、コウノトリの人工ふ化のように伝承できるものとしてきました。

「禅=悟り」は、あまねく満ちてありながら、見えず掴めず、宇宙のダークマターのように・・物理学の量子的作用のように・・不思議な働きを心に示すので、イヨイヨ、大悟徹底の禅者は、絶滅危惧種から、絶滅種となりました。

昔の禅語に「よきかな、道を求める者は、まず始め、形を忘れる」とあります・・

でも、洋の東西を問わず、人間には・・どうしても・・これでいいのか?幸せとは何なのか?何故、死や苦しみがあるのか?など、心の奥底から、どこともなく湧いてくる「問いかけ・・?」があります。これは哲学や心理学、神仏・宗教にすがろうと、否定しても達観しても、真にそれぞれの人が自分で納得、覚悟するまでは、喉の渇きのように、湧き上がる自分への問いかけです。

禅は、古くは釈尊の前に絶滅したこともありましたし、達磨の面壁禅が中国で広まって、その後にも・・あるいは日本でも、著名な一休や白隠良寛・・南天棒、山頭火・・に前後して、幾度となく絶滅を繰り返しています。

しかし、釈尊の大覚以来・・誰彼に伝導出来ない、個の自覚にかぎる「禅」は、途絶えた・・ように見えても、どこか・・独り坐禅する人に・・櫱(ひこばえ)が芽吹く・・と確信しています。

旧来の、結跏趺坐の足が死んでしまう、宗坐禅ではなく、誰でもすぐできる「独りポッチ禅=純禅」を、関心のある方に、どうぞ教えてあげてください。(注意・目をつぶる瞑想ではありません)

参考になるのは、機械文明や科学の発達に頼らない、千年前の禅者たちの「禅による生活」・・碧巌録と無門関の禅語録だけです。どの話(公案)も、論理や心理、物理など科学的な分析・検証・判断が出来ない・・内容です。

PCなら、割り切れない矛盾の命題ですから、回路がショートするでしょう。役立たずの「独りポッチ禅」・・坐禅は、頭脳に絶対の矛盾を与えて、思考を霧散させるのです。我利我利妄者(がりがりもうじゃ)の人間には、坐禅が無価値、無利益だと認識させることが思考(有無分別)両忘の早道です。昔の禅語に「よきかな・・道を求める者は、まず始め、形を忘れる」とあります。

形とは=色のこと(色不異空=般若の意)

欧米人がZENを⇒「禅」のことに理解してくれるまで、どれだけの時間がかかろうと構いません。

それに、スマホやAIが、広く、瞬時に世界につながっている・・革新の社会になってきて、私ですら、このように発信できるのですから・・。

     

求道者との対話① ・・Q「禅による生活」と禅によらない普段の生活の違いを教えてください。

◆独り3分間ポッチ禅と、厳しい禅寺の坐禅修行の違いを教えてください。集中力、坐禅する意思力、持続力、決断力がないと禅は悟れないというのは、本当ですか?

◆A⇒悟りは独りボッチで千差萬別・自業自得でのみ≒盤珪 不生禅・・関心のある方、悟りのありようを自分で調べて見て下さい

貴方が、悟りを希求する人間の本性により、例え、見性透過をしても、それだけでは「安心」(あんじんと言います)できる生涯が得られる訳ではありません。少なくとも、命の根源を見徹したのですから、自分の生活の中に、空気や水のように、その必要を生かしていくことが大事です。どこからか湧く求道の究極は、禅(一真実)これを、日常の生活の中に、特別のモノでなく、当たり前に実行していくことを「禅による生活」というのです。

禅は行住坐臥・暮らしそのもの。何らの外見変化はアリマセン。

この言葉は、故、鈴木大拙先生「living by Zen」(株)春秋社 1948年発行の英文版、タイトルから発見した。著作では、欧米の若者の、禅についての関心が高まっているので、伝統的な見方をかえて禅を紹介したいと、前書きされている。    

【禅とは生きることであり、禅は生活である。生きることが禅なのだ。つまり、われわれは禅そのものを生きているのだ、(中略)例えば、犬は、まさに禅に生きるけれども、禅によって生きるのではない。禅に生きると同時に、禅によって生きるのは人間だけである】抜粋・・

