この奉魯愚(ブログ)の中に出てくる「佛」の文字は、ことごとく「禅」の文字に変換してお読みください!

私が意訳しようといる禅本「碧巌録」・「無門関」にしても、以下、臨済録も「佛」の字は、すべて「禅」の文字に置き換えて読まれるよう推奨します。

現代人には「佛」の字は、仏教とか、教祖=釈迦牟尼仏とか、ずいぶんと宗教めいたイメージに束縛されて、純禅とは程遠い言葉だからです。

禅が中国にもたらされたのは、菩提だるま(約1500年ほど前)のこと。佛心宗として寺僧の揺籃を得て、日本に伝えられました。欣求(ごんぐ)宗教の1派として成立しましたが、教外別伝・不立文字・・文字に書けない、仏陀の教え(仏教)の別のこととしてでした。別段、経典もなく、釈尊(仏像)に祈願することもなく、ひたすら面壁9年の達磨さん(坐禅三昧)で足がなくなったといわれた奇異な集団でした。

デジタル社会に至った20世紀後半から、ようやく個(孤独)の時代となり、禅を紹介した仏教学者・禅者 鈴木大拙翁の功績によります。

宗教から脱皮した「禅」を、宗教でも、哲学でもない「禅ニヨル生活」の1歩が始まっています。

以下【2024ー4-24 個人履歴のため 中略しました】

禅者の一語 出版時に紹介する、臨済の見性の偈(PHOTO)を見るまでもなく、臨済宗の宗祖  臨済義玄(?~867)は、臨済録「行録」の部、鳳林に到っての問答「弧輪独照 江山静 自笑一声 天地驚」こりん ひとりてらして こうざんしずかなり おのずから わらういっせい てんち おどろく・・月輪、江山湖水を照らして静かなり。大喝一声 天地驚く・・相対を絶した弧月、妄想煩悩のザワツク世にあって抜き差しならぬ静けさだ。恐ろしい臨済の向上の一喝で、禅(全)世界が粉微塵になったぞ(臨済録講話 釈宗活著(昭和16年 光融館 発行。抜粋)

この偈(書)は 一見するだけで、禅機禅境の近づきがたい迫力に圧倒されます。  

このPCに写しかえる方法がわからず、掲載できません。お許しください。

文章が散逸しました。まとめます。

表題の通り、臨済録の「佛」の字も、碧巌録や無門関の(佛)の字も、禅本に関する限り「禅」に読み替えて看よと、言外に教えたもらったのは、仏教学者であり、禅を世界に紹介した鈴木大拙先生の著作でした。

現代は・・団体の修行道場や寺僧の教導から卒業して、一人・独りにある「禅」の自覚・発見に勤(いそ)しんでもらいたいと願います。

私は【3分間独りポッチいす坐禅】を提唱しています。

誰にも言わず語らず ひとりだけで イスなりベッドなり電車の中でなり‥呼吸の数息(10秒程度)18回‥行うだけ。無功徳・無垢(効)用に徹した禅行です。

有(会)い難うございました。

【2024年4月24日 修正・省略・編集いたしました】