私が推奨する坐禅は、中國から日本の寺僧に伝燈された、宗教の修行集団の坐禅ではありません。ただし、宗教色が薄い、盤珪の「不生禅」に惹かれる点、多々にあります・・が、その教導に、まだまだ心理的な「計らい・・造作」があり、おのずから発芽してくる「ZEN」の純粋な振る舞いに一任する「自然さ」に乏しいと感じます。

 

まして、欧米の「ZEN」への関心に限らず、電磁的情報機器(スマホ・PC・AI)に蹂躙されている日本の現状は、おぞましいほどに無関心、無責任、無気力で、主体性のないゾンビ社会です。禅寺の跡継ぎには、禅の促成、温室栽培の坐禅に、僧堂、師家一丸の、気力や集中力、意思力、決断力が必要かもしれませんが、旧来の伝統的修行の専門道場、僧堂では、苦行、嫌気、習慣的怠惰が蔓延して、まず跡継ぎさえ満足に育ちません。

まして、古今の、達道の禅者たちの「禅による生活」の語録をひもとけば、悟りは天地同根・・日常生活や行脚、師を求める放浪の求道者の中に、自由に発芽し、自然に開花見性する事例の多いこと。千差萬別のまま、一真実を1箇半箇する禅者が禅語録の中を闊歩しています。

彼ら、達道の禅者は、誰からの関与も受けず(本やスマホから干渉されずに)独りボッチ禅をしているのです。

どうやら、これからの世紀は、ZENの・・「禅による生活」を育てる手立てとしては、集団、組織を捨て、箇(孤・個)に帰って、独りポッチで坐禅する・・それが坐禅だ・・と信じます。

禅は宗教ではない証拠に、浄土真宗南無阿弥陀仏/妙好人)にだって、また、キリスト教の中だって、言い方こそ違え、煩悩即菩提・・悟り・・はチャントあるのです。

*浄土は言葉の要らぬ世界である。人間の世界は言葉の必要な世界である。地獄は言葉の通じない世界である(曽我量深/游煩悩林 平成29年11月号/東京都石神井町 順正寺)

*禅(悟り)は、一人から一人へと手渡し出来るものではない。それは絶対の個人が伝達しようにも出来ない創造的体験である(馬祖の弟子、盤山云く)

*何千の禅者が得たといわれる、どんな悟りも、悟りというべきものではない。これが悟りだと示しうる悟りは悟りではない。人が体験しうる、いかなる経験からも、一つだけ取り出しうる特別の経験ではないからだ(宋代の禅者、慈明)

 欧米の場合、40までに5億円ためて、あとは好き気ままに暮らして何が悪い・・の、全くの格差社会・・人間にだけ自覚される大切な時間を、スマホゲームやTVに浪費する。

その風潮は日本にも蔓延している伝染病です。

人がZENにより自覚できるのは、言葉でもない、文字でもない、欣求宗教、科学・心理・哲学の分析、成果検証でもない、独りボッチの3分間の・・役立たぬ坐禅のただ中の「これ・是れ」だ・・といえましょう。

 

結論・・今や、役立たずの・・独りボッチ禅だけが「悟り」への手立てです。例え、何か悟りの兆しを・・省悟、自覚しても、千回ぐらいは、間違いだし、誤解だし、偽りです。

禅のいう「これ是れ」ではありません。純禅の大悟は・・無門関48則、碧巌録100則・・自分の見解(けんげ)=頌をつけて、はじめて自身が得心して、禅のことを少しは理解した、禅による生活が行うことができた・・と言えましょう。

 

 

◆坐禅の時に「四弘誓願(しぐせいがん)」を読誦しますか?

 

坐禅の時に「四弘誓願(しぐせいがん)」を読誦しますか?

衆生無辺誓願度(しゅうじょうむへんせいがんど)・・多くの迷える人々を済度しよう

煩悩無尽誓願断 (ぼんのう むじんせいがんだん)・・湧き出る煩悩を断ち切ろう

法門無量誓願学 (ほうもんむりょう せいがんがく)・・酌めども尽きぬ教えを学びとろう

仏道無上誓願成 (ぶつどうむじょうせいがんじょう)・・無上の悟りを達成するように・・

 

結論から申し上げます。

独りポッチ禅では・・何か成果を欣求したり、出来ないかも知れない約束を、高らかに誓願するようなことをしてはなりません。

過去、仏教界(禅宗・寺院・僧侶)は、修行や法事の折ごとに、このような四弘誓願を読誦して、厳しく己の至らざるを戒めてきました。

しかし、私は・・禅(坐禅)は、般若心経に道う「色即是空=煩悩即菩提」であると確信しています。

それを「断ち切りがたい煩悩を断ずることを誓い、願う」など、堂々と読誦できる心が理解できません。例え、生業として宗教派・組織の運営上、大事な戒律であるとしても納得できません。

達磨は無功徳といい、六祖恵能は、菩提もと樹なしといい、臨済は「造作するな」と戒め、曹洞では「坐禅そのままが、悟りである」と言うそうですが,本流で「煩悩即菩提」を言い、その片方で「煩悩を断ずることを誓願する」という・・矛盾を、昔から、禅宗界や禅(哲?)学界の学者たち、誰一人、異論反論しないでいること・・に、集団組織=宗教界の驕り、造作を感じます。煩悩(そのまま菩提)を断じるは、悟りに通ずるから、ソレでいいのだ・・と、どこかの偉い老師様が言われたとしたら、ZENを誤解すること・・はなはだしいと云えましょう。

仮に、煩悩は尽きることなく湧いてくる雲のごとし・・ですが、少しでも減滅するよう坐禅努力していこう・・との意である・・として嘘も方便・・「断」の字を「滅」に置き換えることは、文字・言葉(方便)言い換えにすぎず、それは、見性=悟りではありません。

ソレヨリカ、人は・・悪人ゆえに、弥陀の本願(往生)あり・・とする、愚禿(グトク=禿げ頭の愚人、親鸞の正直な教えに、私は合掌します。

親鸞の教えには、独り・・己が身を預ける純粋な祈りにワザとらしさがありません)

世界にZENを広めた故・鈴木大拙は、仏教学者であり優れた禅者であると思っています。もし彼の師翁に問うことが出来たら・・人が煩悩を断じる、奇跡を成したとしても、それは断続の二元の分別・・邪見であり「即非の論理=悟り」ではない・・として、禅に程遠い見解であると言われたことでしょう。

「禅」には、人情、作為、仏心、妄想、求道、宗教・欣求、誓願、主義、倫理、哲学・・文字、言葉で例えられる一切が「無い」のです。それを断ずることは、生命を断滅することになります。

現代の宗教、寺院禅は、観光禅として拝観・葬儀料、坐禅指導料?写経・点心料などと共に、ホソボソと存続するでしょう。でも、もはや「純禅」は絶滅種であるという証拠こそ、積年、禅寺の坊さんが唱えてきた「煩悩を断ずる」という・・この矛盾した誓願なのです。

これからの・・禅は、宗教ではなく、東洋の知恵=「禅による生活」として、世界の人々に関心をもってもらいたい。

だが、そのため純禅を教導する真の禅者が日本で新たに誕生するのは、何百年も待たねばならないでしょう。欧米人の、論理、哲学的、科学的、心理学的、二元的な分別思考からは文明文化の発展、進化は期待できても、残念ながら達道の禅者は生まれてこないでしょう。禅の悟道、体験は、どうやら・・日本人の繊細であいまいな遺伝子にカスカニ残されているにすぎないようです。

その櫱(ひこばえ)の一株が、「独りポッチ禅」であれと願っています。果たして、百年後・・千年後・・宇宙時代に無重力の宇宙船内で、独りポッチ禅が「盆栽」でもいい・・一枝の実を付けた樹に育ってくれているかどうか・・!

独りポッチ禅は、何の役にもたたない「坐禅」です。10秒1呼吸とすれば、18回(180秒=3分間)独りで眼を半眼に数息するだけ・・四弘誓願などの欣求誓願や経文、効能書きは不要です。